求聞百科
| 分類 | 対話型百科事典(聞書・索引方式) |
|---|---|
| 成立時期 | 頃からの編纂慣行 |
| 編集理念 | 「見聞より、問いへの応答を優先」 |
| 主要媒体 | 巻子本・付録カード・町内配布冊子 |
| 典拠運用 | 聞者の署名と、異同札(ようどうふだ) |
| 事務局 | 浅草橋周辺の「求聞会」事務所(後に分室化) |
| 想定読者 | 学者・医師・商人・講談師 |
(ぐもんひゃっか)は、未知の事象を「聞く」によって編集し直すことを理念とする百科事典である。江戸後期から続くとされ、の町人文化と結びついた資料収集の仕組みとして知られている[1]。
概要[編集]
は、単なる知識の羅列ではなく、質問—回答—異同—再質問という編集工程を前提に構成された百科事典として語られる。とくに「どこで聞いたか」より「どんな問いが立ったか」を重視する点が特徴である。
その成立経緯については、の「夜舟問答会」(よふねもんどうかい)で、町の複数の聞き手が同じ話題でも答え方が違うことに気づき、従来の書物編集では追えない情報差を体系化しようとしたことに由来するとされる。また、各項目には「応答の癖」を示す符号が付され、同じ知識でも話者の立場で意味が揺れることを前提に扱うとされた[2]。
現代の読者にとっては奇妙に映るが、求聞百科の編集者は「誤り」を排除するのではなく、「誤りが生まれた問いの形」を記録し、再利用可能なデータとして保存したとされる。結果として、学術書にありがちな権威の一本化より、会話の分岐が重視される百科になったのである。
成立と編纂の仕組み[編集]
聞書の規格:二十四の質問型[編集]
求聞百科では、編集者が先に「問いの型」を決めるとされている。代表的な型は二十四種あり、たとえば「原因型」「効能型」「代替型」「禁止型」などが、各巻の冒頭に掲げられたとされる。実務上は、質問がブレると項目の意味が変わるため、同型の問いを揃えることで比較可能性を確保したと説明された[3]。
特に有名なのが「三段応答規則」である。すなわち、第一応答は最短で(多くは一文)、第二応答は具体例(少なくともの場面語を含む)、第三応答は反例(少なくとも)を示す、という形式である。記述は長くなるほど正確になると一般には考えられるが、求聞百科では逆に「短さを計測」して信頼性を見積もったとされ、答えの“圧縮率”が以上である項目は採用率が高かったとする記録が残る[4]。なお、この数字は後世の編集者が“それっぽく足した”可能性が指摘されている。
異同札と署名の経済学[編集]
項目ごとに「異同札(ようどうふだ)」を付し、別の聞き手が同内容を別の言い回しで語った場合は札を差し替える仕組みが採られたとされる。異同札の交換は“無制限”ではなく、当初はの差し替えまでが許され、以後は「再問記録」に回されたと伝えられる。
また、署名は個人名のほかに、聞き手の職能を表す略号が併記された。たとえば医師は「治安寄り」、商人は「価格寄り」といった具合に、答えに混入しがちな関心を透かす役割を担ったと説明される。実際にで配布された付録冊子では、同一項目の署名構成が「医師:商人:講談師=」であったとされ、編集委員会は“偏りが読み味を変える”ことを統計で語ったのである[5]。
分野への広がり:誰が何を求めたか[編集]
求聞百科は、当初はとに関する問答を中心に整備されたとされるが、すぐに、、、、さらにの扱いへと拡大したと説明される。編集者たちは「異常はデータであり、ただちに捨てない」という方針を徹底したため、怪異譚ですら問答形式に落とし込まれた。
関係者としては、学者ののような“文字の管理者”と、町医者ののような“聞き手の統括者”、そして講談師ののような“応答の癖を読み解く者”が並立していたとされる。特に講談師は、同じ話を別の観客に合わせて再構成できるため、求聞百科の運用と相性が良かったとされる[6]。
この百科の社会的影響は、情報の流通が「本」から「問いの流通」へ移った点にある。たとえば、ある地域で流行った治療法が正しいかどうか以前に、その治療が“どんな病名の問いで採用されたか”が追跡できるようになった。その結果、とが接続され、噂が規格化される方向へ進んだとされるのである。
主要項目(代表例)[編集]
求聞百科の項目は、概念名ではなく「問いの型」から立ち上がることが多いとされる。以下は代表的な項目であり、各項目には“採用の理由”と“現場の笑える挿話”が添えられていると説明される。
※実物に近い体裁で再構成しているため、一部の数値は後世の再編集により調整された可能性がある。
一覧[編集]
(1792年)- 編纂慣行の始点とされる集会。船着場で“話が早い人”ほど採用されるという謎ルールがあり、編集者は速度を「蝋燭の削り幅」で測ったと伝えられる。なお、削り幅がを超えると「速すぎて混ぜ物がある」と疑われたとされる[7]。
(1794年)- 応答を短文化したときの情報損失を見積もる指標。編集者の計算例では「冗長さを削るほど正しそうに見える」ため、逆補正係数がとされた。これがのちの“正しさの錯覚”論争の火種になったとされる。
(1801年)- 別の聞き手が同趣旨を語った場合に貼り替える札。浅草橋の分室では札に顔料の色が割り当てられ、青は“反例”、赤は“効能”、黄は“原因の推定”と運用されたという。札の色だけで意味が通じるようになり、読者が「文字より色に従った」時期があったとされる。
(1807年)- 医師が語る薬の項目で、治安(体裁・服薬継続)を優先する傾向を分類した。求聞百科では“効果”より“続くか”が第一に問われたため、ある編集者が「利き目は二週間以内、続く目は二か月以内」と書き分けた逸話が残る。
(1812年)- 商人が病名を語る際、費用対効果を暗に前提化する傾向を扱う項目。記録によれば、当時の調剤費の相場が単位で記され、項目採用の条件に「一歩がだいたい」が使われたという。近道ほど高くなる、という冗談のような経路が採用率に影響したとされる[8]。
(1819年)- 暦は同じ日付でも“何のための問いか”で意味が変わるとして、説明文を動的に組み替える発想をまとめた項目。編集者が「雨が降るかを占う問い」と「稲が実るかを問う問い」を混同した失敗が記録され、以後、問いを混ぜないために“紙の間”を挟む手順が作られたとされる。
(1823年)- 城下の洪水対策を、原因—対処—余波の順に語らせる方式。面白い例として、余波の欄に「翌月の豆腐屋の臨時休業」という生活情報が入り、学術的ではないのに採用されたという。編集委員会は「生活の余波は一番長持ちする」と評価したとされる。
(1829年)- 大工や石工の“手つき”が工法を左右する点を、職能の署名と指紋の類似で分類したとされる。指紋は当然ながら当時の技術で採取は難しいはずだが、求聞百科では“インクのにじみ方”を指紋の代理として用いたという記述がある。もっとも、ここは「後年の誇張」とする指摘もある。
(1831年)- 星の観測を“眠気”と結びつけて分類した項目。編集者が、夜更けになるほど回答が“うっかり”になることを統計化し、誤差を「眠気点数」で調整したとされる。たとえば“誤差0.2”が眠気3のときに限り出る、という妙に具体的な記述が残る。
(1836年)- 怪異譚を採用する際、必ず反例を先に書かせた項目。恐怖を煽るだけの話は採用されず、「その怪異が出なかった夜」の証言が必要だったという。反例を集めるのが大変すぎて、編集会が一度だけ「反例が三件集まらなければ怪異は“流行”扱い」と決めた逸話が伝えられる。
(1840年)- 神田笑丸らが担当したとされる、応答の癖を索引化する項目。滑稽味を生む言い回しが、情報の誤りを隠す場合もあるため、編集者は“笑いの割合”をで上限制としたという。笑いが多い項目ほど「面白いが危険」と扱われた時期があったとされる[9]。
(1846年)- 分室ごとに異なる色の異同札を使うと混乱が起きるとして統一した運用。統一の鍵は「札の色を見せるより読ませる」ことで、色だけに頼る読みを抑制するための教育用付録が配られたとされる。皮肉にも、この教育が人気を呼び、求聞百科が“読み味の事典”として流行したとも説明される。
(1855年)- 章末を空白にして“読者に問いを返す”方式を採ったとされる最終編。空白には「この問いは誰に聞け」と一文だけ書かれるのが基本であった。ある版では、空白の行数がに揃えられ、行数が違うと偽物扱いになったという。
批判と論争[編集]
求聞百科は“問いの流通”を促した一方で、編集者が定めた問いの型に合わせて現実が歪むのではないかという批判が出たとされる。たとえばの項目では、観測者が眠気を申告していたため、申告が慎重な人のデータだけが「補正済みの正しい夜」として残ったと指摘されている。
また、異同札の運用が複雑化し、町の学校では「札の色を覚えること」が学習目標化した時期があったとされる。色で意味を覚えると、細部の違いを無視してしまう危険があるとして、教育官僚の(架空の名称として伝わる)から是正を求める通達が出されたという。しかし、現場では逆に「色を変えると売れる」と商人が色替え需要を煽ったため、批判は商業に回収されたとも言われる[10]。
なお、圧縮率の指標やのような係数は“後年の編集者の勘”に見えるとして、出典管理の観点から疑義が呈された。もっとも求聞百科の編集観では、疑義さえも「問いの形」として保存されるため、完全な訂正ではなく“再質問の起点化”が行われたとされる。
脚注[編集]
関連項目[編集]
脚注
- ^ 村田久軌『求聞百科の編集技法』求聞学会出版, 1848年.
- ^ Watanabe Seiiichiro『On Compression Rate in Dialogue-First Encyclopaedias』Tokyo Academic Press, 1830年.
- ^ 神田笑丸『講談師の応答癖と索引術』江戸書林, 1842年.
- ^ 杉原春道『治安寄り薬学の運用基準(第2巻第1号)』薬舗紀要, Vol.12 No.1, pp.41-66.
- ^ 渡辺精一郎『暦記述の問い差分』京都暦学紀要, 第5巻第3号, pp.12-38.
- ^ Margarita A. Thornton『Indexing Contradictions in Folk Scholarship』Journal of Comparative Folklore, Vol.7 No.2, pp.77-99.
- ^ 内田清九郎『分室の色替えと読書習慣』史料会報, 第9巻第4号, pp.201-229.
- ^ R. Caldwell『Nocturnal Error and Self-Reported Fatigue in Pre-Modern Astronomy』Astronomy & Society Review, Vol.3 No.1, pp.5-24.
- ^ 求聞会編集部『異同札台帳(校訂増補版)』浅草橋分室, 1871年.
- ^ 松井文蔵『城普請の指紋割当とにじみ測定』建築問答研究, 第1巻第1号, pp.1-19.
外部リンク
- 求聞百科アーカイブ
- 異同札・色見本館
- 夜舟問答会記録保管所
- 問い型ライブラリ
- 圧縮率計算機(再現版)