烏丸の壁崩壊
| 名称 | 烏丸の壁崩壊 |
|---|---|
| 発生地 | 京都府京都市中京区烏丸通周辺 |
| 発生時期 | 1978年から1984年ごろ |
| 原因 | 旧繊維倉庫群の補強工法と地下水位変動の複合要因 |
| 被害 | 壁面延長約1.8km、仮設通路32か所の閉鎖 |
| 提唱者 | 京都都市構造研究会、烏丸景観保存連絡会 |
| 関連概念 | 壁体学、反復崩落、都市記憶帯 |
| 影響 | 耐震診断基準の見直し、景観保存運動の拡大 |
烏丸の壁崩壊(からすまのかべほうかい)は、京都府京都市中京区の一帯で発生したとされる、都市景観と耐震思想に影響を与えた一連の崩落現象である。一般には昭和末期の再開発史に付随する事件として知られるが、のちに「壁そのものが先に物語化された稀有な事例」として研究対象となった[1]。
概要[編集]
烏丸の壁崩壊は、沿いの老朽化した外壁群が、数年にわたり断続的に剥離・転倒したとされる現象である。現地では単なる建物被害として処理されたが、後年になって京都大学の建築史研究者らが、崩落した壁材の配置に一定の周期性があることを指摘し、独立した事象として扱うようになった[2]。
この事件は、京都市の高度成長後期における「見えない補修」と「見える景観」の矛盾を象徴するものとされる。また、崩落が発生した範囲に、なぜか同じ灰色の漆喰が集中していたことから、当時の新聞では「烏丸灰帯」とも呼ばれた。なお、崩落そのものよりも、住民が壁の破片を鉢植えの縁石として再利用したことのほうが長く記憶されたとする証言もある[3]。
発生の背景[編集]
烏丸一帯では大正末期から昭和中期にかけて、繊維問屋と倉庫が密集していたため、外壁は防火と荷重分散を兼ねて厚く造られる傾向があった。しかし以降、地下にの先行調査孔が設けられ、地盤の微振動が記録されるようになると、壁内部の木摺りが乾湿を繰り返し、局所的な空洞化が進行したとされる。
さらに、当時の建築基準では「壁が外へ倒れる場合は屋内への安全率を優先する」という、半ば経験則に近い指導が残っていた。これにより、所有者の多くは補修よりも足場の増設を選び、結果として壁が“支えられているように見えるだけ”の状態になった。後の調査では、崩壊前の外壁のうち約37%が、実際には内部よりも表面塗装の厚さで自立していたことが分かっている[4]。
経過[編集]
1978年の第一次崩落[編集]
最初の崩落は11月、北西角の元乾物倉庫で起きたとされる。幅3.4メートル、高さ5.1メートルの壁面が夜間に静かに剥がれ落ち、翌朝には通行人が「白い屏風が倒れている」と通報した。現場に到着したは、破片の並びがあまりに整然としていたため、当初は模造展示物の撤去と誤認したという。
このとき壁の内部から、昭和40年代の町内会回覧板が6枚、なぜか湿気を吸ってほぼ原形のまま発見されたことが話題となった。のちにこれは「壁が地域の記憶を抱えたまま失神した」と表現され、事件の比喩的説明として定着した。
1981年の連鎖崩落[編集]
春には、周辺で3日間に5件の微小崩落が続いた。この時期、京都都市構造研究会のは、壁の崩壊が風向ではなく、朝のバス発着回数に相関する可能性を示したが、再解析では有意差が認められなかったとされる[5]。
もっとも、現地住民の間では「の始発車両が古い壁を目覚めさせた」との俗説が広がった。実際には、壁面に取り付けられた広告板の金具が共振し、端部から剥離が進んだ可能性が高いとみられている。ただし、当時の報道写真には、崩れた壁の上に鳩が一羽だけ止まっているものが多く、これが“無関係なものが最後まで残る”象徴として引用されることが多い。
調査と命名[編集]
「烏丸の壁崩壊」という名称は、に開催された「京都近代都市景観臨時検討会」で、記録係のが仮に用いた表現に由来するとされる。当初は「烏丸外壁群崩落事案」とされる予定だったが、会議録の余白に書かれた「壁のほうが先に壊れた感じがする」という一文が好評を博し、翌年の報告書題名として採用された。
研究は、建築学だけでなく、民俗学・都市計画・材料工学にまたがって進められた。特にの民俗資料班は、近隣商店の帳簿に「壁見舞い」の項目があることを発見し、事件が単なる事故ではなく、地域行事のように受容されていた可能性を指摘した。なお、同班の記録では、壁の断片を最初に拾ったのは八百屋の配達員で、彼がそれを「今朝の風の味がする」と述べたとされる[6]。
社会的影響[編集]
烏丸の壁崩壊は、京都府の耐震診断基準に小規模商業建築の「表層疲労項目」を追加させる契機になったとされる。これにより、1980年代後半には、外壁の左官層を叩いて音を確認する簡易調査法が、府内で年間約2,300件実施されたという[7]。
また、景観保存運動にも影響を与えた。従来の保存論は町家の意匠を中心としていたが、崩落後は「壁が落ちる前の躊躇も文化財である」とする主張が現れ、の一部会合では、仮設足場を含めて保存対象とする案まで検討された。これがいわゆる「足場保存論」であり、都市保存史の中でも特異な立場として知られる[8]。
批判と論争[編集]
一方で、烏丸の壁崩壊を独立した社会現象として扱うことには批判もあった。建築史家のは、実際には個別の老朽化事例を後年に束ねただけで、「崩壊」という語が事件性を過剰に強めたと述べている。これに対し、保存運動側は「壁が複数回壊れたのなら、それはもはや壁の性格の問題である」と反論した。
さらに、1984年に刊行された調査報告書の図版3では、崩落地点の一部が別の通りの写真であることが後に判明し、資料の信頼性が議論となった。ただし、編集委員会は「位置関係が精神的に正しい」として修正を拒否したとされる。この対応は、のちに京都の資料編集文化を象徴する逸話として半ば肯定的に語られている。
その後の評価[編集]
以降、烏丸の壁崩壊は都市災害史というより、近代京都における“修理され続けたものが最終的に何になるか”を問う事例として再評価された。では、壁材の一部と記録写真を並置する小展示が行われ、来場者の多くが「壊れたのに整っている」と感想を残したという。
現在では、事件は沿線の再開発史、耐震行政史、地域記憶研究の三分野を横断する題材として扱われている。また、一部の地元ガイドは、崩落地点を案内する際に「ここで壁が一度だけではなく、礼儀正しく数回崩れた」と説明するが、これは明確な要出典事項であるとされる。
脚注[編集]
関連項目[編集]
脚注
- ^ 松原宗一『烏丸外壁群における反復崩落現象の基礎的研究』京都都市工学会誌 第14巻第2号, 1983, pp. 41-68.
- ^ 橋本里枝『烏丸景観検討会議録抄』京都市都市計画局資料室, 1982.
- ^ 西園寺誠『町家外壁の疲労と都市記憶』中央公論建築別冊, 1987, pp. 119-147.
- ^ Margaret A. Thornton,
- ^ Dr. Kenji Watanabe『Urban Plaster Failures in Postwar Kyoto』Journal of East Asian Material Studies, Vol. 9, No. 1, 1986, pp. 3-29.
- ^ 高橋澄江『烏丸通沿線における左官層の剥離分布』日本建築学会京都支部報, 第22号, 1984, pp. 7-22.
- ^ 京都府耐震診断協議会『小規模商業建築の表層疲労に関する暫定指針』1988, pp. 1-33.
- ^ 林田久美子『壁見舞い習俗と都市災害の儀礼化』民俗と地域社会, 第5巻第4号, 1991, pp. 55-80.
- ^ 京都古建築保存協会編『足場を保存するという発想』同協会出版部, 1994, pp. 9-41.
- ^ 『京都近代都市景観臨時検討会報告書』京都市役所, 1984, pp. 72-96.
外部リンク
- 烏丸都市記憶アーカイブ
- 京都壁面研究センター
- 近代左官資料データベース
- 景観保存フォーラム京都
- 烏丸崩落写真館