淫夢厨
| 行事名 | 淫夢厨 |
|---|---|
| 開催地 | 東京都台東区・長壽院(境内北側の「湯呑み坂」) |
| 開催時期 | 旧暦2月の亥の日から3日間(概ね3月上旬) |
| 種類 | 神事(供物)と町衆の即興口上(芸能) |
| 由来 | 夢見の文字書きが台所の香りを守ったという伝承に由来する |
| 別称 | 湯呑み坂の夢供養 |
淫夢厨(よみ)は、のの祭礼[1]。より続くのの風物詩である。
概要[編集]
は、ので行われる年中行事である。旧暦の亥の日を起点として、湯呑み形の木札に願い事を書き、境内の炉で「夢の香」を焚く点に特色がある[1]。
由来としては、江戸の台所で働く文字書きが、客の口上(こうじょう)を滑らせないよう「夢の結び目」を作ったとされる。町衆はこれを「厨(くりや)」の守り札として継承し、いつしか呼称が祭礼名へと転じたと説明される[2]。
今日では、供物の一部に「言い回し」だけで米粒の数を数える習わしが残っており、見物人は計算の早さと韻(いん)を競う即興口上を聞くことで祭の雰囲気を味わうとされる[3]。ただし、記録によって口上の題目が微妙に揺れ、地元紙では「同じ年でも3通りの台本がある」と報じられたことがある[4]。
名称[編集]
「淫夢厨」という名称は、祭の前夜に行われる「湯呑み合わせ」の場で唱えられる呪文の冒頭句に由来するとされる。ここでは、当番の町衆が湯呑みを3回ずらし、最後に「厨の戸(と)を夢で閉めよ」と言い切る習慣がある[5]。
一方で、学識者の間では、語の要素が台所用語の古層と夢見の語彙を混ぜて整理された結果ではないかと推定されている。たとえば、期の帳簿には「夢分(ゆめぶん)」という割当が見えるともされ、これが「淫夢(いんむ)」と「厨(ちゅう)」に再解釈されたとの見方がある[6]。
なお、祭の公式掲示では、名称を大声で復唱することは禁じられている。ただし、禁則の存在自体が“言ってはいけないほど言いたくなる”雰囲気を生み、参拝者の間で自然に略称が増殖したとも説明される[7]。
由来/歴史[編集]
創始伝承:湯呑み坂の「夢の香」[編集]
伝承では、の初期、の近くに「湯呑み坂」と呼ばれる坂があり、旅人の食料が夜になると湿気で傷んだとされる[8]。そこで、当時の寺小姓(てらこしょう)であったが、台所の香を“夢の匂い”として記録し、翌朝には香りだけで米の状態が読めるようにしたという[9]。
この記録は「厨札(くりやふだ)」と呼ばれ、木札の角に墨で円を描き、その円を指でなぞることで香りの記憶が呼び戻されると説明された。町衆はその札を当番に配り、炉の前で「香は嘘をつかない」と口上することで不作に備えたとされる[10]。
ただし、寺の年中行事帳のうち現存する写本では、札に描かれる円が「2重」か「3重」かで食い違いがある。写本差は約17ページ分に相当し、保存状態の良い写本ほど“3重”を採る傾向があるとも述べられる[11]。
近世の制度化と町衆の参加拡大[編集]
期に入ると、祭の参加範囲が寺の周辺の町会へ広がった。特にの町衆は、各家から「口上の種(たね)」として一文ずつ持ち寄り、炉の前で束ねる方式を採用したとされる[12]。
制度化の裏には、江戸の配給制度と、炊き出しに関する争いがあったとする説がある。長壽院は「種の配合は数で決めよ」として、口上の長さを“拍(はく)”で合わせる仕組みを導入した。記録では、当時の当番は「19拍」から「23拍」までの範囲で調整されたとされ、調整幅が広い年ほど町が活気づいたとも書かれている[13]。
また、記録上はに一度廃れかけたが、の飢饉回避の祈りとして復活したとされる。復活の手続きは、町の実行委員会「湯呑み坂町務所(ゆのみざかちょうむしょ)」が整えたとされるが、当時の議事録の所在は明らかではない[14]。
日程[編集]
は旧暦2月の亥の日を起点として、基本的に3日間にわたって行われる。初日は「口上の種揃え」、2日目は「夢の香焚き」、最終日は「湯呑み合わせ」と位置づけられる[15]。
日程は毎年、暦のズレに応じて調整される。たとえば、同じ年内でもの掲示は「亥の日が1日繰り上がる場合、炉の点火は午後3時17分に固定」と告知することがある[16]。この17分という数字は、火の気配が“まだ早すぎず遅すぎない”時刻として語られており、理由は地元の温度観測に基づくとされるが、観測記録自体は見つかっていないとされる[17]。
また、雨天の場合は奉納の順序が入れ替えられる。寺の掲示では「香焚きが湿ると夢がほどける」と説明され、順序入替は“ほどけないための技術”として親しまれている[18]。
各種行事[編集]
祭の中心は、境内北側の炉で行われるである。参拝者は湯呑み形の木札に願い事を書き、当番が「香は嘘をつかない」と宣言しながら炉へ投入する[19]。
次に行われるでは、町衆が持ち寄った一文を“拍”で揃える。音の一致が重要視され、最終的に「19拍+4拍=23拍」の型に落とし込むとされる[20]。この23拍という合算は、当番の手首の動きが23回になるよう調整した結果だと説明されるが、実際に手首が何回動くかは人により異なるため、学術的には「儀礼の比喩」と解釈されることもある[21]。
最終日のは、参加者同士が湯呑みを互い違いに3回重ね、最後に「夢の結び目」を外側へ逃がす所作を行う。なお、この結び目を“外側へ逃がす”工程は、観光パンフレットでは省略されがちだが、地元の常連ほど強調する傾向がある[22]。
一部の年では、子ども向けの小行事として「米粒の韻数(いんすう)当て」が行われたとされる。米粒の実際の数は数えず、口上の語尾だけで当てる方式で、当たった者には金色の小札が授与された。金色の札の製作単価は「1枚あたり42円(当時の紙札換算)」と記録されることがあり、物価と照合するとやや不自然だと指摘されている[23]。
地域別[編集]
内では、参加の仕方が「寺主導型」と「町衆主導型」に分かれるとされる。長壽院周辺のは寺主導型として説明され、木札の墨の形や炉の向きが固定される[24]。
一方で、隣接する側では、町衆主導型として口上合わせの即興度が高い。掲示板には「即興は3行まで」と書かれている年が多く、3行を超えると“夢が迷子になる”として取り締まられるとされる[25]。
また、離れたでも“湯呑み坂の夢供養”として模した集まりが行われることがある。そこでは炉を持たず、代わりに内の集会所で香りの記録テープを再生する方式が採用されるとされるが、寺の公式見解では「代替行事は年中行事に含めない」とされている[26]。
ただし、当番者の間では“含めない”という指摘は半ば形式化しており、実際には代替行事でも祭礼名が呼ばれ続けたという証言が残っている。とくに「香りのテープが回りすぎると夢が増えすぎる」という語りは、なぜか共通して同じ比喩で語られてきたとされる[27]。
脚注[編集]
関連項目[編集]
脚注
- ^ 渡辺精一郎『湯呑み坂の厨札手控え』長壽院文庫, 1842年.
- ^ 山崎静穂『江戸の年中行事における拍の整列』東京府学芸雑誌, 第12巻第3号, 1911年, pp. 33-58.
- ^ E. H. Caldwell『Ritual Rhythm in Urban Shrine Festivals』Journal of Comparative Folklore, Vol. 7 No. 2, 1969, pp. 101-139.
- ^ 中村百合絵『祭礼名の語形成と口上文化—「厨」の転義をめぐって—』民俗学研究, 第28巻第1号, 1978年, pp. 12-46.
- ^ 長壽院『年中行事帳(写本群)』長壽院, 1876年.
- ^ 田中一馬『町衆参加の制度化と暦調整—亥の日固定の論理—』暦と儀礼, 第5巻第4号, 2003年, pp. 201-229.
- ^ Kiyoshi Nakamura『On “Dishonest Counting”: Mythical Metrics in Shrine Lore』Asian Ethnology Review, Vol. 44, No. 1, 2012, pp. 77-99.
- ^ 鈴木章夫『湯呑み坂町務所の幻の議事録』台東史叢, 第9号, 1989年, pp. 1-24.
- ^ 荒井真琴『香りの記憶装置と祭礼の代替表象』日本香文化論集, 第3巻第2号, 2020年, pp. 45-70.
- ^ D. Thompson『Timekeeping and Furnace Lighting in Edo-Era Practices』The Tempered Calendar, Vol. 2, No. 1, 1998, pp. 9-31.
外部リンク
- 長壽院 年中行事アーカイブ
- 湯呑み坂町衆通信
- 東京都台東区 祭礼掲示データベース
- 夢の香焚き 口上録(保存版)
- 暦調整と儀礼時刻の研究会