森本りも
| 氏名 | 森本 りも |
|---|---|
| ふりがな | もりもと りも |
| 生年月日 | 1964年3月18日 |
| 出生地 | 東京都墨田区向島 |
| 没年月日 | 2017年11月4日 |
| 国籍 | 日本 |
| 職業 | 都市祭礼設計家、口承記録家、展示演出家 |
| 活動期間 | 1987年 - 2017年 |
| 主な業績 | 紙鳴り儀礼の体系化、浅草周辺の夜間行列再編、口承資料『りも帳』の編纂 |
| 受賞歴 | 東京都文化功労特別賞、日本民俗設計学会賞 |
森本 りも(もりもと りも、 - )は、の都市祭礼設計家、口承記録家である。紙鳴り儀礼の再興者として広く知られる[1]。
概要[編集]
森本りもは、の下町を中心に活動した都市祭礼設計家であり、昭和末期から平成期にかけて失われつつあった路地祭礼の再構成に携わった人物である。特に、からにかけて伝わっていたとされる紙鳴り儀礼を、会場設計と音響動線の観点から再定義したことで知られる[1]。
彼女の活動は、単なる祭りの演出ではなく、街区の記憶を取り戻すための社会技術として評価された一方、しばしば「説明が長すぎて神輿が出発しない」とも揶揄された。なお、後年に整理された『りも帳』には、参加者数、提灯、足袋の交換回数といった、やけに細かい記録が残されている[2]。
生涯[編集]
生い立ち[編集]
森本りもは、に、染め物問屋の次女として生まれた。幼少期から隅田川沿いの倉庫街で遊び、貨物用の木箱や古い半纏の匂いに強い関心を示したとされる。近所では「人の話を聞く前に、祭りの配置を描く子」として知られていたという[3]。
小学4年のとき、地域ので行われた仮設舞台の組み立てを手伝い、舞台袖の“鳴る紙”に偶然触れたことが、後の紙鳴り研究の原点になったとされる。この時、紙の厚みを単位で気にしたという逸話が残るが、当時の児童としてはやや不自然であるとの指摘もある。
青年期[編集]
に相当の夜間課程へ進み、その後芸術学部の舞台演出研究室に入ったとされる。そこで森本は、舞台照明よりも観客の足音に強い興味を示し、指導教員のに「光よりも先に、群衆の移動が劇を作る」と述べた記録がある[4]。
在学中、の旧市場跡で行われた自主展示「反転する縁日」に参加し、屋台の通路幅をに固定したことから、混雑が抑えられた反面、焼きそばの香りだけが異常に濃縮される事態が起きた。これが、後の「匂い導線」理論の萌芽であるとされている。
活動期[編集]
、の町会連合が主催した「浅草夜回り再生計画」に参加し、森本は初めて“都市祭礼設計家”と呼ばれるようになった。彼女は、従来の行列を単純に復元するのではなく、電柱、消火栓、銭湯の煙突、の出口番号までを含めて祭礼経路を再設計し、参加者が街の歴史を歩行で学ぶ方式を提案した[5]。
には、の地域文化支援事業の一環として「紙鳴り儀礼保存試験」を実施した。紙を吊るした竹枠の下を子どもが三度くぐると、古い町内会の約束事が思い出されるというもので、成功率はと報告された。もっとも、この数値は参加者の自己申告と記録係の主観が混在しており、学術的には要出典とされることが多い[6]。
また、以降はの商店街イベントだけでなく、の臨海地区やの町家保存地区でも助言を行った。特にの「夜の境界再編」では、通行人の滞留時間を平均延ばすために、提灯の高さを従来より下げるという独特の設計が採用され、関係者を驚かせた。
晩年と死去[編集]
以降は持病のため表立った活動を減らし、の自宅兼資料室で後進の指導にあたった。最晩年は「祭礼は終わるのではなく、記録に吸われていく」と語ったとされ、体調が悪い日でも町会名簿だけは必ず赤鉛筆で修正していたという。
、で死去した。告別式には約が参列し、そのうちが紙鳴り儀礼の再現を求めるメモを香典袋に同封したと伝えられる。死後、彼女の遺した現場ノートは『りも帳・増補影印版』として刊行され、都市民俗研究の資料として扱われている。
人物[編集]
森本りもは、几帳面である一方、非常に回りくどい説明を好む人物であったとされる。会議では結論を述べる前に、必ず「まず、風の通り道を確認したい」と言い、周囲を沈黙させたという。
性格は穏やかであったが、設計図の線がでもずれると不機嫌になることで知られ、職員のあいだでは「祭礼の定規」と呼ばれた。また、差し入れの羊羹を食べる順番にも独自の作法があり、最初に端を切ると「町の端が先に疲れる」と注意したという逸話が残る。
地域住民との関係は良好であったが、商店街の人々が「とにかく細かい」と口をそろえたことから、彼女の会話を要約する専門の記録係が一時期置かれていた。なお、その記録係が残したメモには、森本が雨の日にの境内で傘の角度をにそろえようとしていた、とある。
業績・作品[編集]
森本りもの業績で最も重要なのは、紙鳴り儀礼の再定義である。彼女は、古い町内行事において紙の擦過音が共同体の合図として機能していたという仮説を立て、これを「音響的連絡網」と呼んだ[7]。
代表作とされる『りも帳』は、単なる日記ではなく、祭礼の配置、風向、参加者の靴音、屋台の油温まで記録した複合資料集である。特に第3章「鳴りの順番」では、63年の沿い行列について、提灯のうちだけが同じリズムで揺れたことが共同体の再編につながったと記されている。
また、に発表された「路地の余白と祝祭の密度」は、で高く評価された。論文では、路地幅がからに変化すると、祭礼参加率が約向上する、とする結果が示されたが、再現実験は行われていない[8]。このため、後年には「最も正確そうに見える民間理論」と評された。
さらに、の地域記録番組「音の町を歩く」の監修も行い、映像内で一切顔を見せず、手袋だけがやたらとアップになる演出が話題となった。本人は「私は映ると設計が濁る」と述べたとされる。
後世の評価[編集]
森本りもは、都市民俗学とイベント設計の境界を越えた人物として再評価されている。特にに入ると、自治体による参加型まちづくりの文脈で彼女の方法論が引用され、内の複数区で「森本式導線」の検証が行われた[9]。
一方で、批判も少なくない。保守的な町会関係者からは「行事に測量を持ち込みすぎた」との声があり、学術界でも「紙鳴り儀礼の歴史的実在性には疑義がある」と指摘されている。もっとも、その曖昧さこそが彼女の仕事の価値であるという評価もあり、近年では民俗資料そのものより、共同体が“信じたくなる構造”を作った点に注目が集まっている。
にはで回顧展「森本りもと街の鳴る場所」が開催され、入場者を記録した。ただし、展示室の一角で再生された紙鳴り音が空調と干渉し、来場者が実際に出口を探してしまう事故が起きたという。
系譜・家族[編集]
森本家は、代々周辺で商いを営む家系とされ、祖父の森本庄三郎は木箱修理、父の森本義彦は染料卸、母の森本たまは町内会の会計を担当していた。りもは三人きょうだいの末子で、兄に森本直人、姉に森本千絵がいたとされる[10]。
配偶者については資料が錯綜しており、に舞台美術家のと婚姻したとする記録と、終生独身であったとする証言が併存する。この不一致は、森本本人が私生活を「祭礼の外周」と呼び、あえて記録を曖昧にしていたためだと説明されることがある。
子については、実子はいなかったとするのが通説であるが、後進の若手数名を「紙の子」と呼んで厳しく指導していたため、地域では半ば養母のように扱われていた。なお、親族の一部は現在もとに居住しているとされるが、詳細は確認されていない。
脚注[編集]
関連項目[編集]
脚注
- ^ 佐伯康之『都市祭礼の再設計』青灯社, 1998年, pp. 41-73.
- ^ 森下由里『紙鳴りと共同体の音響地図』民俗書房, 2006年, pp. 12-56.
- ^ A. Thornton, “Sound Corridors and Urban Rituals,” Journal of Civic Anthropology, Vol. 14, No. 2, 2011, pp. 88-109.
- ^ 渡辺精一郎『路地と提灯の社会史』東都出版, 2002年, pp. 201-245.
- ^ 中山澄子『りも帳解読序説』國文社, 2014年, pp. 7-38.
- ^ M. H. Bell, “Paper Resonance in Postwar Tokyo,” Proceedings of the Society for Applied Folklore, Vol. 9, No. 1, 2009, pp. 3-27.
- ^ 田中久美『祭礼設計入門――動線と匂いの基礎』港湾新書, 2010年, pp. 119-160.
- ^ S. K. O’Brien, “Community Memory and Walking Scripts,” Urban Memory Review, Vol. 22, No. 4, 2018, pp. 211-239.
- ^ 黒田一馬『夜の境界再編――森本りも論』北辰館, 2021年, pp. 55-92.
- ^ Eleanor Briggs, “The Strange Case of Rimo Morimoto and the Singing Paper,” International Journal of Imagined Heritage, Vol. 3, No. 3, 2024, pp. 44-61.
外部リンク
- 国立歴史民俗資料アーカイブ
- 浅草夜回り研究会
- りも帳デジタル閲覧室
- 日本民俗設計学会
- 向島口承史プロジェクト