田中 善吉
| 氏名 | 田中 善吉 |
|---|---|
| ふりがな | たなか ぜんきち |
| 生年月日 | 1889年4月17日 |
| 出生地 | 神奈川県橘郡田奈村 |
| 没年月日 | 1947年11月2日 |
| 国籍 | 日本 |
| 職業 | 民間災害記録学者、地図校正家 |
| 活動期間 | 1912年 - 1945年 |
| 主な業績 | 風圧帳の編纂、余白測定法の確立、紙面被害等級の普及 |
| 受賞歴 | 帝都記録協会特別章(1936年) |
田中 善吉(たなか ぜんきち、 - )は、の民間災害記録学者、地図校正家、ならびに「余白測定法」の提唱者である。関東各地の被害報告を図像化したの編纂者として広く知られる[1]。
概要[編集]
田中 善吉は、日本の民間災害記録学者である。主としての風害・飛散物被害を、新聞・役場文書・学校日誌を突き合わせて再構成する手法で知られる[1]。
彼が提唱したは、紙面上の空白率から街区ごとの被害密度を推定するという独自の方法であり、当時の系文書には「非合理だが妙に当たる」と記されたとされる。なお、この手法が後年のに与えた影響は大きく、今日では一部の地方史研究で参照されている[2]。
生涯[編集]
生い立ち[編集]
田中は、橘郡田奈村の旧家に生まれる。父・田中源左衛門はの下請けとして麻袋の補修を生業とし、母・たかは寺子屋で帳面の裏紙を集める癖があったとされる。善吉は幼少期から、破れた紙の継ぎ目に書かれた数字に強い関心を示し、近隣では「空白を数える子」と呼ばれていた。
には村の記録係が落雷で倒れた際、善吉が濡れた戸籍簿をひと晩で乾かし、欠損部分を周辺の名寄帳から補ったという逸話が残る。この出来事が、彼を記録と復元の道へ向かわせた契機であるとする説が有力である[3]。
青年期[編集]
、善吉はへ出ての夜学に通い、同時にの古紙問屋で働いた。そこで彼は、運送用の荷札と倉庫台帳の整合が取れないことに気づき、帳簿の「余白」にこそ現場の実態が現れると考えるようになった。
にはの臨時補助員となり、誤植や欠落地名の修正に従事した。とりわけ流域の橋梁名をめぐる校正で、役所の正規文書よりも小学校の遠足記録の方が正確であったため、以後は学校資料を重視するようになったという。
活動期[編集]
の期に入ると、善吉は各地の被害紙を収集して『風圧帳』の作成を始めた。これは、、の町村役場が保管していた罹災メモを、半透明の薄紙に写し取って重ねる方法で、1冊あたり平均の資料を束ねたとされる。
の後、善吉は焼失区域の外縁部を「沈黙帯」と名づけ、印刷物が残っていない区域ほど被害が重かったと主張した。この理屈は当初かなり疑われたが、彼がの倉庫で見つけた「紙の焦げ方見本」23種を提示してからは、実務家の間で急速に支持を広げた[4]。
また、にはで講演を行い、会場の余白を定規で測る癖が話題となった。聴衆のひとりが「そんなものは統計ではない」と言うと、善吉は「統計ではなく、紙の気分である」と応じたと伝えられる。
晩年と死去[編集]
代に入ると、善吉は戦時下の紙不足により活動を縮小し、代わっての裏面に被害想定図を描くようになった。彼は「一枚の紙は、表より裏で真実を語る」と記していたが、この言葉は後に彼の流儀を象徴する格言として引用された。
11月2日、善吉は芝の下宿先で死去した。享年。死因は心不全とされるが、最晩年まで机の上に未完成の『風圧帳補遺・第7巻』が置かれており、死亡直前まで紙面の空白率を計算していたことがうかがえる。
人物[編集]
善吉は几帳面である一方、生活は驚くほど雑であったとされる。机上には、、乾いた海苔、そして使用済みの切符が常に同居しており、弟子たちは「机の上の混沌こそ善吉の研究室である」と評した。
性格は温厚であったが、地名の誤記にだけは異様に厳しかった。ある地方紙がをと誤記した際、彼は3日間にわたり校正のためだけに編集部へ通い、最後には自ら朱筆で42箇所の訂正を施したという。
逸話として、雨の日に必ず傘の内側を確認し、骨組みの数を数えたことが知られる。これは風速の体感測定のためであったと本人は説明していたが、実際には「傘は最小の都市である」という持論の検証だったともいわれる。
業績・作品[編集]
善吉の代表作は『』である。これはからにかけて断続的に刊行された全の資料集で、被災地の建具の破損方向、電柱の傾き、菓子箱の散乱位置まで記録した点で異例であった。
また、『余白測定法試論』では、新聞一面の空白面積がを超えると近隣2町内で壁土剥落が起こるという経験則が示されている。これは後年、の地誌研究班が再検証を試みたものの、原資料の大半が善吉自身の手で「読みやすいように」改稿されていたため、完全な追試は不可能であった[5]。
そのほか、講義録『紙と風の比較民俗学』、小冊子『庭先飛散物目録』、未完の『地図の気分』などがある。とくに『地図の気分』は、行政地図を「怒っている地形」「眠っている川」などの感情で分類したもので、後世の研究者からは「もっとも役に立たないが最も忘れがたい著作」と評されている。
後世の評価[編集]
戦後、善吉の研究は一時「風変わりな民間記録」として扱われたが、にとが結びつくにつれ再評価が進んだ。特にでは、彼の採集した被害メモが戦前の町名改称を復元する手掛かりとなったことから、実務的価値が認められている。
一方で、彼の方法は「観察者の主観が強すぎる」「測定対象に感情を読み込みすぎる」との批判もある。もっとも、そうした批判の直後に提出された反論文が、善吉の語彙をほぼそのまま流用していたため、学界では半ば様式美として受け止められている。
では毎年11月に「善吉忌」と呼ばれる資料閲覧会が開かれ、参加者は必ず無地のノートと赤鉛筆を持参する慣例がある。なお、来場者の7割が実際には災害研究者ではなく地図帳コレクターであるという調査結果もあるが、これは統計の分母が不明であるため要出典とされる。
系譜・家族[編集]
善吉の妻は田中スミとされ、の和紙商の娘であった。夫妻の間には長男・善一、次男・弘、長女・トキの3人がいたとされるが、家族写真の一部がの空襲で失われており、正確な人数については諸説ある。
長男の善一は戦後にの仕事へ進み、父の資料を整理して『田中善吉遺稿集』を編んだ。次男の弘はで駅名標の修正に携わったとされ、父譲りの地名執着を受け継いだという。
なお、田中家には「雨の日に帳簿を開くと良い方角がわかる」という家伝があったと伝えられるが、善吉本人はこれを迷信として否定しつつ、実際には毎年梅雨入りの日を日記に細かく記録していた。
脚注[編集]
関連項目[編集]
脚注
- ^ 佐伯勇三『風と紙の民間記録学』帝都書房, 1958年.
- ^ 長尾美代子「田中善吉における余白概念の成立」『地方史研究』Vol. 14, No. 2, pp. 41-67, 1964年.
- ^ H. T. Wainwright, The Cartography of Silence, Meridian Press, 1971.
- ^ 小野寺啓介『災害紙面学入門』青葉出版, 1978年.
- ^ 渡辺静香「風圧帳と戦前町村行政」『アジア災害史紀要』第3巻第1号, pp. 88-109, 1982年.
- ^ Marjorie Ellison, White Space Metrics in Prewar Japan, Eastbridge Academic, 1990.
- ^ 田島一郎『地図の気分と行政の記憶』港北選書, 1999年.
- ^ 神崎史郎「善吉資料に見る空白率の計算法」『記録と復元』第8巻第4号, pp. 12-29, 2007年.
- ^ B. Nakamura, Notes on Wind Damage Ledgers, Kaito University Press, 2013.
- ^ 松浦澄江『田中善吉遺稿集補注』東雲社, 2018年.
外部リンク
- 帝都記録協会アーカイブ
- 神奈川県地方史デジタル館
- 風圧帳研究室
- 紙面被害等級データベース
- 善吉資料翻刻プロジェクト