沖縄医科大学
| 名称 | 沖縄医科大学 |
|---|---|
| 種類 | 医学校複合施設 |
| 所在地 | 沖縄県浦添市西海岸学園地区 |
| 設立 | 1978年 |
| 高さ | 74.6 m |
| 構造 | 鉄筋コンクリート造・琉球瓦外装 |
| 設計者 | 仲宗根 恒一郎 |
沖縄医科大学(おきなわいかだいがく、英: Okinawa Medical University)は、にあるを中核とするである[1]。
概要[編集]
は、西海岸の埋立地に所在する、医学校と研究棟、講堂塔を一体化した複合建造物である。現在では、の海風に耐える高層医療教育施設として知られ、地元では「白い注射器」とも呼ばれている[2]。
この施設は、の開学を機に建設されたとされるが、実際にはそれ以前から海上気象観測塔として計画されていた経緯がある。のちにの医師養成拡充策との観光振興策が奇妙に接続され、教室棟の上に実習庭園を載せるという独特の構成に改められた[3]。
また、塔体の中層部に設けられた「臨床風廊」は、台風時に患者搬送を避けるための避難経路として設計されたが、現在では学生が解剖学の暗記を唱和する場として利用されている。なお、年に一度だけ外壁の琉球瓦が張り替えられる儀式があり、大学関係者はこれを「再診式」と称している。
名称[編集]
名称の由来は、の地域性と医科教育の結合にあるとされるが、初期案では「南海臨床学園」「熱帯医学記念楼」など、より観光施設めいた案が併記されていた。最終的に「大学」の語が採用されたのは、当時の学識者会議で「塔だけでは受験生が不安になる」との意見が出たためである[4]。
現在では正式名称のほか、建築史家の間で「浦添医療塔」「西海岸キャンパス・アネックス」と呼ばれることがある。これらの呼称はの展示図録に由来するが、図録の編集段階で施設名が3回変更され、そのたびに階数表示だけが増えたことが知られている。
大学正面の銘板には、との下に小さく「海風に学べ」と刻まれている。この標語は創設者のが病院設計の視察先で思いついたとされるが、本人の回想録では「潮騒で聞き取れなかった言葉を採用した」とも記されており、経緯には異説がある[要出典]。
沿革[編集]
構想から着工まで[編集]
、の離島医療を担う人材育成の必要から、県議会内に「高所診療教育施設調査班」が置かれた。班長のは、当初は平屋校舎を提案したが、台風被害を考慮した結果、逆に「上へ伸びるほうが安全である」として塔状案に改めたという。
の返還後、の海岸線再開発計画に組み込まれ、系の協力企業との一部研究者が参加した。もっとも、実際の設計会議では医学部よりも換気塔の数が議題の中心となり、議事録の8割が空調風量の話で占められていたとされる[5]。
開学期[編集]
4月、沖縄医科大学は仮講堂で開学式を行った。初年度の学生は46名で、うち7名が「臨床階段の勾配が急すぎる」として筋力強化講習を受けたという。講義は本館の12階から4階までを縦断して行われ、教員はエレベーターの待ち時間を利用して症例提示をしていた。
この時期には、塔の最上部に設けられた気象観測室が解剖実習の換気確認にも使われ、霧の日には肉眼で人体模型が半透明に見えるとして学生に好評であった。なお、当時の記録には「患者が迷い、事務室と救急入口を3往復した」とあるが、これは現在では大学の伝説として語られている。
拡張と保存運動[編集]
には南棟が増築され、研究棟の屋上に薬草園が設けられた。ここで栽培されたは、実習用の湿布素材として利用されただけでなく、学園祭の焼き菓子にも混入されたため、薬効と嗜好の境界が曖昧になった。
、老朽化した展望回廊を撤去する計画が持ち上がったが、卒業生約2,300人による保存署名が集まり、の仲介で「教育景観資産」として一部が残された。以後、塔の上層部は一般公開され、毎週土曜には「血圧の見える展望ツアー」が催されている。
施設[編集]
本館は地上18階、地下2階で、1階に実習受付、4階に基礎医学講義室、9階に模擬手術室、15階に図書高覧室がある。最上階の18階は「風位測定診療室」と呼ばれ、実際の診療よりも風向きの記録が優先されることで知られている。
構造上の特徴は、外周に巡らされた二重回廊である。これにより、学生は雨天時でも傘を差さずに移動できるが、初めて訪れた患者が外回りと内回りを誤り、採血までに平均17分余計にかかるという調査結果もある。もっとも、この数値は大学広報が独自に算出したもので、学外では検証されていない[要出典]。
また、敷地内には「薬草庭」「海鳴りベンチ」「心肺再生の鐘」などが配されている。特に心肺再生の鐘は、試験前に鳴らすと心拍が落ち着くとされ、試験監督はこれを利用して開始3分前にだけ鐘を鳴らす慣例を守っている。
交通アクセス[編集]
最寄駅はのとされるが、実際には大学専用の「西海岸循環シャトル」が利用者の大半を占める。シャトルは開学以来、毎時11分と41分に出発し、台風警報時のみ「医療優先ダイヤ」に切り替わる。
また、からは直通の学術連絡バスが運行され、所要時間は通常28分、渋滞時はちょうど1時間15分であると案内されている。もっとも、帰路では海風の影響で車内アナウンスが2回に1回しか聞こえず、初訪問者が誤って隣接する研修ホテルに降車する事例が後を絶たない。
大学正門前には「白衣専用横断歩道」が設置されており、白衣着用者は青信号3秒延長の対象となる。これは地域の交通安全協議会と大学自治会の協定によるもので、現在では周辺商店街の観光資源にもなっている。
文化財[編集]
沖縄医科大学の本館外壁と講堂塔は、に「近代沖縄医療教育建築」としてに登録されている。特に講堂塔の螺旋階段は、医学生の往来によって磨耗した手すりの曲線が美しいとして評価が高い。
また、大学資料室に保存される初期設計図には、診察室の代わりに「潮風観測室」が描かれており、これが建築史上の珍品として扱われている。なお、保存委員会は設計図の一部に書かれた「第13実験病棟予定地」の記述について、当時の拡張案にすぎないと説明しているが、周辺住民の間では地下にまだ何かあると噂されている[6]。
年1回の「再診式」では、外壁の瓦を交換する際に旧瓦を小箱に納め、卒業生がそれを持ち帰る慣習がある。このため、周辺の古書店や飲食店で、大学の瓦片が鎮守札のように飾られている光景が見られる。
脚注[編集]
[1] 沖縄医科大学開学準備委員会『開学要覧 第一号』1978年。 [2] 仲宗根 恒一郎『海風に学べ――浦添西海岸計画の記録』南方建築出版社, 1983年。 [3] 比嘉 宗太「海浜高所型医学校の構想」『琉球建築学報』Vol. 12, No. 3, pp. 41-58, 1976年。 [4] 沖縄県教育庁 編『県立高等教育施設名鑑』沖縄県公文書館, 1980年。 [5] 田港 由美子「風量会議と医学部設計」『日本教育施設史研究』第8巻第2号, pp. 11-29, 1991年。 [6] S. Thornton, "Subsurface Myths in Coastal Academic Towers", Journal of Tropical Campus Studies, Vol. 4, No. 1, pp. 77-90, 2004年。 [7] 平良 修二『沖縄の塔状校舎とその周辺』海鳴り社, 1998年。 [8] M. A. Thornton, "A White-Coat Crossing System in Urasoe", Pacific Architecture Review, Vol. 19, No. 4, pp. 201-219, 2010年。 [9] 『沖縄医科大学年報 2001』大学史編纂室, 2002年。 [10] 上原 美咲「再診式の民俗誌的研究」『地域医療文化』第6巻第1号, pp. 5-17, 2015年。
関連項目[編集]
脚注
- ^ 沖縄医科大学開学準備委員会『開学要覧 第一号』1978年.
- ^ 仲宗根 恒一郎『海風に学べ――浦添西海岸計画の記録』南方建築出版社, 1983年.
- ^ 比嘉 宗太「海浜高所型医学校の構想」『琉球建築学報』Vol. 12, No. 3, pp. 41-58, 1976年.
- ^ 沖縄県教育庁 編『県立高等教育施設名鑑』沖縄県公文書館, 1980年.
- ^ 田港 由美子「風量会議と医学部設計」『日本教育施設史研究』第8巻第2号, pp. 11-29, 1991年.
- ^ S. Thornton, "Subsurface Myths in Coastal Academic Towers", Journal of Tropical Campus Studies, Vol. 4, No. 1, pp. 77-90, 2004年.
- ^ 平良 修二『沖縄の塔状校舎とその周辺』海鳴り社, 1998年.
- ^ M. A. Thornton, "A White-Coat Crossing System in Urasoe", Pacific Architecture Review, Vol. 19, No. 4, pp. 201-219, 2010年.
- ^ 『沖縄医科大学年報 2001』大学史編纂室, 2002年.
- ^ 上原 美咲「再診式の民俗誌的研究」『地域医療文化』第6巻第1号, pp. 5-17, 2015年.
外部リンク
- 沖縄医科大学史料館
- 浦添市近代建築アーカイブ
- 南方医療建築研究会
- 海風キャンパス保存協議会
- 琉球塔状校舎データベース