此処陸
| 表記 | 此処陸(場合により「此処陸地」「此処陸状」など) |
|---|---|
| 読み | ここりく |
| 領域 | 地名・行政・測量技術の混成語 |
| 初出とされる時期 | 中期(諸説あり) |
| 主な用途(伝承) | 航路と陸域の境界運用、通行税の算定補助 |
| 関連する実務 | 検地、海陸見積、帳簿照合 |
| 保管史料(架空) | 写本群と「陸路札」断片 |
| 学術上の位置づけ | 概念史・行政文書史の対象語 |
此処陸(ここりく)は、の古文書系資料に散見されるとされる「地名」でも「概念」でもない中間的用語である。文献学界では、が航路管理や徴税実務と結びついて形成された可能性が論じられてきた[1]。
概要[編集]
は、文字通りに読むと「ここ+陸」だが、実際には「ここで(ある地点で)陸が始まる」という運用上の合図として機能した、とする解釈がある。すなわち、地理の記述というより、移動と記帳の手続をつなぐ“境界言語”として理解されることが多い。
一方で、この語を単なる比喩と見なす立場もある。具体的には、「陸に上がった者が、次にどの帳面を開くべきか」を指す内部コードであった、と推定されることもある。なお、後世の学者が作った“説明用語”である可能性も指摘されている[1]。
当該語が物議を醸した理由は、海陸の境をめぐる行政区分が、同時代の港湾政策や検地の進捗に連動して変化し続けたためである。結果としては、固定された地名というより「その時点の制度」によって意味が揺らいだ語として扱われてきた。
語源と定義[編集]
語源については、「此処(ここ)を採取し、陸(りく)を計測する」という儀礼的手順から来たとする説が有力である。ここでいう「採取」は、潮位や砂質を“言語化”する作業を指すとされ、港の役人が記録簿に書くまでが一連の工程であった、という物語が残っている[2]。
また、を「地理座標の代替記号」と見る説もある。測量の器具が港ごとに差異を持ち、誤差が年々積み上がったため、最終的に“手続上の地点”を文章で指定する必要が生じた、とされる。例えば、写本の注記には「方位儀の針が三度狂う日に限り此処陸と記す」といった、妙に具体的な注意が書かれていたと紹介される[3]。
定義の難しさは、語の用例が三層に分かれている点にあるとされる。第一に港湾文書の境界宣言、第二に税徴収の算定補助、第三に旅行者向けの注意書き(短い札)である。分類するほど実態は散らばり、学者を困らせる構造になっている。
歴史[編集]
成立:海陸境界の帳簿革命[編集]
の成立は、期末〜期にかけての“帳簿革命”と結びつけて語られることが多い。特にからの指令で、港ごとに異なる通行税の計算方法を統一する必要が出た、とする筋書きが知られている[4]。
その調整役として登場するとされるのが、架空の官僚組織である。ここは直属の“補助事務局”として想定され、各港で「海から陸へ切り替わる瞬間」を文章化することが任務とされた。記録は「一港につき平均78枚の札を作成し、照合で誤記が12件出るまでを標準作業」として伝わる[5]。
この制度により、境界の説明が地図から文書へ移り、という中間語が生まれた、と解釈されている。もっとも、同じ港でも雨季と乾季で土の踏み固めが変わり、制度運用が毎年揺れたため、語義も“年により微調整”されたとされる。
拡散:写本と港の数え方[編集]
拡散の契機としては、測量技術の標準化失敗が挙げられる。具体的には、全国の港で使うべきとされた方位儀が、輸送中に針先が摩耗し、結果として誤差が最大で「約2.13度」生じた、とする数字が、後世の注釈に残っている[6]。
そこで、は「図ではなく手順で境を示す言葉」として採用され、写本群に繰り返し転写された。転写作業に関わった人物としては、書写職人のが挙げられることがある(役職名は“写帳の主任”とされる)。渡辺は「札の語順は必ず『此処→陸→印』」とし、語を逆にすると照合で四割の確率で差し戻された、と“現場の体感値”が残っている[7]。
なお、は海岸線の変化にも敏感だった。たとえば沖の砂州は数十年で位置を変え、結果として“同じ場所でも此処陸の位置がズレる”という現象が起きたとされる。そのため語は、地形より運用に結びつけられるようになった。
近代化:鉄道時代の再解釈[編集]
近代になるとは“古い港の言葉”として扱われ、測量や税制の世界では一度は忘れられたとされる。ただし、後期の交通行政において、港湾と内陸物流の接続点が再び問題化した際、古文書の用例が蒸し返された。
ここで再解釈を主導したのがの内部検討会とされるである。資料には「駅舎から半里未満の区間は、此処陸相当として扱う」との記述があり、鉄道が敷設された土地でも“帳簿上の境界”が必要だったことを示す、と語られる[8]。
さらに、昭和期には観光案内の小冊子が“雰囲気語”として利用し、の架空旅館チェーンが「此処陸体験プラン」を売り出した、という噂がある。もっとも、これは当時の広告文の端に見つかった誤記だとする反論もあり、どこまでが実務由来でどこからが作り話かは定まっていない。
社会的影響[編集]
がもたらした影響は、海と陸の境が“地理”ではなく“手続”として組織に浸透した点にあるとされる。港では、通行人の申告書に「此処陸の印」が求められることがあり、印の有無で次工程(届け先・帳簿・税率)が分岐した、と説明される[9]。
この仕組みは一見合理的であったが、同時に“言葉の管理”が権限になった。つまり、どの文書で、どの表現で境を宣言するかが権力となり、結果として地域間の運用差が政治問題化した。たとえば側の港では「此処陸」を三文字のまま維持したのに対し、別港では「此処陸地」と二文字を足したため、照合係が休日に入るまで解決しなかった、といった逸話が語られる[10]。
また、教育の場にも波及した。子ども向けの読み書き帳に、が“お作法の文字”として登場することがあるとされ、字形の反復練習に用いられた。ここでは「印は押す前に四回息を止める」が作法とされ、制度の記憶が身体化された、という不思議な伝承まで残っている。
批判と論争[編集]
批判の中心は、用例が“あまりに都合よく”制度の都合と一致しすぎる点にあるとされる。つまりが実在したとしても、後世の編者が複数の慣行を寄せ集めて、都合のよい一本の概念にまとめたのではないか、という見方である。
さらに、統計的にも不自然さが指摘されている。ある研究者は「写本全体のうち、の語が登場する頁は平均で総頁の2.87%に集中している」と述べたとされるが、その計算には資料の欠落を補う補正係数が恣意的だと反発があった[11]。
一方で擁護側は、制度運用では“境界語”が頻出するため集中も説明可能だと主張した。特に、照合作業の省力化が目的であれば、境界の指定語が決まった欄に現れるのは自然である、とする。ただし擁護は、根拠となる一次史料の所在が「港倉庫の奥で見つかるかもしれない」といった語りに依存し、学術的には弱点になっている。
脚注[編集]
関連項目[編集]
脚注
- ^ 井上雅信『境界語の行政史:此処陸の系譜』東京文庫, 1998.
- ^ Margaret A. Thornton『Maritime Ledger Semantics in Early Modern Japan』Journal of Administrative Cartography, Vol. 12, No. 3, pp. 41-63, 2004.
- ^ 鈴木清輝『写本運用と誤差の心理学』蒼海書房, 2009.
- ^ 高橋宗彦『港の印と手続の記憶』日本古文書学会叢書, 第5巻第2号, pp. 77-102, 2011.
- ^ 海陸札管理方 編『札式要綱(抜粋)』海陸文庫, 1673.
- ^ Ryo Kisaragi『Standard Instruments, Unstandard Results: The 2.13-Degree Affair』Transactions of the Cartographic Bureau, Vol. 19, No. 1, pp. 1-27, 2016.
- ^ 渡辺精一郎『照合字順の実務記録』私家版, 明治31年.
- ^ 内務省陸海連絡監査室『駅区間と境界印の運用要領』内務省印刷局, 1907.
- ^ 青木恵理『比喩と制度のあいだ:境界語の再構成』史学研究会紀要, 第41号, pp. 201-229, 2018.
- ^ (書名がやや不自然)『此処陸地の考古学:地形ではなく語形』海鳴出版社, 1972.
外部リンク
- 国境語アーカイブ
- 港倉庫写本データベース
- 陸海帳簿研究会
- 此処陸図解ウォッチ
- 旧港印コレクションサイト