阿笠根 健吾
| 生年月日 | 1897年3月14日 |
|---|---|
| 没年月日 | 1964年11月2日 |
| 出身地 | 神奈川県足柄下郡湯河原村 |
| 職業 | 民間測量技師、符号設計家 |
| 著名な実績 | 折返し地形図法の提唱 |
| 勤務先 | 帝都地形復元研究所 |
| 代表作 | 『反転地図学試案』『港湾記号の倫理』 |
| 影響 | 戦前日本の臨時測量行政と都市避難計画 |
| 通称 | 逆図の阿笠根 |
阿笠根 健吾(あがさね けんご、 - )は、の民間測量技師、符号設計家である。とくに後に発案された「折返し地形図法」の提唱者として知られる[1]。
概要[編集]
阿笠根は、末期から前期にかけて活動した人物で、地形を紙面上で一度折り返して再配置する「折返し地形図法」を提唱したことで知られている。この方法はの臨時測量班や、の一部研究者の間で実験的に用いられたとされる[2]。
一般には地図製作者として扱われることが多いが、本人はむしろ「都市が避難を忘れないための装置設計者」と自称していたという。なお、同時代の手記には、阿笠根が方眼紙をの風向に合わせて回転させていたという記述があり、後年この逸話が誇張された可能性も指摘されている[3]。
生涯[編集]
湯河原での少年期[編集]
阿笠根は足柄下郡湯河原村の旧家に生まれたとされる。父は温泉宿の帳場係、母は湯治客向けの地図を裏紙で包む仕事をしており、阿笠根は幼少期から「折られた紙と地形の相性」に強い関心を示したという。13歳の頃、川の増水で村内の通学路が変わった際、彼が竹串と煤で簡易模型を作った記録が残る[4]。
1909年にはの商業学校に進み、製図と測量の基礎を学んだ。成績は極端に優秀ではなかったが、縮尺換算の速さだけは異様で、教員が「算盤より先に地形を覚える」と評したという。ここで同級生だった渡会栄次郎と共同で、駅前の電柱配置から人流を推定する遊びを始めたことが、後の都市避難研究につながったとされる。
帝都地形復元研究所時代[編集]
の後、阿笠根はが設けた復興関連の臨時委嘱に参加し、のちに民間組織である帝都地形復元研究所へ移った。ここで彼は、焼失前の街区を被災後の空白上に重ねるため、紙面を半分に折って左右を逆転させる「折返し地形図法」を完成させたとされる[5]。
この手法は、単なる復元図ではなく「次に燃える場所を読むための図」として扱われ、の防火担当者が密かに複写を求めたという逸話がある。一方で、図面に記された凡例がやたらと細かく、例えば「風呂屋の煙突」「豆腐屋の角度」「猫の通り道」まで区別されていたため、実務家の間では賛否が分かれた。
晩年と失踪譚[編集]
以降、阿笠根は公的な記録から徐々に姿を消し、の貸家で半ば隠棲生活に入ったとされる。晩年は地図よりも「音の等高線」に関心を移し、潮騒や駅の発車ベルを方眼に落とし込む独自の記法を試みたが、完成稿は散逸した[6]。
没年は1964年とされるが、実際にはその前年にで目撃されたという未確認証言が複数残っている。とくに、島内の宿屋で「海岸線は夜になると少し折れる」と語った老人の記録は有名である。ただし、これが本人であったかは判然としない。
折返し地形図法[編集]
折返し地形図法は、阿笠根が提唱したとされる独自の作図技法である。通常の地図をそのまま縮小するのではなく、被災前後の街区を一枚の紙上で折り返し、左右対称ではなく「記憶の都合」で再配置する点に特徴がある。
この技法の利点は、復興計画において道路幅や空地の優先度を直感的に把握できることにあったとされる。また、の一部技術官が「郵便配達員の回遊距離を劇的に短縮した」と記録しているが、別の報告ではむしろ配達員が迷いやすくなったともされ、評価は定まっていない。
阿笠根はこの技法を、単なる測量ではなく「都市の記憶を一度裏返し、もう一度正面に戻す儀式」と説明したという。もっとも、実際の図面には赤鉛筆で大量の注釈が加えられており、学術的というよりは、几帳面な収集癖の産物に近かったとの見方もある。
社会的影響[編集]
復興行政への影響[編集]
阿笠根の図法は、の一部復興担当課で非公式に参照され、特に焼失地域の仮設市場配置に応用されたとされる。露店の動線を「朝・昼・夕」の三層に分けて可視化する案は、当初あまりに奇抜で笑われたが、実際には雑踏の停滞を18%ほど減らしたという内部報告がある[7]。
また、彼の図面には避難広場の代わりに「沈黙の空白」と書かれた区画があり、これが後年の防災公園設計に影響を与えたとする説もある。もっとも、これは阿笠根本人の思想というより、後から解釈を盛られた可能性が高い。
文化人との交流[編集]
阿笠根はやと同時代に活動した都市観察家たちと交流があったと伝えられる。とりわけ今和次郎とは、路地の洗濯物の高さを「生活の等高線」と呼ぶかどうかで議論になったという話が残る[8]。
一方で、の喫茶店で彼の図法を見た画家が「地図が先に夢を見ている」と評した逸話は有名である。この評言が新聞に引用されたことで、阿笠根は専門家よりもむしろ奇人として注目されるようになった。
批判と論争[編集]
阿笠根の業績には、当時から「実用的ではあるが過剰に詩的である」との批判があった。とくに、地図上で寺院の鐘楼と避難路を同列に扱ったことは、行政文書として不適切だとする声が内で上がったとされる[9]。
また、彼が使用した「逆図」「地形の記憶」「都市の折り目」といった用語は、後世の研究者によって定義が曖昧すぎると指摘された。なお、1960年代の再評価に際して、ある研究者が阿笠根の未整理ノートを読み上げたところ、そこに「月曜日の坂は急に見える」とだけ書かれていたため、学会が一時騒然となったという。
もっとも、批判の多くは彼の方法論そのものより、図面の余白に書かれた俳句と食事メモが多すぎたことに向けられていた。
人物像[編集]
阿笠根は、寡黙で几帳面、しかし説明を始めると急に比喩が増える人物であったと伝えられる。朝は必ず定規を二本並べ、うち一本を「気分確認用」と呼んでいたという。
好物は鯵の干物と黒飴で、夜更けに方面の海図を眺めながら食べる習慣があった。弟子筋の証言によれば、地図の端を指でなぞる癖があり、それは空白を恐れていたというより、空白に仕事をさせていたのだという[10]。
脚注[編集]
関連項目[編集]
脚注
- ^ 阿部重彦『帝都復元図譜における折返し記法』都市史学会誌 第12巻第3号, 1958, pp. 41-67.
- ^ Margaret L. Thornton, "Reversed Cartographies in Post-Disaster Tokyo," Journal of Urban Memory, Vol. 8, No. 2, 1971, pp. 113-129.
- ^ 中村俊介『阿笠根健吾の方眼思想』測量文化社, 1962.
- ^ 渡会栄次郎『湯河原と少年阿笠根』神奈川郷土研究, 1949, pp. 5-22.
- ^ 佐伯みどり『都市の折り目と沈黙の空白』日本復興史研究, 第4巻第1号, 1984, pp. 88-104.
- ^ Howard P. Ellison, "The Ethics of Folded Maps," Proceedings of the East Asian Surveyors Association, Vol. 3, 1956, pp. 201-219.
- ^ 内務省臨時測量班編『大正復興期における簡易重畳図法報告』内務省資料室, 1926.
- ^ 今野晴夫『街路の猫道と人流推計』東京人文叢書, 1933, pp. 77-91.
- ^ 小野寺隆一『阿笠根健吾ノート残片集』私家版, 1965.
- ^ Eleanor J. Price, "A Note on the So-Called Reverse Topography Method," Cartographic Review, Vol. 14, No. 4, 1969, pp. 9-18.
外部リンク
- 帝都地形復元研究所アーカイブ
- 昭和復興測量資料館
- 日本逆図学会
- 折返し地形図法デジタルコレクション
- 湯河原郷土人物事典