田島竜宮堂
| 正式名称 | 田島竜宮堂 |
|---|---|
| 通称 | 竜宮堂、田島堂 |
| 創設者 | 田島竜吉 |
| 創設 | 1897年頃 |
| 所在地 | 千葉県安房郡鋸南町一帯とされる |
| 主業 | 海産保存具、記憶帳、潮抜き薬の製造 |
| 最盛期 | 1928年-1936年 |
| 関連組織 | 房総海産試験場、旧鋸南港倉庫組合 |
| 現況 | 資料散逸により実態は不明 |
田島竜宮堂(たじまりゅうぐうどう)は、南部の周辺で伝えられた、海底の保存技術を応用した民間工房および流通網の総称である。末期にが創設したとされ、貝殻漆器の保全と失われた記憶の修復を同時に行う場として知られている[1]。
概要[編集]
田島竜宮堂は、の沿岸部に広がった半ば工房、半ば商会、半ば民間療法所のような組織として語られている。海藻紙、真鍮製の潮止め具、そして「忘却を防ぐための記帳箱」を扱ったとされ、当時の漁村文化と都市部の消費生活を奇妙につないだ存在であった。
名称の由来は、創設者の田島竜吉がを「海中にある保管庫」と解釈し、保存と返還の機能をもつ商いに転用したことにあるとされる。ただし、初期の帳簿には「竜宮堂」の名義がなく、期に入ってから急に整った表記が現れるため、後年の編集が強く疑われている[2]。
成立の背景[編集]
田島竜宮堂の起源については、30年代の鋸南沿岸で流行した「潮溜まり療法」と関係づける説が有力である。これは、桶に汲んだ海水へ紙片や木片を一定時間浸し、その後に乾かして再使用することで、道具の寿命が延びると信じられていた技法で、当初は漁具の補修から始まったという。
田島竜吉は下で帳合を学んだのち、の回船問屋で奉公した人物とされるが、同時代の戸籍では確認が難しい。研究者の間では、複数の人物像が重なって「田島竜吉」という伝説的人名が形成された可能性も指摘されている。また、堂内で使われたとされる潮計器は、実際にはの雑貨商が流した輸出不良品を改造したもので、性能はおおむね曖昧であった。
歴史[編集]
創業期[編集]
1897年頃、田島竜吉は鋸南の岬に近い旧民家を借り受け、海藻を干す棚と帳簿室を一体化した小規模な作業場を開いたとされる。初年度の取扱高は米俵換算で37俵、貝殻漆器の手直しは月平均14点に過ぎなかったが、近隣のやから「壊れても戻る器」を求める客が現れ、半年で倉庫を一棟増築したという。
この時期に導入された「竜宮札」は、木札の裏面に海水を一滴垂らし、干上がった後の塩跡で所有者を識別する仕組みである。合理性は低いが、文字の読めない漁民にも扱いやすかったため急速に広まり、のちに沿岸の集金帳に転用されたとされる。
拡張期[編集]
8年以降、田島竜宮堂は「潮戻し」「記憶継ぎ」「浜辺再仕立て」の三部門を名乗り、半ば宗教施設のような外観を帯びた。1923年の後には、焼失家屋から拾われた金具や硝子片を再利用する「海返し再建帳」が評判となり、内の古道具商まで取引先に加わった。
一方で、この時期の販路拡大はの地方衛生規則としばしば衝突したとされる。特に「記憶帳」を薬袋として販売した件は、とされるほど史料の整合性が悪く、実際には帳面に薄く塗った貝灰が鎮静効果をもたらしただけではないかという見方もある。
戦時下と終焉[編集]
初期、田島竜宮堂は軍需転換を迫られ、潮止め具の製造を簡略化した「海軍向け錆止め箱」を納入したと伝えられる。だが納入先の記録は断片的で、箱そのものが実際には乾物保存用の転用品だった可能性も高い。
ごろには空襲回避のため主要設備を洞窟倉庫へ移し、最盛期にあった七つの作業台のうち四つを失った。終戦後は田島家の分家が細々と商いを続けたが、の台風被害で帳簿の大半が流出し、事業の実態は急速に不明瞭になった。これにより、田島竜宮堂は「存在したが、何をしていたかよく分からない」地方伝承として定着した。
製品と技法[編集]
田島竜宮堂が扱ったとされる製品は、いずれも「海に触れることで性能が上がる」という発想に基づいていた。代表的なものに、貝殻粉を混ぜた漆器補修材、潮風で硬化する封蝋、乾燥後に所有者の手触りが残るとされた記録帳がある。
また、同堂独自の技法として「三度沈め、二度干す」という工程が知られている。これは器物を浅い海水槽に三回浸し、その都度の浜風で乾かすもので、塩分が木地に染み込むと同時に、古い傷跡が見えにくくなると説明された。後年の分析では、単に汚れが均されただけではないかとの指摘があるが、使用者の満足度は高かったとされる。
なお、昭和10年代の商標帳には「竜宮堂式・忘れ物返却函」という不可解な商品名があり、駅や旅館に置かれる小型の木箱として重宝された。箱に入れた物品の一部がなぜか持ち主のもとへ戻るとされ、周辺では「返却率93%」という過剰に精密な宣伝文句まで残っている。
社会的影響[編集]
田島竜宮堂は、沿岸部の零細商いに「修理」と「返還」という概念を普及させた点で評価されている。従来は壊れた器物を捨てるか、職人に完全依頼するしかなかったが、竜宮堂の方式は「一部だけ直して使い続ける」文化を広め、結果として漁村の家計に年間約12〜18%の節約効果をもたらしたとする試算がある[3]。
また、店内に置かれた「忘却控え帳」は、持ち主が物品の来歴を書き留めるための帳面であり、のちにの民俗採集活動にも影響した。複数の郷土史家がこの帳面を参照して家系図を補完したとされ、の民俗学ゼミでは1960年代に「田島式記憶補助法」が実習課題に採用されたという記録もある。ただし、この記録は学生の回想にのみ現れ、正式な大学史には載っていない。
批判と論争[編集]
田島竜宮堂には、いくつかの批判も存在する。第一に、同堂の成立を支える一次史料が少なく、後世の郷土誌が誇張を重ねた可能性が高いことである。第二に、潮を用いた保存技術の多くは再現不能で、実際には単なる乾燥管理を神秘化しただけではないかとする意見もある。
さらに、以降に流通した「田島竜宮堂復刻印」の茶碗や木箱は、実際にはの民芸店が大量生産した模造品だったとされる。これをめぐっては、地元保存会と古道具研究者のあいだで論争が起こり、教育委員会が「伝承価値を優先する」として結論を棚上げした経緯がある。なお、創業者が本当に田島竜吉であったかについては、いまなおとされる。
脚注[編集]
関連項目[編集]
脚注
- ^ 田代一成『房総沿岸における竜宮堂資料の再検討』郷土史研究 第18巻第2号, pp. 41-67, 1987.
- ^ Margaret A. Thornton, "Salt, Memory, and Repair: The Ryugu Workshop Network", Journal of Maritime Folklore, Vol. 12, No. 3, pp. 88-113, 1994.
- ^ 鈴木みどり『忘却控え帳の民俗学的機能』日本民俗誌叢書, 民俗文化出版社, 2002.
- ^ Hiroshi Kameda, "The Tajima Method and Small-Scale Coastal Economy", East Asian Studies Quarterly, Vol. 9, No. 1, pp. 5-29, 1978.
- ^ 青柳直人『竜宮札と地方流通の変容』地方経済史研究 第6巻第4号, pp. 112-139, 1965.
- ^ Eleanor G. Pike, "When Boxes Return Home: Notes on a Curious Japanese Catalog", Transactions of the Coastal Archive Society, Vol. 21, No. 2, pp. 201-224, 2001.
- ^ 中村照雄『鋸南の潮溜まり療法に関する試論』房総文化史報告, 第3巻第1号, pp. 9-33, 1971.
- ^ Keisuke Morita, "Ritualized Drying and the Reuse of Household Objects", Comparative Material Culture Review, Vol. 15, No. 4, pp. 144-170, 2008.
- ^ 田島竜吉『海に返す技法』私家版写本, 1932.
- ^ 藤原春江『竜宮堂復刻印の流通とその影響』千葉民芸年報, 第11号, pp. 55-78, 1999.
- ^ Robert H. Finch, "A Handbook for Forgetting Slightly", Proceedings of the Memory and Maritime Symposium, Vol. 4, pp. 1-19, 1986.
外部リンク
- 房総郷土資料アーカイブ
- 鋸南町文化研究会
- 海辺民具デジタル博物館
- 竜宮堂研究ノート
- 民間保存術資料室