沖縄本島近海の地震
| 名称 | 沖縄本島近海の地震 |
|---|---|
| 読み | おきなわほんとうきんかいのじしん |
| 英語名 | Earthquakes off the main island of Okinawa |
| 発生域 | 沖縄本島周辺の浅海域・海底段丘部 |
| 初整理 | 1878年の琉球気象掛記録 |
| 想定要因 | 海底の逆断層群と潮汐共鳴 |
| 観測体制 | 沖縄地震海鳴研究会、気象庁那覇地方気象台 |
| 代表的被害 | 港湾の反響被害、井戸の塩水逆流、祭具の自走 |
| 通称 | ウミユラシ |
| 注意事項 | 一部の島嶼では発生前に魚が東向きに整列するとの報告がある |
沖縄本島近海の地震(おきなわほんとうきんかいのじしん)は、の北西から南東にかけて広がる沿いの浅海域で発生するとされる一連の現象である。古くは航海者の羅針盤を狂わせる「海鳴り」として記録され、のちに末期の気象観測網によって体系化された[1]。
概要[編集]
沖縄本島近海の地震は、周辺の海底で断続的に起こるとされる地震群の総称である。揺れの規模は4級から6級が中心とされるが、地元では震度そのものよりも「波が先に来て、あとから音が来る」現象が重視されてきた。
この現象は単なる地殻変動ではなく、から吹き込む季節風との潮汐反応が重なって起こると説明されることが多い。ただし、の防災担当がまとめたとされる非公開報告書では、海底反響板の存在が示唆されており、学界では長らく要出典扱いの逸話として流通している。
名称と定義[編集]
「沖縄本島近海の地震」という呼称が一般化したのは、後期にで活動した観測官・が、島の周辺で起こる揺れを単一の「近海震」として再分類したことによるとされる。渡辺は、同じ日に沖と沖で発生した二つの揺れが、海底でひとつの「遅い震え」として伝播したと結論づけた[2]。
定義上は、震央がから半径およそ80キロメートル以内、かつ深さ50キロメートル未満のものを含むとされるが、実際には漁師が「潮目が裂けた」と証言した事例まで含めるため、学術的境界はかなり曖昧である。また、地元紙ではやの揺れも便宜上この範囲に含めることがあり、統計の整合性をめぐって編集合戦が起きた経緯がある。
歴史[編集]
琉球王国期の前兆記録[編集]
最古の記録は末の『潮鳴覚書』に見えるとされ、そこではの王府役人が、夜半に井戸水が「甘くなった後でしょっぱく戻った」と書き残している。後世の研究では、これは海底の割れ目から一時的に淡水レンズが吸い上げられた現象と解釈されたが、当時の王府ではむしろ航海祈願の失敗例として扱われた。
初頭にはの海岸に「石が砂の上を半歩ずつ移動した」とする伝承が残り、これが現在でいう前震系列の最初期観測ではないかとされる。もっとも、同時代の記録には「夜鷹が三度鳴くと浜が鳴る」といった記述もあり、信頼性は高くない。
近代観測の成立[編集]
、琉球処分後に設置されたが、の防波堤に木製の振子式記録器を試験導入したことが、近代的観測の出発点とされる。装置は潮風で2か月に1度ほど針が錆び、しばしば「潮汐震」を地震として誤記録したが、かえって海と揺れの相関を示す資料として重宝された。
期になると、の理科教師・が、地震の直前に校庭のが葉を内側に巻くことを統計化し、発生前兆の一覧表を作成した。彼女のノートには、1924年から1931年までの37事例が記されているが、うち6事例は台風と誤認されていたともいわれる。
戦後の再定義[編集]
後、米軍統治下のが港湾復旧のために海底音響調査を行い、揺れの発生帯がから沖にかけて弧状に連なることを確認したとされる。この調査は本来、潜水路の安全確認が目的であったが、記録班の一人が「波形が太鼓の皮に似る」と報告したことで、以後「鼓膜震」という俗称が生まれた。
の本土復帰後、那覇地方気象台はこの現象を正式に監視対象へ組み込み、が発足した。同研究会は、地震計のほかにシーサー像の鼻息音まで採取したとされ、当初は奇異な調査として扱われたが、のちに海風と地盤振動の相関を示す補助資料として一部で評価された。
観測方法と特徴[編集]
この地震は、通常の内陸型地震と異なり、揺れの立ち上がりに「湿った遅延」があるとされる。地震学ではP波とS波の到達差として説明されるが、沖縄では漁港の古老が「網が震えてから茶碗が鳴るまで三呼吸」と表現することが多い。
特徴的なのは、由来とされる潮流反射が重なると、震度のわりに音だけが大きく聞こえる現象である。これは「鳴るのに倒れない地震」として県内でよく知られ、の市場では停電よりも先に魚の並び順が崩れることで警戒された。
社会的影響[編集]
沖縄本島近海の地震は、建築様式にも独特の影響を与えた。たとえばの屋根は、強風対策として知られる一方で、地震時にわずかに滑ることで揺れを逃がす「半可動屋根」として再評価され、ではその実演模型が展示されたことがある。
また、港湾都市では「地震の日に泡盛を開けると揺れが収まる」との習俗が広まり、の一部地区では防災訓練の締めくくりに必ずの空瓶を並べる慣行ができた。これを見た県外の防災研究者が、瓶の共鳴周波数が微動の検知に有用であると誤って解釈したことから、いわゆる「瓶式地震計」が短期間だけ採用された。
批判と論争[編集]
最大の論争は、そもそも「沖縄本島近海の地震」を独立した現象として扱うべきかという点にある。地震学者のは、これは全体の海溝型地震の一部にすぎないと主張したが、民俗学者のは、沖縄の海鳴り信仰を切り離して説明することは文化史の損失であると反論した[3]。
さらに、1990年代にとが共同で行ったとされる海底反射調査では、反射板の材質が「珊瑚石灰岩に似た人工合成物」と記されていたため、軍事施設由来ではないかとの憶測を呼んだ。ただし、調査報告の肝心な7ページ目がコピー機で海水に濡れていたため、現在も解釈は定まっていない。
地震文化[編集]
沖縄本島近海の地震には、災害でありながら祝祭的な側面も付随していた。離島の一部では、最初の揺れを「海の門が開く合図」とみなし、の前に小石を三つ重ねて地鎮を祈る慣習があったとされる。
また、周辺の旧家には、地震の夜にだけ鳴るという木魚「ユラシボン」が伝わり、これを叩く速度で翌月の潮位を占ったという。現代の研究では単なる木材の乾燥膨張とみられているが、県内の民話収集家は「占いに使われる道具は、たいてい最初から半分は地震計である」と述べている。
脚注[編集]
関連項目[編集]
脚注
- ^ 渡辺精一郎『琉球近海震の分類と潮鳴連動』那覇地学会誌 Vol. 8, 第2号, pp. 41-73, 1893.
- ^ 宮里カネ『沖縄県下における前兆植物の統計的観察』沖縄女子師範紀要 第14巻第1号, pp. 5-29, 1931.
- ^ 佐久本義隆『南西諸島海溝帯における微動群の再配列』地震学研究 Vol. 22, 第4号, pp. 201-226, 1978.
- ^ Tina Harper, 'The Social Life of Sea-Rumble Quakes in the Ryukyus,' Journal of Island Geophysics Vol. 11, No. 3, pp. 88-119, 1986.
- ^ 『沖縄本島沿岸における海底反響板調査報告書』琉球大学海洋研究所叢書 第6巻, pp. 1-94, 1994.
- ^ 伊波正和『瓶式地震計の試作と失敗』防災工学季報 第31巻第2号, pp. 57-64, 2002.
- ^ Margaret A. Thornton, 'Wet Delay and Coastal Seismicity in Semi-Submerged Arcs,' Seismological Notes Vol. 19, No. 1, pp. 12-39, 2007.
- ^ 金城ユイ『首里城周辺に伝わるユラシボン信仰の再検討』民俗と科学 第9号, pp. 103-128, 2011.
- ^ 気象庁那覇地方気象台『沖縄本島近海地震観測年報 2018』, pp. 1-56, 2019.
- ^ 『海鳴りと地震の境界線』琉球防災研究センター報告書 第3号, pp. 77-91, 2020.
外部リンク
- 沖縄地震海鳴研究会
- 琉球防災研究センター
- 那覇地方気象台資料室
- 南西諸島微動アーカイブ
- 海鳴り民俗デジタル辞典