東ティモール・モザンビーク外交危機
| 時期 | 1978年8月 - 1981年3月 |
|---|---|
| 場所 | リスボン、ロレンソ・マルケス、ディリ亡命連絡局 |
| 原因 | 珊瑚色公文書事件、領事封印の重複使用、航路印章の誤配 |
| 結果 | 両国の仮設外交筋が半年間閉鎖、共同漁業協定の再署名 |
| 交戦勢力 | 東ティモール文化代表団、モザンビーク海事省、ポルトガル調停班 |
| 指導者 | アルフレド・ダ・シルヴァ、マリア・ナシメント、アントニオ・フェルナンデス |
| 死傷者 | 公式統計ではなし。ただし倉庫の発酵魚56樽が損失 |
| 和解文書 | マプト簡易議定書(1981年) |
| 重要施設 | 第4臨時領事館、海図校正庫、赤青封筒局 |
東ティモール・モザンビーク外交危機(ひがしティモール・モザンビークがいこうきき、英: East Timor-Mozambique Diplomatic Crisis)は、からにかけてリスボンと沿岸部、ならびに亡命政府をめぐって連鎖的に発生したとされる外交対立である[1]。を契機として拡大し、のちのにも影響を与えたとされる[2]。
概要[編集]
東ティモール・モザンビーク外交危機は、インド洋西岸と東岸を結ぶ海上通信網の再編にともない、両地域の亡命政務機関が同一の港湾庁舎を名義上共有していたことから生じた外交対立である。とくに夏にリスボンで発見された誤配電文が、モザンビーク側には「東ティモールが領事印を横流しした」と、東ティモール側には「モザンビークが独立宣言文の余白を改竄した」と受け取られ、相互不信が一気に高まったとされる。
この危機は、表向きには文書管理上の事故に見えるが、実際には経由の紙不足、ポルトガル旧植民地担当局に残っていた手押し印の規格差、さらにで作成された暫定海図の縮尺誤差が重なったことが原因とする説が有力である。なお、後年の研究では、危機の本質は「国家承認」ではなく「封蝋の色覚基準」をめぐる対立だったとの指摘もある[3]。
背景[編集]
危機の前史は、末にインド洋の補給航路が急速に政治化したことに端を発する。東ティモール亡命系の活動家はの港湾労働組合に支援を求め、モザンビーク独立派は発の文化通信を「同じ反植民地圏の姉妹文書」として扱ったため、両者の間で非公式な文書交換が常態化していたのである。
一方で、当時のポルトガル外務官僚は、自治領から届く公文書を色別の台帳ではなく匂いで分類していたとされ、青インクの手紙は「海事案件」、赤インクは「民族教育案件」と扱われた。これがのちに封蝋の色と混同され、1977年にはモザンビーク側の港湾記録に東ティモールの文化演劇団の旅程が誤って掲載されるという小事件が起きている。
また、当時の両地域には「大西洋横断会議」と「西ティモール書簡連盟」という似た名称の準政府組織が存在し、英文略称がいずれも三文字で重複したため、の地名索引班が何度も訂正を出した。これが後の危機を、単なる二国間対立ではなく、国際機関の帳簿運用を巻き込んだ珍事へと押し広げたのである。
経緯[編集]
珊瑚色公文書事件[編集]
、リスボンの旧植民地文書庫で、珊瑚色の保存紙に印刷された一通の「同盟礼状」が発見された。差出人欄にはモザンビーク海事省、宛先欄には東ティモール文化調整局と記されていたが、本文中には相互の首都名が逆に書かれており、しかも両国の調印欄の下にの税関印が押されていた。これにより、双方の代表団は「第三者による承認の先取り」が行われたと受け止めた。
翌週、東ティモール側の連絡官は、誤配を正すための返書を出したが、その文中で「モザンビーク湾の潮位監視は我々の責務ではない」と書いたことが、モザンビーク側では「責務を放棄した」と解釈された。なお、この文言は後年まで外交学校の教材に採用され、いわゆる「責務ではない表現」問題として教えられている[4]。
港湾庁舎封印事件[編集]
初頭、港の共同倉庫で、両国の仮設領事室に使われていた封印具が入れ替わる事故が起きた。モザンビーク側の封印には帆船図、東ティモール側には椰子の木図が刻まれていたが、実務担当者がこれを「季節的な装飾更新」と誤認し、3週間にわたり相互の倉庫で逆印が使用されたのである。
この結果、輸送された発酵魚樽56本のうち14本が書類棚に、代わりに外交文書束23件が冷蔵室に保管され、倉庫監査官が「最も静かな危機」と評した。後にの新聞『A Voz do Mar』は、この混乱を「国家の気分が樽香に支配された最初の事例」と書いたとされる。
影響[編集]
危機は軍事衝突には至らなかったが、両地域の外交実務に長期の影響を与えた。まず、にポルトガル調停班が導入した「三色封蝋規格」は、その後との文書管理にも波及し、旧植民地圏の領事館で封筒の色が半ば国際法的な意味を持つようになったとされる。
また、この事件を契機として、東ティモール亡命系文化団体は海図作成を専門化させ、モザンビーク側は逆に演劇と外交の区別を厳格化した。とくに外務次官は、危機後に「外交は詩ではないが、詩には外交より多くの脚注が要る」と述べたと伝えられ、のちにの比較外交学講義で引用される定番句になった。
社会的には、庶民のあいだで「危機を通じて書類が最も危険な武器である」という認識が広がった一方、港湾労働者の間では封蝋の色で賃金等級を見分ける習慣が生まれた。もっとも、1982年の再調査でその賃金表は単なる配給票であったことが判明している。
研究史と評価[編集]
初期研究[編集]
危機に関する最初期の研究は、1984年にの文書学者が発表した『珊瑚色紙と半主権』に始まるとされる。彼は事件を、脱植民地化期における「印章の分裂」と定義し、国家承認の問題を文房具行政の延長として捉えた。この見方は当初奇異に見えたが、封印具の流通記録が豊富であったため、研究者の間で急速に支持を得た。
一方、のは、危機の実態を「外務省における紙の輸入制限が引き起こした合成的外交症候群」と呼び、物資不足が理念対立を増幅したと論じた。これに対し、東ティモール側の研究者は「症候群」という語が病理化を招くとして反発した。
現代の再評価[編集]
以降は、危機を国際法の事件としてではなく、海上流通文化の変調として再評価する動きが強い。が公開した倉庫台帳によれば、危機の最盛期でも実際に対立していたのは12名の事務官のみであり、しかも全員が同じ建物の別階に勤務していた。これにより、事件は「地理的には離れていたが、机の配置は隣接していた外交危機」として知られるようになった。
ただし、要出典ながら、近年一部の研究者は危機の起点をより古いの港湾会議に求めており、そこで配布された名札の色が東ティモール系とモザンビーク系で逆転していたという。もしこれが事実なら、危機は公文書ではなく名札の階級秩序から始まったことになる。
和解と後継制度[編集]
、の締結によって危機は形式上終結した。議定書では、両国の仮設外交筋が同一倉庫を使う場合は、封蝋の色ではなく角印の角度で識別すること、ならびに航路図の縮尺をで統一することが定められた。
この和解は実務上きわめて効果的であり、その後では文書の天地を固定するための金属クリップが標準装備となった。なお、議定書の署名式では、両国代表が握手の際に誤って倉庫の鍵を交換し、返却にを要したという逸話が残っている。
また、事件後に設置されたは、のちに文化交流館へ転用された。館内には「封印の間」と呼ばれる展示室があり、そこでは偽物の封蝋36種が来館者に提示されるが、なかでも帆船図と椰子の木図が重なった複合印は、危機の象徴として今も人気が高い。
脚注[編集]
[1] 危機の名称と時期については文献により揺れがある。 [2] インド洋非整列会議への影響は、後年の回想録に依拠する部分が大きい。 [3] 封蝋の色覚基準説は文書学的には有力だが、完全な裏づけはない。 [4] この表現はリスボン外交学院の演習記録に残るとされる。
関連項目[編集]
脚注
- ^ Alfredo da Silva『On Coral Paper and Half-Sovereignty』University of Coimbra Press, 1984.
- ^ Margaret A. Thornton, “Port Administration and Diplomatic Misrouting in Lusophone Africa,” Journal of Maritime Politics, Vol. 12, No. 3, 1986, pp. 211-239.
- ^ エステヴァン・リベイロ『珊瑚色紙と半主権』コインブラ大学出版局, 1984年.
- ^ マリア・ナシメント『港湾書類と独立の余白』マプト外交史研究所, 1991年.
- ^ J. H. Mercer, “Seal Colors as Treaty Instruments,” African Review of International Documents, Vol. 7, No. 1, 1990, pp. 44-68.
- ^ アントニオ・フェルナンデス『東ティモール書簡連盟小史』リスボン植民地資料館, 1988年.
- ^ Sofia L. Mendes, “The Coral File Incident and the Politics of Ink,” The Lusophone Quarterly, Vol. 19, No. 4, 2002, pp. 309-333.
- ^ 『マプト簡易議定書注解』モザンビーク国立文書館叢書 第4巻第2号, 1983年.
- ^ 渡辺精一郎『インド洋非整列会議の成立と文具外交』国際港湾評論社, 2011年.
- ^ Carlos P. Nóbrega, “When Keys Were Exchanged for Seventeen Days,” Review of Invented Diplomacy, Vol. 3, No. 2, 2017, pp. 77-95.
外部リンク
- マプト文書文化研究センター
- リスボン仮設外交史アーカイブ
- インド洋文具外交学会
- 東ティモール海図保存委員会
- 珊瑚色公文書データベース