森都エルヴァン
| 正式名称 | 森都エルヴァン |
|---|---|
| 別名 | 森都、エルヴァン式森都計画 |
| 分類 | 都市林業・景観儀礼・防火緑地 |
| 提唱者 | 渡会宗一郎、E. H. Mallory |
| 成立 | 1912年頃 |
| 主な適用地域 | 東京市、仙台市、京都市 |
| 中核施設 | 環木塔、斜樹路、内苑風渠 |
| 管理機関 | 内務省都市緑化局(旧称) |
| 象徴色 | 深緑と灰青 |
森都エルヴァン(しんとエルヴァン、英: Mori City Elvan)は、とを融合させるために設計された、半制度的・半儀礼的なの総称である[1]。主に末期のにおける緑地再編計画を起点とし、のちにやの一部でも模倣されたとされる[2]。
概要[編集]
森都エルヴァンは、都市の内部に意図的な森林帯を編入し、空気循環、防火、心理的鎮静、さらには住民の通行規律を同時に整えるとされた都市設計思想である。の旧下町部で試験導入されたのち、後の防災思想と結びつき、半ば行政、半ば宗教的な実践として広まったとされる[1]。
名称の「エルヴァン」は、フランス語圏の林学者の姓に由来すると説明されることが多いが、実際には東京帝国大学の測量班が使っていた略号「E-L Ván」を民間が聞き違えた結果だという異説もある。なお、初期の関係者記録では「森都」だけが使われており、「森都エルヴァン」は後年になって都市計画誌が整えた呼称であるとの指摘がある[要出典]。
成立史[編集]
前史と種子地帯[編集]
起源は、の臨時衛生調査で、からにかけての密集地が夏季に極端な熱だまりを形成することが報告されたことにあるとされる。これに対し、造園家のは、街路樹を点在させるだけでは不十分であり、住区全体を「呼吸する林」として再編すべきだと主張した。彼の草案には、幅12間の斜樹路を4本交差させ、各交点に水盤を置くという、やけに細かいが当時の技術者を妙に納得させた図面が含まれていた。
一方で、英人顧問のは、の式の緑地管理を下敷きにしたとされるが、実際のMalloryはの港湾緑化を見学しただけで東京の空気に恋をしていた、という逸話が残る。彼が渡会に送った手紙には「森林は建築に勝つが、匂いには負ける」とあり、この一文が後の森都エルヴァンの“防臭規定”に採用されたという。
制度化はの「都市林相調整仮規程」公布で進んだ。仮規程は全17条から成り、うち9条が樹種、4条が住民の通行速度、残りが落葉処理に割かれていたとされる。もっとも、この仮規程はに掲載された形跡が薄く、実際には東京市土木課の内部通達を後から拡張したものだとみる研究者もいる。
拡張期と震災後の普及[編集]
の後、森都エルヴァンは防災都市論として再評価された。焼け残ったの倉庫群に仮設の「環木塔」が設けられ、住民が塔の周囲を反時計回りに3周すると炊き出しの配給順が早くなる、という謎の運用が行われたと伝えられる。これが「回遊配給方式」であり、後にの視察報告に紛れ込んだことで全国に知れ渡った。
この時期、では寺社林と路地網を接続する「細路樹環」計画が試みられ、では防風林と学校林を連結する「学縁森帯」が導入された。いずれも住民の反応は良好で、特に児童の欠席率が冬季に1.8ポイント改善したとされるが、統計の出し方が非常に雑で、母数が年度ごとに変わっている。なお、これらの成果は当時の新聞では「樹木が都市を鎮める」と美辞麗句で報じられた一方、配達員からは「曲がりくねった道が増えただけ」と不評だった。
にはが設置され、森都エルヴァンは事実上の標準仕様となった。同局の内部文書では、並木の間隔を7.2メートルではなく7.4メートルに改めるだけで風速が平均0.3m/s変化する、と細密な数値が示されているが、同年の測定器が2台しかなかったため、現在では象徴的数字とみなされている。
構造と技法[編集]
森都エルヴァンの基本構造は、外周の防風帯、中間の歩行緩衝帯、中心の儀礼空間から成る三層構造である。外周には落葉樹を密植し、中間には斜めに切られた小径を配し、中心には必ず石造の給水柱か小規模な噴水が置かれた。これにより「人は急がず、木は倒れず」という設計思想が成立するとされた[3]。
技法として有名なのが「内苑風渠」である。これは幅90センチの浅い水路を道路の片側に沿わせ、途中で3か所だけ地下に潜らせることで、空気が“迷う”時間を作るという仕掛けである。いわゆる都市微気候の先駆けとされるが、実態は雨水排水を体裁よく言い換えたものではないかという批判もある。
また、住民参加の比重が異様に高く、毎月第2土曜には「葉脈点検」が義務づけられた。これは樹冠の形が規定から外れた場合に、近隣3戸が交代で枝を整える制度で、奉仕時間は1世帯あたり年4.5時間に及んだという。地域によってはこれが共同体意識を育てたが、別の地域では「お節介の制度化」と呼ばれて反発を招いた。
社会的影響[編集]
森都エルヴァンが都市に与えた影響として最も大きいのは、緑地を景観ではなく行政機構の一部として扱う発想を広めたことである。これによりの学校庭園、の停車場植栽、さらにはの郵便局前植え込みまでが相互に参照されるようになったとされる。
また、都市の「空気」を数値管理する文化が定着し、1930年代には新聞広告に「本区は森都指数72」といった記載まで現れた。これは実際には広告代理店が独自に作った指標で、緑被率、鳥の鳴き声回数、夕方の足音密度を無理やり合成したものである。しかし当時の住民はこれを半ば誇りとして受け止め、町会ごとに競い合ったという。
一方で、緑地の維持費が高く、の一部では学校の校庭に植えたケヤキが成長しすぎて日照が不足し、授業中に教室が薄暗くなる事例が多発した。これに対し、当局は「薄暗さは思考を深める」と説明したが、実際には電燈予算が削られていただけである。
批判と論争[編集]
森都エルヴァンへの批判は、当初から「美しいが面倒である」という実務的なものが中心であった。特に、道路を樹木の根が押し上げる問題、落葉の季節に清掃負担が増える問題、そして何より街区ごとの“儀礼的剪定”が官民の境界を曖昧にしたことが問題視された。
にはが「木々の名を借りた統制ではないか」と報じ、これが一時的な政治論争に発展した。これに対し推進派は、森都エルヴァンは統制ではなく「都市の呼吸法」であると反論したが、反論文の末尾に「なお呼吸法の実施には許可証が必要」と書かれていたため、かえって疑念を深めた。
なお、学術的には、森都エルヴァンの実在性そのものに疑義を呈する論者もいる。彼らは、関連文献の多くがからにかけて相互引用だけで増殖しており、一次資料が異様に少ない点を指摘している。ただし、の古写真に写り込む妙に整った斜樹路の存在は反論しづらく、議論は今も決着していない。
後世への継承[編集]
戦後、森都エルヴァンはそのままの形では残らなかったが、期のニュータウン計画やの一部に断片的に受け継がれたとされる。特に、歩道と植栽帯を一体化する設計、学校と公園を連結する「学園緑環」、そして水路を単なる排水ではなく景観資源として扱う発想は、森都エルヴァンの名残であると説明されることが多い。
にはが「都市の呼吸——森都エルヴァンの諸相」という企画展を開催し、来場者は3万2,418人を数えた。展示の目玉は、当時の設計図を拡大復刻した2.7メートル四方の青図で、角に「枝葉は情緒に従うべし」と書かれていたことから大きな話題となった。
現在では、森都エルヴァンは実在の都市計画というより、近代日本が緑地に託した過剰な理想の象徴として語られることが多い。ただし一部の自治体では、いまなお街路樹の配置を検討する際に「これは森都エルヴァン的か」が判断基準として使われているという。
脚注[編集]
関連項目[編集]
脚注
- ^ 渡会宗一郎『都市林相調整私案』青楓堂, 1913年.
- ^ E. H. Mallory “Report on Arboreal Circulation in Eastern Capitals” Journal of Civic Horticulture, Vol. 4, No. 2, 1914, pp. 88-117.
- ^ 東京市土木課編『森都エルヴァン試験地報告書』東京市役所, 1916年.
- ^ 佐伯久美子『防災と樹冠――帝都における森都思想』岩波書店, 1987年.
- ^ 神谷善次『都市の呼吸法とその誤配達』中央公論美術出版, 1996年.
- ^ Margaret L. Vane “The Elvan Line and Urban Shade Governance” Transactions of the Architectural Botanical Society, Vol. 12, No. 1, 1929, pp. 14-39.
- ^ 『内務省都市緑化局月報』第7巻第3号, 1930年.
- ^ 小沼芳樹『仙台斜樹路の研究』東北大学出版会, 2004年.
- ^ Hiroshi T. Kanda “Trees That Governed: A Semi-Administrative History of Mori City” Urban Studies Quarterly, Vol. 21, No. 4, 2011, pp. 201-233.
- ^ 『都市林相調整仮規程注解』第二版, 日本景観協会, 1932年.
外部リンク
- 国立近代都市資料館デジタルアーカイブ
- 日本都市林業学会
- 帝都復興研究センター
- 景観儀礼史料室
- 森都エルヴァン研究会