杉江志乃
| 氏名 | 杉江 志乃 |
|---|---|
| ふりがな | すぎえ しの |
| 生年月日 | 3月17日 |
| 出生地 | (現) |
| 没年月日 | 11月2日 |
| 国籍 | 日本 |
| 職業 | 路地観測研究者/都市批評家 |
| 活動期間 | 1919年 - 1947年 |
| 主な業績 | 「路地相(ろじそう)」計測法の確立、公共掲示の実証研究 |
| 受賞歴 | 市政功労賞、路地学会表彰 |
杉江 志乃(すぎえ しの、 - )は、の「路地観測」研究者である。前向きな都市批評家として広く知られる[1]。
概要[編集]
杉江 志乃は、日本の路地観測研究者である。路地を「見えない交通路」とみなし、住民の行動ログを、足音・影の長さ・雨上がりの匂いといった“副指標”から推定する手法を体系化したとされる[1]。
志乃の研究は、当時の行政が軽視していた細街路の安全対策に影響し、さらに雑誌連載を通じて一般にも「路地の読み方」を広めたとされる。一方で、その方法論は厳密さを欠くという批判も早い段階から存在した[2]。
特に有名なのは、同一の交差点を「5分ごとの通行者の気配」で分類したとする逸話である。実際には交差点の方角が時折ずれて報告されていたのではないか、という疑念も後年に指摘された[3]。
生涯[編集]
生い立ち[編集]
杉江は3月17日、の紙問屋の家に生まれた。幼少期から家業で扱う紙の匂いに敏感であり、雨が降る前と後で素材の“吸い方”が変わることを不思議がっていたと伝えられる[4]。
に起きた「本所裏庭湧水騒動」では、近隣の子どもたちが路地の水たまりを踏み抜く危険を繰り返した。志乃は“踏み抜きやすい路地ほど、朝の影が短い”という独自の仮説を立て、母にこっそり鉛筆で影の輪郭をなぞらせたという[5]。
この頃、志乃は学齢期にもかかわらず、沿いの夜風の記録に時間を費やし、町の古老からは「おまえの目は方位磁針より曲がる」と笑われたとされる。もっとも、その言い回しは後の自伝の脚色とも見られている[6]。
青年期[編集]
志乃は、家の紙の在庫管理を担うためにの倉庫へ通い始めた。そこで、荷運びの動線が“路地の匂い”と結びついていることを観察したとされる。具体的には、倉庫番が「月のない夜は段ボールの角がよく折れる」と言った理由を、志乃は路地で発生する湿度差に関連づけたとされる[7]。
には、(当時の都市研究部の前身)に「見学願」を提出したが、当初は門前払いになったとされる。その際、志乃は願書に余白へ数式のようなメモを書き添えており、審査係が“数学ができる者は路地も読める”と誤解したため、翌月に再提出が認められたという逸話がある[8]。
、志乃はの印刷所でアルバイトをしながら、路地の通行音を採点する「八十四拍子式」を考案した。八十四拍子という数は、印刷機の部品交換周期(という体裁で、実際はただ気分で選んだ)であったと後に本人が語ったとされる[9]。
活動期[編集]
、志乃は単独で都市調査に乗り出し、「路地相」の実地計測を開始した。路地相とは、一定距離の区間における“見通しの回復時間”を指標化する概念であるとされる。たとえば、角を曲がって視界が戻るまでの秒数を、1区画あたり最大で12秒、最小で3秒に分布させるとする記録が残っている[10]。
、志乃はの依頼で、細街路の転倒事故の原因を調査した。当時の記録では、転倒の発生率が「雨の翌日だけでなく、雨の二日後にも跳ね上がる」ことが示され、志乃はそれを“匂いが消えるまで滑りが残る”現象と説明した[11]。この説明は一部の役人には好評で、翌年度から路面点検の頻度が増えたとされる。
には、路地相の計測器として、革製の薄い帯と懐中時計を組み合わせた「影帯(えいたい)」を発表した。影帯は、装着者の影の動きを補正し、風速の影響を減らすとされたが、実際には風向きの推定が雑であり、後に弟子筋から苦情が出たとされる[12]。
以降は、戦時下の配給動線の観測にも従事した。志乃は配給列を“路地相の連鎖”として捉え、行列が曲がり角を越えるたびに人の心理が変化すると論じた。ただし、その心理変化を測る基準は、当時のメモ帳に「髪の長さ指数」などと記されており、編集者は採録に苦心したとされる[13]。
晩年と死去[編集]
志乃はの東京大空襲後、焼け跡に残った路地の輪郭を描き起こし、復興計画へ助言した。復興局の会議では、広い道路より先に“路地の曲がり角の角度”を整えるべきだと主張したとされる[14]。
、志乃は体調不良を理由に調査現場から退いた。しかし、最後の年まで自宅の玄関から観測を続け、「犬の歩幅は人の不安と相関する」といった奇妙な結論を量産したという[15]。この時期の記録は、当時の学会誌にも一部掲載された。
11月2日、志乃は内で肺炎によりで死去したとされる。死去の前日には、弟子へ「影が短い路地は、短い言い訳で足を救う」と書き残したとも伝えられている[16]。
人物[編集]
杉江志乃は、他者の“観察癖”を尊重する性格であったとされる。志乃の講義では、受講者が持ち込んだ私物のスプーンの形状まで路地相の誤差要因として扱われることがあり、学生はしばしば遅刻したまま謝罪したという[17]。
また、志乃はやたら細かい数字を好んだ。たとえば、路地の幅を3段階(狭い・ふつう・怖い)に分類する際、怖い路地の条件として「幅員がちょうど」ではなく、「からの間」だと説明したとされる[18]。このような“半端なレンジ”は、後年に学会で「志乃の気分の反映」と揶揄された。
一方で、志乃は文章を書くときだけ非常に慎重であった。彼女はの受賞スピーチで、自分の手法を「仮説である」と明示した。にもかかわらず、その翌日に新聞が“志乃の理論は確立済み”と書いたため、志乃が抗議文を提出したという記録が残っている[19]。
弟子に対しては、怒るよりも先に静かに“同じ路地を二往復させる”とされる。二往復目で弟子が納得した顔をするまで、志乃は質問に答えないのが常だったとされる[20]。
業績・作品[編集]
杉江志乃の代表的な業績は、「路地相」の計測法の確立である。路地相は、通行者の速度ではなく、視線の戻り時間を主要指標にする点で特徴的であるとされる。さらに、雨上がりの路面は“匂いで復元する”として、嗅覚を補助観測として扱った[21]。
志乃は著書として『『影帯入門:小さな角度の大きな事故』』を公刊したとされる。刊行年はとされ、の版元であるから出たという[22]。同書には、路地の曲がり角を角度で分類する表が付され、角度の路地は「夜でも話が長い」と注記されている。
また、連載として『『路地の裏表(うらおもて)』』をに掲載した。全の連載で、志乃は最終回に「数字は嘘をつくが、路地は先に謝らない」と締めくくったと伝えられる[23]。
晩年には、手稿『玄関観測録』を整理して弟子へ残した。玄関観測録では、観測開始時刻が「午前」に統一されている。なぜ42分なのかは説明されていないが、志乃が目覚まし時計のベル音を気に入っていたためだとする説がある[24]。
後世の評価[編集]
杉江志乃は、都市調査の方法論を“生活の細部”へ拡張した人物として評価されている。特に、行政の現場では、災害後の復旧計画で「広さ」よりも「曲がりやすさ」を重視する発想に影響したとされる[25]。
一方で、志乃の研究は科学的再現性が低いという批判も受けた。たとえば、志乃が「雨の三日後が最も危険」と主張した件について、後世の検証では地域によってピークがずれることが示されている[26]。この批判に対して、志乃の支持者は“路地は地域の記憶を背負う”と反論したとされるが、当時の資料が少ないこともあり決着はついていない。
近年の研究では、志乃の文章表現が都市文学と調査記録の境界を揺らした点が再評価されている。特に『路地の裏表』は、行政文書が避けていた感覚語彙を導入したとして、編集史の観点から論じられることがある[27]。
もっとも、最も“笑える”評価としては、が風速補正を意図していたにもかかわらず、測定担当が自作の帯を交換する頻度が不明確だった点が挙げられる。これが結果にどれほど影響したかは不明であるが、志乃が自分の誤差を物語に変えたことは確かだとする見解がある[28]。
系譜・家族[編集]
杉江志乃の家族構成は、資料によって細部が異なるとされる。一般には、父は、母はであるとされる[29]。父長治は紙問屋の経理を担当し、母千草は町内の掲示係を務めたとされる。
志乃には弟が一人おり、とされる。啓助は印刷所で働きつつ、志乃の観測ノートの製本を手伝ったとされるが、ある記録では「製本の癖でページ数が毎回ずれた」とも書かれている[30]。
また、志乃は晩年に養子を受け入れたとする説があるが、受け入れ時期がとの二説に分かれており確定していない。後世の伝聞では、養子候補は志乃の“路地の読み”に感動して弟子入りした青年だったとされる[31]。
志乃の死後、家に残されたノートは弟啓助が保管し、のちにへ寄贈されたとされる。寄贈の際、箱の外側に「開けるな。路地は湿る」と書かれていたという話があり、学会の事務員が苦笑したとされる[32]。
脚注[編集]
関連項目[編集]
脚注
- ^ 杉江志乃『影帯入門:小さな角度の大きな事故』春陽書房, 1932年.
- ^ 山田三郎『都市の裏側を読む技法:路地相の系譜』筑波出版, 1954年.
- ^ 渡辺精一郎『細街路事故と観測主義』共文社, 1938年.
- ^ Hannah E. Carter『Scent Metrics in Early Urban Fieldwork』Journal of Civic Senses, Vol.12 No.3, 1941年.
- ^ 池田玲子『雨の三日後:杉江志乃と再検証』東京都市史研究会, 1979年.
- ^ Ryo Nakamura『The Return-Time Index and the Myth of Reproducibility』Urban Measurement Quarterly, Vol.5 No.1, 1986年.
- ^ 小林清隆『掲示文化と路地の心理学』文献社, 1946年.
- ^ M. A. Thornton『Sub-Pathways and Street Minorities』Proceedings of the International Society of Urban Folklore, Vol.2 No.7, 1939年.
- ^ 赤木雪『玄関観測録の編集史』潮見書房, 2001年.
- ^ (題名がやや不自然)『路地学会のための影帯マニュアル(未完)』路地学会叢書, 第3巻第2号, 1935年.
外部リンク
- 路地相アーカイブ
- 影帯資料館
- 東京毎夕新聞 デジタル縮刷版
- 本所区歴史倉庫
- 路地学会 旧蔵書検索