石手川會
| 種別 | 相互扶助・儀礼型の地縁団体(とされる) |
|---|---|
| 関連地域 | (中心) |
| 設立の呼称 | “石手川式”創会(とされる) |
| 活動期間 | 少なくとも明治後期〜昭和期にかけて存続したと伝わる |
| 主要目的 | 災害時の救援配分、共同行事、対外交渉(とされる) |
| 象徴 | 川面を模した紋章(青灰色の鱗) |
石手川會(いしてがわかい)は、に関係するとされる“川”を題材にした、半ば儀礼的な相互扶助団体である。市民文化の一環として扱われる一方で、その実態や設立経緯については諸説がある[1]。
概要[編集]
石手川會は、周辺の住民が中心になって発展したとされる団体である。公的機関ではなく、あくまで民間の集まりとして位置づけられてきたと説明されることが多い。もっとも、記録の残り方が地域ごとに異なり、外部からは“会”と呼ばれるだけで、その性格を断定しにくいとされる[1]。
一方で、石手川會が担ったとされる役割は、非常時の物資分配から儀礼的な安全祈願まで広い。特に災害の季節に合わせ、構成員が各家庭の「備蓄口数」を申告し、後日その数に応じて米・塩・薪の配分比率を調整していたという伝承がある。なお、この申告は“口”ではなく“刻”と呼ばれる単位で行われたともいわれ、1家庭あたり平均すると「刻で12〜17」に収まっていたと、後年の聞き書きでは説明される[2]。
歴史[編集]
成立:川を数える書記官たち[編集]
石手川會の成立は、明治34年(ではなくとする記録も存在)前後に始まったと語られることが多い。松山市の“河川改修計画”に際し、旧来の水利慣行を尊重する必要が生じ、そこで「測量班だけでは現場が回らない」という判断が下されたという説明がある。結果として、地縁者と測量補助の書記が同席し、“川の数字”を統一するための仮組織が作られたとされる[3]。
このとき選ばれたとされる中心人物が、当地の帳場師であったである。渡辺は測量帳の書式を整える一方で、住民側には“怒りの分散”としての儀礼も導入したとされる。具体的には、初回の集会で「川面の紋章を手早く描ける者」を選び、紙片に署名してから川へ流したというエピソードが残っている。署名者は30名程度だったが、記録上の“流した紙片”は実際の人数より少なく、当時の帳簿では「残存2片」という不思議な計上が見られるとされる[4]。
ただし、この物語の“数字の揺れ”は意図されたものだった可能性もある。のちに編纂された「會則抄」では、残存2片の意味を“次の雨のための留保”と説明している。雨の日の配分が連鎖しやすいよう、責任の所在をぼかす発想であったと解釈されることがある[5]。
発展:昭和の救援配分システム[編集]
石手川會は、昭和期に入ると“救援配分の調整機構”としての性格を強めたとされる。特に20年代前半の水害対応の際、会員が各地区の倉庫を巡回し、在庫を「一斗=三枚札」という簡便な換算で申告させたという。換算係数としては一斗あたり三枚札が一般的だったとされるが、実務上は地区により幅があり、最も厳密な倉庫では一斗あたり四枚札に統一されたとも伝えられる[6]。
この調整の成果として、救援物資の到着が“噂の伝達”よりも先行したという証言がある。具体的には、夜間に配分会が開かれ、翌朝には炊き出しの鍋が「合計41個」用意されていた、と書き留められている。ただし、鍋の個数は年によって異なり、同じ資料内で43個と記される頁もある。編集者は「数の揺れは、どこまでを“鍋”と定義するかによる」と注釈したとされるが、その注釈自体が後世の加筆ではないかと疑われることもある[7]。
さらに、石手川會は対外的な窓口として、行政・商工関係者との折衝を担ったとされる。松山市内の“共同事務局”に職員を出したという説もあるが、出典が会内文書に限られるため、外部の確認が難しいとされる。一方で、川沿いの商店街が会の紋章(青灰色の鱗)を看板の隅に掲げ始めた時期だけは、複数の聞き書きで重なるとされる[8]。
衰退:札の制度が“口伝”に勝てなかった[編集]
昭和後期になると、石手川會は徐々に影を薄くしたと説明される。理由として挙げられるのは、(1) 公的な災害対策の制度化、(2) 住民の転出による組織基盤の縮小、(3) “札の数え方”が世代間で共有されなくなったこと、の三点である。とくに(3)については、会内で使われた「刻」「札」「口」を混ぜて覚えてしまうケースが増え、配分計算が合わなくなったとされる。
面白い例として、“旧札”と呼ばれた時代の調整札が、ある年に合計1,003枚残っていたという記録がある。しかし同時期の別記録では「残りは1,000枚、余り3枚は紋章の落款に使われた」とされており、3枚の使途が具体化されていない。ここから、石手川會が単なる救援機構ではなく、儀礼を通して人心を整える装置でもあったのではないかという見方がある[9]。
なお、最終的に活動が止まった年は資料によって食い違いがあり、55年(197...)とする説、平成へ入ってから最後の行事があったとする説、さらに“川の音が聞こえなくなった頃”という詩的な表現で濁される説もある。結果として石手川會は、完結した組織というより、川の記憶として残ったと理解されることが多い。
構成と運用[編集]
石手川會の運用は、会則と“口伝”の二層で成り立っていたとされる。会則側には数表があり、例えば配分比率の基準として「米は備蓄刻×0.6、塩は×0.08、薪は×1.2」といった係数が書かれていたとされる。もっとも、係数は地域によって調整が入るため、松山市の東部では米の係数が0.65に引き上げられたという説もある[10]。
一方、口伝側には儀礼の所作が残っている。初雨の夜には、会員が各自の手のひらに軽く灰をつけ、石手川の石段に沿って歩くことで“人数の整列”を行うとされた。これにより「流れの乱れが人の乱れに直結しない」と説明されたという[11]。なお、この灰は製粉所から無償提供された“粉灰”だったとする記録もあるが、無償の範囲や契約条件が不明で、誰が交渉したのかも会内で語り継がれたという。
会の役職には、書記・換算方・祈願方・見廻り方があったとされる。換算方は数字に強い者が担ったが、見廻り方は実際には“数字の目利き”として機能していたともいわれる。なぜなら、倉庫の計量が乱れると配分が崩れるため、“言い訳のうまさ”ではなく“見た目での正確さ”が求められたからだと説明されている[12]。
社会的影響[編集]
石手川會は、直接的な政治組織ではないにもかかわらず、市民生活に影響を与えたと考えられている。具体的には、災害時の救援が単発の善意に留まらず、事前申告と事後照合によって“再現性”を持つようになったとされる。この再現性が、周辺の町内会に波及し、“川の算盤”として語り継がれるきっかけになったという[13]。
また、石手川會は商店街の販路にも影響したとされる。会員は行事の際、特定の店で調達を優先したため、結果として「会の紋章を掲げる店ほど臨時売上が伸びる」現象が起きたと説明される。ある記録では、行事月に限定した売上が平常比で1.37倍になったという。さらに、塩の販売が伸びた理由を「祈願の作法が“塩の粒”に依存した」とする説明が付いており、実務と儀礼が不可分だったことが示唆される[14]。
ただし、この影響の評価は一様ではない。救援の調整が円滑だったという評価と、逆に“申告できない家庭”が周縁化されたのではないかという懸念が併存しているとされる。石手川會の仕組みが、数字を通じて秩序を作る一方で、数字からこぼれる人を救う速度を落としてしまった可能性があるという指摘がある。
批判と論争[編集]
石手川會には、いくつかの批判が存在したとされる。最大の論点は、救援配分が“計算の上手さ”に左右された可能性である。会則では換算係数の上限が定められていたとされるが、地域によって上限の運用が異なり、結果として“札の解釈”が政治化したのではないかという噂が立ったとされる[15]。
次に、内部の透明性をめぐる問題である。会の出納記録が、会員の個人ノートに分散していた時期があるとされる。そのため、災害後に「帳尻が合わない」ことが起きても、誰がどの段階で修正したのかが曖昧になりやすかったと指摘されている。なお、最も怪しいとされる事例として、旧札1,003枚のうち、紋章の落款に使われた3枚が“川へ戻された”という記述がある。この記述は会の儀礼観を示すものとして擁護される一方、証拠の追跡ができないため不正を疑う声もあったとされる[16]。
第三に、外部からの参加条件に関する批判である。石手川會は原則として地縁を優先したとされるが、“川の音を聞ける者”を参加条件に含めたとする資料がある。この条件が比喩であるなら問題になりにくいが、比喩が文字通りに解釈されると、聴覚障害のある人の排除につながり得るとして批判されたという見方がある。もっとも、この解釈自体は一部の研究者による後年の推定であり、当時の一次資料が十分に確認されていないとされる。
脚注[編集]
関連項目[編集]
脚注
- ^ 石手川會文書編纂室「會則抄(写本)」松山市自治資料館, 1951年。
- ^ 渡辺精一郎『川の帳場と刻の制度』松山河川局出版部, 1909年。
- ^ 佐伯良哲「相互扶助組織における配分係数の運用:刻札方式の事例」『地域史研究』第12巻第3号, 1987年, pp.45-62。
- ^ Eleanor K. Whitaker, “Ritual Accounting and River Societies: A Comparative Note,” 『Journal of Local Administrative History』 Vol.8 No.1, 1994, pp.101-129。
- ^ 松山市教育委員会『石手川周辺の民間組織と災害記憶』松山市教育委員会, 2006年。
- ^ 西野春彦「旧札の残存枚数問題と伝承編成」『民俗数理学研究』第4巻第2号, 2012年, pp.9-27。
- ^ Hiroshi Tanaka, “Codes, Oaths, and Flood Relief in Inland Japan,” 『Asian Folklore Review』 Vol.19, 2001, pp.210-236。
- ^ 伊藤みちる「紋章(青灰色の鱗)が担った意味の再検討」『日本記号文化誌』第27号, 2018年, pp.77-95。
- ^ 川島健太「救援の再現性はどこから来るか—石手川會と“計算可能性”」『社会史ジャーナル』第51巻第1号, 2020年, pp.33-58。
- ^ Jean-Pierre Lemaire, “The Sound of Rivers as Membership Criterion,” 『Cultural Mechanisms and Inclusion』 Vol.3 No.4, 1999, pp.1-15.
外部リンク
- 石手川會アーカイブ(聞き書き資料)
- 松山市河川文化研究所
- 刻札方式解説ページ
- 青灰の鱗紋章ギャラリー
- 旧札残存記録データベース