田中 梨瑚
| 氏名 | 田中 梨瑚 |
|---|---|
| ふりがな | たなか りこ |
| 生年月日 | 1934年2月17日 |
| 出生地 | 日本・東京都神田区(現・千代田区) |
| 没年月日 | 2008年9月4日 |
| 国籍 | 日本 |
| 職業 | 民俗音響学者、記録芸術家、編集者 |
| 活動期間 | 1957年 - 2004年 |
| 主な業績 | 梨枝録の体系化、移動式採声車の導入、方言音の地図化 |
| 受賞歴 | 日本記録芸術賞、音響民俗学会功労章 |
田中 梨瑚(たなか りこ、 - )は、の民俗音響学者、記録芸術家である。特に「梨枝録(りえろく)」と呼ばれる声紋採集法の創始者として広く知られる[1]。
概要[編集]
田中 梨瑚は、期から初期にかけて活動したの民俗音響学者である。各地の祭礼や市場で発生する「生活音の癖」を採集し、これを音声記録として整理する方法を確立した人物として知られる[1]。
彼女の研究は、単なる録音の収集にとどまらず、音の出る順序、呼吸の間、周囲のの反響までを一つのデータとして扱う点に特徴があった。とりわけ内の旧・神田市場で行われた初期調査は、後に「都市民俗音響学」の原型と評されることになった[2]。
生涯[編集]
生い立ち[編集]
田中は、神田区の紙問屋の家に生まれる。幼少期から帳場に置かれた手回し蓄音機に親しみ、来客の声の高さや息継ぎの位置を記憶していたという。のちに本人は、幼少時に父が商談を終える際の「最後の三拍」が家計の安定を左右したと回想している[3]。
附属の課程に進んだ後、との双方に関心を示し、卒業後は記録映画の補助編集に携わった。ここで培われた切り貼りの技術が、のちの採集法の骨格になったとされる。
青年期[編集]
、田中はの臨時採録班に参加し、の山村で行われた念仏講の録音を担当した。このとき、録音機の回転数が不安定だったことから、音程だけでなく背景の風音の揺れを含めて比較する独自の表記法を考案したとされる[4]。
には、独学で作成した「梨枝録 第1号」を私家版で刊行し、採録対象を祭囃子、呼び込み、拝み言葉、鍋の沸騰音にまで広げた。なお、同号の末尾には「無音もまた方言である」との一文があり、後年の弟子たちの間で長く引用された。
活動期[編集]
半ば、田中は系の調査事業に関わり、「ミズスマシ2号」を導入した。車体内部には製の録音装置、紙テープ式の簡易解析機、そして市場で買ったの保温棚が改造利用されていたという。本人はこれを「音を待たせるための装置」と呼んだ[5]。
この時期の代表的調査である「関東雑踏音圏図」では、、、、の4地点を毎週同時刻に巡回し、売り声の長さ、靴音の密度、雨天時の沈黙時間を数値化した。結果として、商店街ごとに「呼び込みの語尾が0.8秒伸びる現象」が見いだされたが、後に統計処理の癖によるものではないかとの指摘もある[要出典]。
にはの漁村で採集した法要唱和をもとに『風待ちの耳』を刊行し、を受賞した。受賞会場では、記念講演の代わりに15分間の無音を流し、聴衆に「沈黙の地域差」を体験させたことで話題となった。
晩年と死去[編集]
以降は執筆と後進の育成に重点を移し、の私塾「梨枝庵」で毎月1回の公開採録会を開いた。参加者には音響学者のみならず、の店主や鉄道模型愛好家も含まれ、田中は「音の保存に学歴は不要である」と述べたとされる。
9月4日、内の自宅で死去。74歳であった。死因は老衰とされるが、最期まで「冷蔵庫の起動音が高すぎる」と苦言を呈していたという逸話が残る。葬儀では弟子たちが、彼女の方式に従い参列者のすすり泣きを周波数別に分類した。
人物[編集]
田中は、外見上は寡黙で几帳面な人物として記憶されている一方、実際には異様に細部へ執着する癖があった。たとえば取材先で茶碗が置かれる音の回数が予定より1回少ないと、翌日もう一度同じ家を訪ねて確認したという。
また、彼女はメモ用紙の余白に必ず「音の裏にある湿度」を書き込んでいた。これは後年、弟子の間で半ば格言化し、では新人研修の標語として引用されるようになった。なお、本人は機械に弱かったが、録音機の調整だけは異常に早く、古い真空管式装置を叩いただけで直すことがあったという。
逸話として有名なのは、の調査で、味噌煮込みうどんの湯気の上がり方まで記録しようとして店主に止められた件である。田中は「湯気は音の親戚である」と言い張ったとされるが、この発言の真意は今なお議論がある。
業績・作品[編集]
田中の業績は、民俗資料を「聴く」ための方法論を整えた点にある。代表的著作『梨枝録法概論』では、採録対象を「発話」「合いの手」「間」「環境ノイズ」の4層に分け、都市と農村で異なる記録単位を提案した。これにより、従来は雑音として切り捨てられていた部分が、研究対象として扱われるようになった[6]。
主な作品には、『風待ちの耳』『市場の無音』『方言の背中』『呼び込みの地理学』などがある。特に『市場の無音』は、の百貨店屋上で12時間にわたり録音された沈黙を分析した異色作で、刊行当初は「印刷が1ページ足りないのではないか」と苦情が寄せられた。
さらに田中は、採集地ごとに色分けした「音の地図」を作成した。これは後のの地域音アーカイブに影響を与えたとされる一方、地図上でだけが妙に濃い灰色で塗られていたため、弟子の一人が「調査車の故障跡ではないか」と述べた記録も残る[要出典]。
晩年の未刊稿『冷蔵庫の方言』では、冷却音の立ち上がり方を地方差として扱う大胆な仮説を提示しており、研究者の間で最も有名な未完作となっている。
後世の評価[編集]
田中の評価は、との橋渡しを行った先駆者として概ね高い。特に以降、デジタル録音機器の普及によって彼女の手法が再評価され、地方自治体の祭礼記録や商店街再生事業に応用された。
一方で、彼女の方法は極端に主観的であるとの批判もある。とりわけ「沈黙を数値化する」という考え方は、実証性に欠けるとして長く異端視されたが、近年はアーカイブ研究の文脈で再評価が進んでいる。なお、国際的にはの比較音響文化研究室が田中の資料群を「20世紀東アジアの耳の民俗誌」と位置づけた。
また、没後にで開催された回顧展では、来場者が展示室内で黙って立つこと自体が鑑賞行為とされたため、会期中のアンケート回答率が通常の半分以下であった。これが田中らしい展覧会として語り草になっている。
系譜・家族[編集]
田中は紙問屋を営む田中家の次女として生まれ、父・田中市之助、母・田中ふさのもとで育った。兄に田中誠一がいたとされ、彼はのちにで古書店を開き、田中の研究資料の一部を保管したという。
に編集者の小松原修司と結婚したが、生活上の都合から姓は変えず、学術活動では旧姓を通した。二人の間に子はなく、代わりに複数の弟子を「耳の子」と呼んで養成した。中でも渡部澄江、佐伯幹彦、長谷川ユキの3名は、田中の晩年まで採録班を支えたことで知られる。
なお、親族の一部は彼女の研究に懐疑的で、法事の席で録音機を持ち出した際には強く注意されたと伝えられる。もっとも、法要後の座敷で親族の雑談を採ることには成功したともされ、田中本人はこれを「家族音響の完成」と呼んだ。
脚注[編集]
[1] 田中梨瑚の初期伝記資料は散逸が多く、活動初期の録音テープは複製しか現存しないとされる。
[2] 旧神田市場における調査は、当時の商業統計と音響記録を突き合わせた稀有な例である。
[3] 田中家の帳場記録をもとにした回想は、晩年の聞き書き集に収録されている。
[4] 風や回転数の揺れを記号化した方法は、後に「梨枝録式補助記譜」と呼ばれた。
[5] ミズスマシ2号の内部写真は一部しか残っておらず、保温棚の用途については諸説ある。
[6] 『梨枝録法概論』の初版は極端に少部数で、大学図書館への配本が間に合わなかったという。
関連項目[編集]
脚注
- ^ 田中澄子『梨枝録法の成立と展開』音響文化出版, 1998.
- ^ 佐伯幹彦『沈黙の地図――田中梨瑚の方法』新潮社, 2007.
- ^ 渡部澄江「市場音圏における呼び込みの反復」『民俗音響学研究』Vol. 12, No. 3, 1985, pp. 44-67.
- ^ M. A. Thornton, 'Urban Silence and Regional Voice in Postwar Japan', Journal of Acoustic Folklore, Vol. 8, Issue 2, 1996, pp. 113-129.
- ^ 小松原修司『耳の編集術』みすず書房, 1979.
- ^ 長谷川ユキ「採声車ミズスマシ2号の技術史」『記録芸術年報』第17巻第1号, 2009, pp. 5-21.
- ^ 河合真一『方言の背中――聞こえないものの民俗誌』岩波書店, 2002.
- ^ 『田中梨瑚聞き書き集』千代田資料社, 2011.
- ^ Elizabeth N. Crowe, 'On the Measurement of Silence in Commercial Districts', The Review of Ethnographic Sound, Vol. 4, No. 1, 1988, pp. 1-19.
- ^ 土屋明子「冷蔵庫の方言をめぐって」『文化音響ジャーナル』第23巻第4号, 2014, pp. 88-96.
外部リンク
- 音響民俗学アーカイブ
- 千代田区立日比谷記念資料館
- 梨枝庵デジタルコレクション
- 日本記録芸術学会
- 関東雑踏音圏研究会