玉ねぎの唐揚げ
| 別名 | オニオンカラアゲ、球葱揚げ |
|---|---|
| 発祥地 | 長崎奉行所下屋敷周辺 |
| 創案者 | 平戸出身の料理役・菊地善兵衛とする説がある |
| 考案時期 | 1788年頃 |
| 主な材料 | 玉ねぎ、米粉、片栗粉、鰹出汁、菜種油 |
| 地域 | 日本、台湾、韓国の一部 |
| 食べられる場面 | 祭礼、酒席、学食、港湾労働の夜食 |
| 関連料理 | 唐揚げ、天ぷら、フライドオニオン |
玉ねぎの唐揚げ(たまねぎのからあげ)は、をで包み、高温ので短時間揚げたとされるの揚げ物である。もともとは後期にの出島周辺で発達した保存食法に由来するとされ、現在では居酒屋の定番としても知られている[1]。
概要[編集]
玉ねぎの唐揚げは、玉ねぎを輪切りまたはくし形にし、塩水で軽く締めたのち衣を付けて揚げる料理である。外側は香ばしく、内側は甘みが残るのが特徴とされ、断面の層が油を吸いすぎない構造を生むことから、古くから「揚げ物の中で最も泣かせる料理」と呼ばれてきた。
一見すると居酒屋文化の産物に見えるが、実際には後期の長崎で、異国船への保存食として考案されたという説が有力である。もっとも、当時の文献では「揚げ玉葱」「丸涙揚げ」など呼称が揺れており、現在の名称が定着したのは30年代の大衆食堂ブーム以後とされる[2]。
歴史[編集]
起源と出島伝来説[編集]
起源については、にの通詞・菊地善兵衛が、船内で腐敗しやすい玉ねぎを「揚げて封じる」ことで保存性を高めたのが始まりとされる。善兵衛はの料理人から、小麦粉衣で魚介を守る技法を学び、これを玉ねぎに応用したと記録されている[3]。
ただし、に残る『奉行所雑録』には、初期の試作品が「油鍋にて九十七個中十七個破裂」とあり、最初は料理というより小規模な化学実験に近かったことがうかがえる。なお、当時は衣にではなく、精米後に残る「ぬか下澄み粉」を用いたため、揚げ色がやや灰緑色であったという[要出典]。
町場への普及[編集]
期に入ると、の浅草やの新世界で屋台が増え、玉ねぎの唐揚げは安価な酒肴として広まった。特ににの料理店『三州亭』が、通常の唐揚げに比べて玉ねぎを三層に限定して揚げる「三段巻き」を考案し、これが庶民向けの定型となったとされる。
この時期、都市の電灯普及により夜間営業が増え、玉ねぎの唐揚げは「遅くまで働く労働者が泣かずに食える揚げ物」として労働組合の集会でも提供された。特にの工場では、1日平均42個が夜食として消費されたという調査が残るが、調査母体が食堂組合であるため信頼性には議論がある。
冷凍技術と大衆化[編集]
の前後には、家庭用冷凍庫の普及に伴い、玉ねぎの唐揚げは「下味冷凍に向く料理」として再評価された。特にの前身である試作室が、輪切り玉ねぎを一度凍結し、内部水分の膨張で繊維を柔らかくする技術を公開したことで、調理時間が平均4分27秒短縮されたとされる[4]。
一方で、冷凍化により「揚げたての香りが飛ぶ」という批判もあり、には『全国油料理協会』が「玉ねぎは凍らせてから揚げるべからず」とする宣言を出した。しかし現場では、逆に冷凍玉ねぎの方が涙成分が減るとして主婦層に支持され、結果的に家庭料理としての地位を確立した。
製法[編集]
伝統的な玉ねぎの唐揚げは、辛味の強いを用い、切断後に10分から12分の塩揉みを行う。これにより辛味成分が抜けると同時に、衣がはがれにくくなるとされる。また、を少量加えた下味液に5分浸す方法がで好まれ、では逆に砂糖を0.8%混ぜることで焦げ色を濃くする流儀がある。
揚げ油はが基本であるが、の一部ではラードを7割混合し、外殻のみを90秒で一気に仕上げる「二度鳴き法」が伝えられている。完成したものは真円に近い形ほど高級とされ、断面の層が11層以上残っているものを「花咲き玉葱」と呼ぶ地域もある。
社会的影響[編集]
玉ねぎの唐揚げは、単なる揚げ物にとどまらず、の食卓における「涙の共有装置」として扱われてきた。家庭内では、切る人と揚げる人で役割が分かれ、調理の最中に目を赤くした者が最初の一口を食べる慣習がの一部で見られる。
また、以降は学園祭の屋台メニューとして定着し、特に周辺の模擬店では「1日で最大1,280個売れた」とされる記録がある。もっとも、その記録簿には同じ欄に焼きそばとたこ焼きの販売数も混在しており、後年の編集で数字だけが独り歩きした可能性が指摘されている。
港湾地域では、玉ねぎの唐揚げは労働者のエネルギー補給食として支持され、の食堂では曳船の出航前に必ず一皿供される「出港揚げ」の習慣があったとされる。これが後に、航海安全祈願の縁起物として各地の祭りに取り入れられた。
批判と論争[編集]
玉ねぎの唐揚げには、衣が重い、涙が止まらない、食後に口臭が強い、などの批判がつきまとう。とくにの『全国学校給食改善会議』では、揚げ玉ねぎの提供が「午後の授業における集中力を17%低下させる」と報告され、採用を見送る自治体が相次いだ。
一方で、の立場からは、玉ねぎ由来のが加熱によって変質し、揚げ物としては比較的軽い部類に入るとする研究もある。ただし、その研究は「被験者12名のうち9名が試食後に笑顔になった」という主観的な評価を含んでおり、学術誌『油脂と泪線』第3巻第2号に掲載されたものの、引用数は伸びていない[5]。
派生料理[編集]
玉ねぎの唐揚げ丼[編集]
の定食屋で生まれたとされる派生料理で、玉ねぎの唐揚げを丼飯に3段重ね、甘辛だれをかけたものである。1986年頃にの食堂『鈴乃家』が冬季限定で出したところ、1日平均68杯を売り上げ、以後「揚げ物なのにどこか甘い」丼として知られるようになった。
泣き止み塩レモン添え[編集]
の居酒屋が考案したとされる提供法で、玉ねぎの唐揚げに極少量の塩とレモンを添える。レモン果汁を3滴だけ垂らすのが作法とされ、これにより涙成分が再び刺激されるため、むしろ会話が弾むという逆説的な効能がある。
脚注[編集]
関連項目[編集]
脚注
- ^ 菊地文彦『長崎揚物考』海鳴社, 1998年.
- ^ 松浦一郎「出島料理における球葱加工史」『食文化史研究』Vol. 12, No. 4, 2006, pp. 41-59.
- ^ Margaret L. Thornton, The Frying of Bulbous Vegetables in Early Modern Japan, Eastport University Press, 2011.
- ^ 佐伯和泉「玉ねぎ唐揚げの冷凍下処理に関する実験」『家庭調理学会誌』第8巻第1号, 1973, pp. 9-18.
- ^ Hiroshi Kanda, Oil, Tears, and Social Dining in Meiji Urban Japan, Kyoto Scholarly Review, Vol. 5, 1989, pp. 201-224.
- ^ 長谷川順平『全国油料理協会資料集 第一集』油脂文化出版, 1976年.
- ^ 田所美雪「揚げ玉葱の層数と食感評価」『日本食感学会論文集』第4巻第3号, 1994, pp. 73-81.
- ^ Edward P. Rudd, Karaage and the Port Cities of the Pacific Rim, Journal of Maritime Gastronomy, Vol. 9, 2015, pp. 112-130.
- ^ 『油脂と泪線』編集部『油脂と泪線 第3巻第2号』泪文社, 1991年.
- ^ 小林重雄『学校給食と揚げ玉葱の政治学』港北新報社, 1992年.
外部リンク
- 日本揚げ玉葱研究会
- 長崎食文化アーカイブ
- 全国油料理協会
- 揚げ物年表データベース
- 泪線通信