桐谷 木乃芽
| 氏名 | 桐谷 木乃芽 |
|---|---|
| ふりがな | きりたに このめ |
| 生年月日 | 1927年4月18日 |
| 出生地 | 長野県木曽郡南木曽町 |
| 没年月日 | 1991年11月2日 |
| 国籍 | 日本 |
| 職業 | 民俗記録家、地方音響研究者、随筆家 |
| 活動期間 | 1949年 - 1991年 |
| 主な業績 | 樹皮詩法の提唱、山村声紋帳の編纂、木曽口承地図の作成 |
| 受賞歴 | 日本民俗記録学会奨励賞、信濃文化功労章 |
桐谷 木乃芽(きりたに このめ、1927年 - 1991年)は、日本の民俗記録家、地方音響研究者、ならびに「樹皮詩法」の提唱者である。山間部の口承採集と木漏れ日環境の測定を結びつけた独自の研究で知られる[1]。
概要[編集]
桐谷 木乃芽は、長野県の山村文化を対象とした調査で知られる人物である。とりわけ木曽地方における伐採唄、山仕事の掛け声、土壁に残された符牒を記録し、それらを「音の民俗誌」として整理した点に特徴がある。
木乃芽は、1950年代後半から東京都の国立民族学資料館と連携し、現地採集と机上分類を往復する方法を確立したとされる。また、記録用紙に木目の擦過音を転写する独自の筆記法を用いたため、後年の研究者からは「紙面の一部がやけに森臭い」と評された[2]。
生涯[編集]
生い立ち[編集]
木乃芽は1927年、木曽川上流域の小さな宿場町に生まれたとされる。家業は木地師の系譜に連なる道具修繕で、幼少期からヒノキの削り屑を巻紙に貼って遊んだという逸話が残る。母の桐谷サトは、夜ごとに山仕事の古い歌を口ずさみ、木乃芽はそれを暗記するように覚えたという。
尋常小学校卒業後は松本高等女学校相当の夜学に通い、1944年には学徒動員の記録係として近隣の山林組合に出入りした。この時期に、伐採現場で交わされる短い呼び声が、単なる指示ではなく土地固有の「方位感覚」を含むことに気づいたとされる。
青年期[編集]
1949年、木乃芽は東京大学ではなく、その隣接地に設けられていたという私設研究室「東都民俗記録整理所」に出入りし、折口信夫系統の口承研究を学んだとされる[3]。もっとも、本人は制度的な師弟関係を嫌い、「師匠は山の勾配そのものだった」と語ったという。
同年、岐阜県の旧家で見つかった木札帳の写しをきっかけに、彼女は「木目の密度変化が語りの節回しに影響する」とする仮説を立てた。これが後の樹皮詩法の原型であり、初期の論文『樹の表皮に宿る韻律について』は要出典とされながらも、少なくとも十数名の研究会参加者を強く困惑させたことで知られる。
活動期[編集]
1956年、木乃芽は文化庁の委託を受け、飛騨から伊那谷にかけての山村調査を実施した。調査には延べ143日を要し、集められた録音は3,218分、採取された方言メモは4,600枚に達したとされる。この事業は後に「山村声紋帳第一期」と呼ばれ、地方語の消滅を危惧する世論形成にも寄与した。
1962年には東京都文京区の貸会議室で、木乃芽が木片を机上で擦りながら朗読を行う公開実験が行われた。聴講者87人のうち、内容を最後まで理解した者は2人しかいなかったと記録されるが、うち1人は会場係であった。なお、この実験の後、日本民俗学会の一部では「音声は耳でなく地形で聴くべきである」という奇妙な議論が流行した。
1970年代に入ると、木乃芽は北海道から九州までの林業地域を巡回し、伐採唄、杣人の口笛、焚き火の破裂音まで含めた総合記録を編纂した。特に1974年の白神山地調査では、積雪の下で眠っていた古い道標が見つかり、そこに刻まれた記号を木乃芽が「失われた伐木組合の略号」と断定したため、地元ではしばらく観光案内に採用されていたという。
人物[編集]
木乃芽は、寡黙で社交を苦手とする一方、調査地では妙に饒舌であったとされる。夜間の聞き取りでは、相手が話し始める前に茶碗を一度だけ鳴らし、その響きで「今日は長い話になるか」を判断したという。
性格面では、几帳面というより執拗で、標本袋の結び目の向きまで統一した。これにより助手を3人辞めさせた一方、残った者は「木乃芽式」と呼ばれる極端に整理されたノート術を学んだという。
逸話として有名なのは、1958年の山村宿泊時、囲炉裏の煤で黒くなった天井を見上げて「ここはまだ語れる」と言った話である。また、東京都での講演中に停電が起きると、彼女は即座に懐中電灯を消し、「暗いほうが採集者に正直だ」と言って聴衆を沈黙させた。
業績・作品[編集]
木乃芽の代表的業績は、樹皮詩法の提唱である。これは、樹木の表皮に残る傷、年輪の乱れ、剥離の向きなどを、口承資料の韻律と対応させて読み解く方法で、1965年に『樹皮韻律と語りの偏差』として発表された。専門家の間では「再現性は低いが、驚くほど説明力がある」と評された。
また、『山村声紋帳』全5巻は、東北地方から九州山地までの山仕事の発話を地域別に整理したもので、各巻の末尾には必ず「聞き取り時の気温」と「焚き火の爆ぜ方」が記されている。これは後に、気温8度以下では促音が増えるという奇妙な傾向を示したとして言語地理学者に引用された。
さらに、『木曽口承地図』は、地図上の経線・緯線の代わりに、尾根の曲がり方と伝承の発生地点を重ねた図譜である。1978年版では、南木曽町の旧道に「ここから先、狐に道を訊ねた家は三代続く」と注記され、地元教育委員会が一時的に引用を見送った経緯がある[4]。
晩年の随筆『木目が先に鳴る』では、木と人間の記憶が互いに擦れ合って残響を生むと論じた。この本は一般向けにも読まれ、1982年時点で累計6万4,000部を売り上げたとされるが、実際の購買者の半数は贈答用だったという。
後世の評価[編集]
死後、木乃芽の研究は長らく地方資料の奇書として扱われたが、2000年代以降、環境史、音響民俗学、地域芸術の交差領域で再評価が進んだ。特に国立歴史民俗博物館での企画展『聴こえる山、書かれる木』は入場者12万8,000人を記録し、若手研究者の間で木乃芽のノート様式が流行した。
一方で、樹皮詩法は「検証不能であるのに、説明の説得力だけは異様に高い」として批判も多い。とくに2011年の日本民俗学会討論会では、木乃芽の方法論をめぐり「観察者自身の没入を測定するべきである」という議論が紛糾し、議事録が通常の3倍の厚さになった。なお、木乃芽が本当に何をどこまで意図していたのかは、現在でも研究者の間で一致を見ていない。
系譜・家族[編集]
桐谷家は、江戸時代末期に木曽の杣役に連なった家系とされる。祖父の桐谷傳左衛門は、山崩れの前兆を聞き分ける「土鳴り当番」を務めたという記録があり、これが木乃芽の土地感覚に影響したとする説がある。
父・桐谷善一は木地師で、母・桐谷サトは旅芸人の口上を覚えるのが得意であった。木乃芽は三人きょうだいの長女で、弟に桐谷葉一、妹に桐谷こずえがいたとされる。結婚歴については資料が割れており、1954年に名古屋市の編集者と事実婚の関係にあったという説と、終生独身だったという説が並立している[5]。
なお、木乃芽の遺稿整理に当たった甥の桐谷樹人は、のちに地方放送局の音響ディレクターとなり、叔母の手法をラジオ紀行番組に応用した。これにより一族は「話を集める家」として半ば伝説化した。
脚注[編集]
[1] 木乃芽の没後にまとめられた総説に基づく。 [2] 初期の調査ノートには木片由来の樹脂汚れが確認されるとする報告がある。 [3] 東都民俗記録整理所の存在自体が一部資料でしか確認できない。 [4] 地元教育委員会の内部文書にのみ記載があるとされる。 [5] 婚姻関係を示す一次資料は見つかっていない。
脚注
- ^ 桐谷木乃芽研究会編『樹皮韻律と語りの偏差』信濃民俗出版社, 1966年.
- ^ 佐伯俊介『山村声紋帳論』日本民俗記録学会誌 Vol.14, No.2, pp. 41-68, 1972.
- ^ Margaret H. Weller, “Bark, Voice, and Topography: Studies on Kiritani Konome,” Journal of Ethnographic Acoustics Vol. 8, Issue 1, pp. 12-39, 1984.
- ^ 桐谷木乃芽『木目が先に鳴る』北斗書房, 1982年.
- ^ 中野ひかる『地方音響研究の成立と桐谷木乃芽』民俗と記録 第21巻第4号, pp. 5-29, 1995年.
- ^ Takashi Endo, “The Rural Phoneme and the Forest Ledger,” The Review of Imaginary Folklore Vol. 3, No. 7, pp. 201-224, 2001.
- ^ 木曽文化史料編纂室『木曽口承地図資料集』木曽郷土研究会, 1979年.
- ^ 斎藤由里子『聴こえる山と書かれる木』東京学芸出版, 2012年.
- ^ 市川宗一『桐谷木乃芽年譜』信州文化資料叢書 第9巻, pp. 88-143, 2008年.
- ^ H. D. Armitage, “On the Methodological Friction of Tree-Rind Poetics,” Proceedings of the Society for Impossible Humanities Vol. 2, No. 4, pp. 77-91, 1979.
- ^ 山岸葉子『木曽山村における採集倫理の変遷』地方史評論 第37巻第1号, pp. 103-130, 2016年.
外部リンク
- 国立民俗音響アーカイブ
- 信州山村文化デジタル図書館
- 木乃芽資料室
- 日本樹皮詩学会
- 山の声研究所