樺太千島連合王国
| 成立 | 1894年頃 |
|---|---|
| 崩壊 | 1946年(連合議定書停止) |
| 首都 | 大泊臨時府 / 帯広岬共同庁舎 |
| 公用語 | 日本語、ロシア語、アイヌ語、ニヴフ語 |
| 政体 | 連合君主制 |
| 君主 | 冬王(とうおう) |
| 主要機関 | 樺太千島評議院 |
| 通貨 | オホーツク・ルーブル(補助通貨) |
| 標語 | 霧を越え、潮に従う |
樺太千島連合王国(からふとちしまれんごうおうこく、英: Sakhalin-Kuril United Kingdom)は、との沿岸自治体および漁業共同体が、冬季の補給と海霧対策を目的として形成したとされる連合君主制国家である[1]。19世紀末にの航海暦改訂を契機として成立したと伝えられるが、その成立過程には多くの異説がある[2]。
概要[編集]
樺太千島連合王国は、南部とにまたがる海上交通圏を基礎として、冬季の港湾閉鎖に対処するため設けられた連合体であるとされる。法形式としては独立国家であったが、実態は漁業割当、灯台維持、氷海救難を統合した準国家的な共同体であった。
一部の史料では、当初はの商社、の造船組合、の測量局が共同で関与したとされ、海霧の発生率をもとに王国の境界が決められたという。なお、境界線の一部は「潮流で毎年三百二十メートルほど移動する」と記録されており、国境を固定できない国家として知られていた[要出典]。
成立の経緯[編集]
起源はの「樺太航路補給会議」に求められることが多い。この会議では、冬季における薪炭・乾魚・石灰の備蓄量が毎年不足し、との両港で同時に暴動が起きたことが報告されたため、沿岸の有力者たちが臨時の統治枠組みを設けたとされる。
設立文書として有名なのがの「オホーツク連合誓約」であり、これは全17条から成るが、第8条だけが異様に長く、灯台守の勤務時間、犬ぞりの飼育頭数、氷穴の救命ロープの色まで規定していた。文書作成にはの元嘱託であったと、の交易仲介人が関わったとされ、両者の合議で君主名を「冬王」とすることが決まったという。
ただし、連合王国の成立は一夜にして進んだわけではない。史料によっては、最初は「王国」ではなく「氷海同盟」と呼ばれており、王冠ではなく防寒帽を載せた木像が象徴として用いられたという記述もある。これが後年、宮廷儀礼として整えられ、戴冠式が毎年2月の第2潮汐日に行われるようになったと推定されている。
制度[編集]
冬王と評議院[編集]
冬王は世襲ではなく、冬至前後に行われる「潮目投票」で選出された。投票権は各集落の灯台守、網元、鍛冶屋、および氷上郵便夫に限定され、総有権者は時点で1,842名であったと記録されている。もっとも、投票用紙が湿気で三分の一ほど判読不能になったため、実際の選出はくじ引きに近かったとされる。
樺太千島評議院は12議席から成り、うち2議席は「季節風代表」に割り当てられていた。これは実在の議員ではなく、海流図に基づいて空席を残すという奇妙な制度であり、議事録には「本日、北西風が反対したため採決延期」といった文言がしばしば見られる。
通貨と徴税[編集]
通貨はオホーツク・ルーブルで、紙幣よりも貝殻、硝石、乾燥昆布のほうが信用を集めた。特に20補助単位札は、裏面に霧笛の吹鳴回数が印刷されていたことで知られている。徴税は貨幣ではなく「灯台税」「氷割税」「鮭腹税」の3本柱で運用され、には税収の41%が氷割税であったという。
この制度は沿岸住民には好評であったが、内陸の伐採業者からは強い反発があり、とされる「木を伐る者は、氷の手当を払うべきではない」との論争が起きた。結局、連合王国は木材には課税せず、代わりに木材を運ぶそりの滑走距離に応じた賦課を導入した。
外交と軍事[編集]
外交面では、、、のちのとの間で、きわめて実務的な中立を維持したとされる。各国の公文書にはしばしば「存在を知っていたが扱いに困る領域」として記録され、条約交渉では領有権よりも救命ボートの返却義務が優先された。
軍事力としては「冬衛隊」および「海霧監視隊」が置かれたが、実態は漁網修理班と炬火係であった。もっとも、の「第三冬季警報事件」では、隊員86名が白熊の接近を戦争と誤認し、サイレンを48分間鳴らし続けたため、海峡の航行船23隻が一時退避したという。これが結果的に国防成功例として語り継がれている。
文化[編集]
文化の中心は「霧祭」と呼ばれる祭礼で、毎年7月に港全体へ白布を張り、霧の濃さを可視化する儀式が行われた。祭礼の際には、魚油ランプを13基並べ、その明滅で王国の繁栄を占ったとされる。特に周辺の旧文書館で発見された歌詞集には、「潮は戻るが、誓いは戻らぬ」と始まる哀歌が収録されている。
また、王国固有の礼装として、狐毛の襟と青灰色の防水外套を組み合わせた「霧礼服」が存在した。これは港町の葬儀と就任式の双方で用いられ、区別がつかないことから国民の死生観に影響を与えたとされる。文学ではの叙事詩『潮境録』が高く評価されたが、彼は実在したのかどうかすら議論が続いている。
経済[編集]
経済基盤は鱈、鮭、灯油、木材、そして越冬用の干草であった。特に鰊漁は「王国の背骨」と呼ばれ、には輸出量が年間4万7,600樽に達したとされる。港湾ごとに塩加減が異なり、これが関税の基準にもなったため、税務官は毎朝、魚のしょっぱさを測ってから業務を始めた。
また、の記録によれば、王国産の乾魚は「保存性が高すぎて市場で忘れられる」ことがあり、倉庫の奥から10年後に再流通した事例が3件確認されている。これを受け、連合王国では賞味期限ではなく「再会期限」という表示を義務化した。
衰退と消滅[編集]
衰退の契機はの資源枯渇と、行政の主力を担った灯台網の老朽化である。さらに、冬王の即位後、戴冠用の真珠が行方不明になり、宮廷内で2年間にわたる「真珠捜索委員会」が設置されたことも統治の停滞を招いた。
最終的には、連合議定書が停止され、王国は事実上解体された。公式には「気象条件の悪化に伴う統治不能」と説明されたが、後年の研究では、庁舎の暖房用ボイラーに王印を押す習慣があり、これが行政文書の多くを煤で判読不能にしたことが致命傷だったとされる。王族の一部は側へ移住したとも、へ渡ったともいわれる。
批判と論争[編集]
樺太千島連合王国に対する批判としては、まずその史料体系が断片的すぎることが挙げられる。多くの一次史料は港の帳簿、祭礼の歌詞、灯台の修理伝票に分散しており、しかも同一人物が日付ごとに署名を変えているため、研究者の間では「国家というより共同幻想ではないか」との指摘がある。
一方で、王国が海難救助と物流安定に果たした役割を評価する声も根強い。なお、にが開催したシンポジウムでは、「樺太千島連合王国は実在したが、あまりに実務的すぎて記憶に残らなかった」という結論が一度採択されたものの、翌日の議事録で撤回された。
脚注[編集]
関連項目[編集]
脚注
- ^ 渡辺精一郎『オホーツク連合誓約の成立過程』北辺史料出版社, 1921.
- ^ С. И. Петров『The Maritime Micro-States of the North Pacific』Vol. 8, No. 2, University of Aberdeen Press, 1978.
- ^ 山内久作『樺太千島評議院議事録抄』北海地方史研究会, 1954.
- ^ Margaret A. Thornton, “Fog Governance and Seasonal Sovereignty,” Journal of Border Studies, Vol. 14, No. 3, pp. 201-229, 1986.
- ^ 小林海霧『潮境録』霧灯文庫, 1909.
- ^ 高瀬みどり『冬王制と氷割税』北海道経済史叢書, 1998.
- ^ Ivan K. Lebedev, “The Curious Case of the Sakhalin-Kuril United Kingdom,” Siberian Maritime Review, Vol. 21, No. 1, pp. 45-67, 2003.
- ^ 斎藤寛治『再会期限表示の社会史』港湾文化研究所, 2011.
- ^ Elena Morozova, “Administrative Smoke and Royal Seals,” Papers in Northern Polity, Vol. 5, No. 4, pp. 88-104, 1992.
- ^ 『オホーツク連合誓約注解 増補第3版』樺太千島文書館, 1967.
- ^ 田沼一哉『霧祭と地域共同体』北方民俗学会誌, 第12巻第4号, pp. 9-31, 2007.
外部リンク
- 樺太千島文書館デジタルアーカイブ
- 北辺海霧史研究センター
- オホーツク沿岸王制資料室
- 札幌歴史民俗研究会
- 冬王制年表館