爆乳人
| 名称 | 爆乳人 |
|---|---|
| 読み | はぜちちんちゅ |
| 別名 | 胸張人、膨郭芸、はぜ胸 |
| 起源 | 江戸後期の大阪湾岸部 |
| 成立年代 | 1798年ごろと推定 |
| 主な伝播地 | 大阪、神戸、横浜、浅草 |
| 関係組織 | 大日本膨郭協会(後の日本体形演芸連盟) |
| 分類 | 民俗芸能・都市伝承・装身技法 |
爆乳人(はぜちちんちゅ、英: Hazechichinchu)は、の沿岸部で発達したとされる、胸郭の前面に装飾的な膨らみを持つ人物表現様式である。後期のを起点に広まったとされ、後にはやの見世物文化とも結びついた[1]。
概要[編集]
爆乳人は、胸元を異様に強調した衣装、補綴、姿勢制御、および呼吸法を組み合わせ、身体の前面に「波打つような存在感」を生じさせる表現であるとされる。単なる奇抜な着こなしではなく、港町の船頭、芝居小屋の衣装係、湯屋の番台職人が共同で洗練した複合文化であったと考えられている[2]。
名称の由来については、干潟で貝殻がはぜる音にちなむとする説、あるいは「派手」を古い港湾方言で「はぜ」と読んだことから転訛したとする説がある。ただし、初期文献には「爆乳人」の表記がほぼ見られず、所蔵の写本類でも確認は断片的である。このため、後世の編集者が語感の強さを優先して定着させた可能性が指摘されている[3]。
起源[編集]
大阪湾岸の船宿文化[編集]
最も有力な説では、以前の南部にあった船宿で、夜間の呼び込み役が遠目にも目立つよう胸部に厚手の詰め物を入れたことが始まりとされる。とりわけ沿いの宿では、潮風で衣服がはためく際に見栄えが増すとして好まれ、1798年から1812年の間に少なくとも14種類の補綴型が試作されたという記録がある[4]。
湯屋の番台と舞台装置[編集]
の湯屋では、客寄せのために番台の人物が前面の輪郭を誇張する演出が行われ、これがのちに歌舞伎の早替わりと接続したとされる。特に年間には、竹籠と木綿を用いた「仮胸枠」が考案され、重さは平均2.4kg、最も重いものでは7.8kgに達したという。なお、これらの数値は11年の番付控えに依拠するとされるが、出典の末尾が湯に濡れて読めないため真偽は定かでない。
発展[編集]
明治期の洋装化との衝突[編集]
に入ると、洋装の流入により爆乳人は一時衰退したが、逆にコルセット文化との混交によって再活性化した。1887年にはの舶来品商が「港湾補整帯」として類似品を販売し、月間平均340本を売り上げたとが報じている[5]。ここで重要なのは、当時の商標登録名が「Haze-Corset No.3」であった点であり、英字表記の方がむしろ本場性を帯びたとされる。
大正から昭和初期の定式化[編集]
末期には、の興行師である三枝房吉が、爆乳人を「歩行芸」として整理し、胸部の左右振幅を3拍子で変化させる演目を定式化した。これにより、単なる衣装趣味から、観客の視線誘導を研究する準舞台芸術へと転化したのである。1926年の公演では、観客1,284人中73%が「最初は笑ったが途中から姿勢の美しさを見た」と回答したという調査票が残る[6]。
技法[編集]
爆乳人の技法は、一般に「詰める」「支える」「揺らす」「見せる」の四段階に分かれる。まず詰める段階では、木綿、和紙、藁、後には軽石粉を混ぜた麻布が用いられた。支える段階では、肋骨の位置を保つための帯が用いられ、当時の職人はこれを「鳩胸締め」と呼んだ[7]。
揺らす段階は最も難度が高く、歩幅の一定化と呼吸の浅化が要求された。浅草の名手・花村みねは、1分間に42歩の緩急で視線を固定させる技を得意とし、見物人のうち12人にめまいが出たという記録がある。なお、彼女は自宅の猫にまで同じ歩行をさせようとして失敗したと伝えられる。
見せる段階では、胸元の装飾と扇子の角度が重要であり、胸板の両端に鈴を付けて音で存在感を補強する流派もあった。とりわけの波止場では、霧の日に鈴の音だけが先に届くため「先胸」と称され、船員たちの間で人気を博した。
社会的影響[編集]
爆乳人は、見世物としての側面だけでなく、港町の自己演出文化にも影響を与えたとされる。商家の女将が帳場で同様の姿勢を取ることで威厳を示したり、魚市場の呼び込みが遠方からの視認性を高めるために部分的に流用したりする例があった[8]。
一方で、は1914年に「過度の前面膨張は交通整理上の錯視を生む」として注意喚起を出しており、路面電車の乗降時に接触事故が3件報告されたとされる。これに対し、大日本膨郭協会は「事故の原因はむしろ風圧である」と反論し、翌年には風洞実験の結果を載せた小冊子『胸前風速論』を配布した。
批判と論争[編集]
爆乳人をめぐっては、芸能であるのか、身体改造であるのか、あるいは単なる流行病理であるのかをめぐり長年議論が続いた。とくにの民俗学者・牧野澄夫は、1932年の論文で「胸部の誇張は共同体の願望が衣服に可視化したもの」と述べたが、同僚からは「比喩が過剰である」と評された[9]。
また、戦後になると健康被害を懸念する声が強まり、系の資料では「1日6時間以上の連続装着は肩甲帯の疲労を増す」と記載されたとされる。ただし、この資料は複写のたびに字がにじみ、数値が「6」とも「9」とも読めるため、研究者の間では現在も争点となっている。
現代の再評価[編集]
1990年代以降、爆乳人は舞台衣装、V系文化、地域おこしイベントの文脈で再解釈されている。の旧港地区では「はぜちちんちゅ祭」が年1回開催され、2023年には来場者が4,600人に達したと主催者が発表した[10]。会場では補綴体験、姿勢講習、鈴付きショールの即売会が行われるが、なぜか毎年最後に潮干狩り講座が追加される。
一方で、インターネット上では爆乳人の定義がしばしば拡散し、巨大な胸郭そのものを指す誤用も見られる。この誤用は、2008年ごろにまとめサイトで発生したとされるが、最初の投稿者が「胸」と「潮」を取り違えたためという説があり、学術的には笑話の部類に入る。
脚注[編集]
関連項目[編集]
脚注
- ^ 牧野澄夫『胸前の民俗学』日本民俗出版, 1933年.
- ^ 三枝房吉『歩行芸と呼吸法』浅草興行研究所, 1927年.
- ^ 田辺理一『港湾装身具史』大阪湾文化社, 1968年.
- ^ Margaret A. Thornton, "The Civic Performance of Enforced Silhouette," Journal of Urban Folklore, Vol. 12, No. 4, 1974, pp. 201-228.
- ^ 杉浦信之『鈴の鳴る衣装』神戸芸能資料館, 1981年.
- ^ K. H. Endo, "Corsetry and Visibility in Meiji Ports," Transactions of the Pacific Costume Society, Vol. 8, No. 2, 1991, pp. 55-79.
- ^ 『胸前風速論』大日本膨郭協会刊行部, 1915年.
- ^ 長谷川みね『歩幅四十二の記録』東京歩行芸研究会, 1949年.
- ^ Ruth E. Caldwell, "Inflated Frontage and Crowd Attention," The Review of Performance Anthropology, Vol. 21, No. 1, 2006, pp. 14-39.
- ^ 『はぜちちんちゅ祭 記録集 2023』神奈川県旧港地区実行委員会, 2024年.
- ^ 山崎茂『港町における前面膨張の受容』関西芸能論集, 第4巻第2号, 2002年, pp. 88-102.
外部リンク
- 大日本膨郭協会アーカイブ
- 大阪湾岸民俗資料室
- 浅草歩行芸データベース
- 旧港地区はぜちちんちゅ祭実行委員会
- 日本身体装飾史研究ネットワーク