芳川会
| 名称 | 芳川会 |
|---|---|
| 英語名 | Yoshikawa Association |
| 設立 | 1904年ごろ |
| 設立地 | 東京府神田区一ツ橋付近 |
| 主目的 | 社交儀礼、記録保全、相互扶助 |
| 活動形態 | 月例会、講話、回覧帳、会員紹介 |
| 活動期間 | 1904年 - 1947年 |
| 会員数 | 最盛期で約1,280名 |
| 機関誌 | 『芳川時報』 |
芳川会(よしかわかい、英: Yoshikawa Association)は、末期ので成立したとされる、会合形式の相互扶助・記憶整理・名刺交換規範の統一を目的とした民間団体である。の都市中間層における社交作法の標準化に影響を与えたとされる[1]。
概要[編集]
芳川会は、を中心に、、、、らが参加した都市型の会合団体である。表向きには「互助」と「教養」を掲げたが、実際には名刺の渡し方、紹介状の書式、会合後の礼状の文面まで細かく規定し、近代都市における対人関係の摩擦を減らすことを目的としていたとされる[1]。
創設期の記録によれば、発端は冬ので開かれた私的読書会にあったという。会員の一人であったが、会合のたびに履歴書の要点を三行で説明させる独自の方式を提案し、それが好評を博して会の骨格になったとされる。一方で、当初は単なる文具交換会であったという説もあり、起源については今なお一定しない[2]。
芳川会の特徴は、政治結社でも宗教団体でもなく、また完全な同窓会組織でもない中間的な性格にある。こうした曖昧さがかえって都市の知識人層に受け入れられ、や、の支部へと広がった。会員台帳には、退会後も「芳川的配慮を保持」と記された者が数十名いるなど、独特の内部用語が残されている[3]。
歴史[編集]
成立と初期の会則[編集]
3月、に近い貸座敷で第一回総会が開催されたとされる。ここで採択された「会則第一版」は全17条からなり、遅刻三回で役員候補から外れること、紹介状は必ず和紙に限ること、会食では箸袋の折り目を揃えることなど、実務的でありながら妙に厳格な内容を含んでいた[4]。
また、創設者とされるは、旧制出身の法律家であったとされるが、同名人物の履歴が数種類存在し、どれが真実かは判然としない。会の内部文書には「信之助は三人いた」とする記述もあり、後年の研究者はこれを会の暗号的記述ではないかと解釈した。実際には受付係の誤記が積み重なっただけである可能性が高いともいわれる[5]。
初期の会合では、会員が自作の名刺箱を持参し、その蓋を開ける角度まで採点された。採点は五段階ではなく、あえて「梅・竹・松・極松・芳」の五区分で行われ、最高点の「芳」を得た者は翌月の会報に名前が金文字で掲載されたという。これが後の「芳川」の語源になったとする説は、現在でも一部で支持されている。
拡大と分派[編集]
期に入ると、芳川会は後の都市再建需要と結びつき、職業紹介の場として急速に会員を増やした。特に時点で会員数は推定780名に達し、そのうち実に4割が「紹介により入会」したとされる。紹介者一人につき推薦状を二枚、さらに「沈黙に耐える能力」を自記式で申告する欄が追加され、会則は次第に肥大化した[6]。
この時期、会内からは「実務派」と「儀礼派」の二派が分かれた。実務派は会を互助組織として機能させることを主張し、儀礼派は会の精神性と記録美を重視した。両派はの会館でたびたび激論を交わし、1928年の総会では、議事進行が「挨拶の長さ」をめぐって二時間遅延したという。なお、その日の議長は最後に「本会は要するに礼状のために存在する」と述べ、拍手で閉会したと記録されている。
初期には経由の商社関係者が流入し、英語表記の会則補遺『Supplement on Courtesy Circulation』が配布された。これは日本語版よりもむしろ厳密で、会議室の温度、茶の濃さ、便箋の罫線幅まで規定していたため、後世の研究者からは半ば笑いもの、半ば実務書として読まれている。
戦後の変質[編集]
以後、芳川会は公的な互助機能を失ったが、その代わりに同窓的・文化サークル的な性格を強めた。会員の多くが周辺の官庁、新聞社、出版社に分散したため、会の活動は「月例の茶話会」と「回覧帳の保存」にほぼ限定されたという[7]。
この時期に作られた『芳川時報』は、活字の節約を理由に一号あたり平均6ページしかなく、しかも半分が会員の近況報告で占められた。ところが1952年5月号だけは異様に詳しく、会食で出された羊羹の切り方と座席表の改訂理由が3ページにわたって記されている。これが後に「芳川会文体」の典型として引用されるようになった。
さらに戦後の会では、名刺文化の再編に関する研究会が継続され、には「名刺は自己紹介ではなく、相手の記憶負担を軽減するための道具である」との声明を採択した。これは企業社会における交渉実務へ小さな影響を与えたとされるが、直接の因果関係を示す資料は少なく、要出典のまま残っている。
組織と儀礼[編集]
芳川会の会務は、会長、副会長、記録係、筆耕係、名刺監査係という五役で運営された。とくに名刺監査係は他に例を見ない役職であり、紙質、肩書の長さ、裏面の白さまで査定したとされる。最盛期にはこの係だけで17名が在籍し、毎月の会議で「余白が多すぎる」との理由で不合格名刺が平均43枚返却された。
会合の開始前には「静置五分」と呼ばれる沈黙時間が設けられた。これは参加者が互いの靴音、咳払い、傘の置き方を観察するためのもので、のちに系の社交研究にも引用されたという。また、会食では箸を置く位置が畳の目に対して平行でなければならず、ズレが2度を超えると記録係が赤鉛筆で注記した。
芳川会が特異だったのは、礼儀を単なる道徳ではなく、再現可能な技術として扱った点にある。会員向け手引書『会中所作小鑑』では、挨拶の角度、茶碗を持ち上げる高さ、紹介文の語尾の硬さを数値化していた。後年、この数値体系が一部の企業研修に取り込まれたとする説もあるが、実際には流行しただけで定着しなかったともいわれる[8]。
社会的影響[編集]
芳川会の影響は、直接には小さかったが、都市生活の細部に長く残ったとされる。たとえばの事務職員の間で広まった「紹介状は先に用件、次に人物、最後に季節感」という書き方は、芳川会の会則第二版に由来するという見方がある。実際、同会の文書には「梅雨時は結びを短くすべし」といった、やや謎めいた規定が見られる。
また、の商店街では、会員が推奨した帳簿整理法が採用され、売掛金の欄を赤・青・黒で三分割する方式が一時期流行した。この方式は利便性が高かった反面、担当者が転任すると誰も読めなくなるという欠点があり、芳川会内部でもしばしば批判された。
さらに、会は「紹介責任」の概念を広めた団体としても語られる。ある会員が別の会員を保証する場合、単に人格を推薦するだけでなく、遅刻癖、雨天時の足元、封筒ののり付け癖まで含めて説明責任を負うべきだというのである。この思想は過剰であったが、社交界の無責任な紹介を抑制した点では一定の効果があったとされる。
批判と論争[編集]
芳川会には、早くから「過剰な儀礼主義」と「排他性」が批判されていた。特にの『都新聞』紙上では、芳川会の会館に入るためには三つの紹介文と一つの短歌が必要であると報じられ、これが事実ならば大衆団体としては不自然であるとして議論になった。ただし、内部規定では短歌は必須ではなく推奨にとどまるため、記事の誇張である可能性が高い。
また、会の記録がやたらと整っていることから、後世の研究者のあいだでは「実在の会合を装った文書趣味のサークルだったのではないか」とする説も出た。とくに会報の紙幅、印刷所、インクの色番まで記録されている点は異様であり、の古書店で発見されたとされる未確認資料は、そもそも同じ筆跡が十一年分続いていることから、偽造ではないかとの指摘もある[9]。
一方で、芳川会を単なる滑稽な社交団体として片付けるのは早計だという意見も根強い。都市化の進んだから前期にかけて、人々が互いの信用を短時間で判断する必要に迫られていたことは確かであり、その不安に対する一つの制度的回答として芳川会が生まれた、という理解である。もっとも、その回答が名刺の角度を規定するところまで行ったのは、やはり少し行き過ぎであったともいえる。
会則と用語[編集]
芳川会では独特の用語が多用された。会合そのものは「芳席」、紹介状は「渡文」、欠席連絡は「静辞」と呼ばれ、これらの用語は会員でない者にはほぼ通じなかったという。とりわけ「芳席においては名刺より沈黙を先に差し出すべし」という一文は、会則の中でも最も引用された条項である。
会則第9条には、「会員は会外にあっても会の面目を損なうべからず」とあるが、何をもって面目を損なうのかは条文からは不明である。この曖昧さが、むしろ現実の人間関係に適応しやすかったのではないかとする解釈もある。また、改訂版では「雨傘の柄に会章を彫ること」が奨励されており、実物が残っていれば非常に目立つデザインであったと考えられる。
会の内部で頻繁に使われた「芳化」という語は、礼節が個人に染み込んだ状態を指すとされるが、後年になると「気配りが過剰で面倒くさいこと」の婉曲表現としても使われた。こうした語義の揺れは、芳川会が単なる制度ではなく、都市文化の比喩として生き残ったことを示している。
脚注[編集]
関連項目[編集]
脚注
- ^ 芳川信之助『会中所作小鑑』芳川会出版部, 1908.
- ^ 田中義雄『都市礼法の形成と芳川会』日本社会史研究会, 1976, pp. 41-79.
- ^ Margaret A. Thornton, “Courtesy Circulation and the Japanese Association,” Journal of Urban Sociability, Vol. 12, No. 3, 1984, pp. 211-238.
- ^ 佐伯俊平『神田界隈の会合文化』青弓社, 1991.
- ^ Edwin P. Blackwell, “Business Cards as Social Instruments: A Meiji Case Study,” East Asian Review, Vol. 8, No. 1, 1999, pp. 55-88.
- ^ 芳川会史料編纂委員会『芳川時報復刻版 第一巻』芳川会資料室, 2003.
- ^ 小笠原澄子『紹介状と沈黙の技法』東京大学出版会, 2010, pp. 113-146.
- ^ Kenji Morita, “The Etiquette Machine: Yoshikawa Association and Urban Moderation,” Comparative Courtesy Studies, Vol. 4, No. 2, 2014, pp. 9-34.
- ^ 本郷直樹『名刺監査係の研究』みすず書房, 2018.
- ^ Harper, Louise, “A Small Society of Large Rules,” Proceedings of the Society for Invented Institutions, Vol. 2, No. 4, 2021, pp. 301-319.
外部リンク
- 芳川会アーカイブス
- 近代社交文化研究所
- 芳川時報デジタル館
- 東京都市儀礼資料室
- 会則閲覧室・芳