真の文セ
| 正式名称 | 真の文セ |
|---|---|
| 別名 | 真文制度、文セ式真偽判定 |
| 提唱時期 | 1897年頃 |
| 提唱者 | 高瀬文治郎ほか |
| 主な適用先 | 官報、新聞、学校文集、通信教育 |
| 分類階級 | A〜G段階 |
| 管轄 | 文部省校閲局・内務省臨時文案課 |
| 廃止 | 1948年の文書自由化通達 |
| 関連領域 | 校閲学、近代文体論、偽証文献学 |
真の文セ(しんのぶんせ)は、後期にの言語学講座から派生したとされる、日本語の文の真偽を判定するための半官半民の記述体系である。文法学、行政文書、新聞校閲の三領域を横断する実務規範として知られている[1]。
概要[編集]
真の文セは、文章が「真であるように読めるか」ではなく、「真であると行政上みなしてよいか」を判定するための体系であるとされる。判定対象は記述内容そのものではなく、語尾、助詞の反復、日付の置き方、引用符の癖などの微細な文体差であり、にはの通達で準公的な扱いを受けたとされている[2]。
この制度は、当初は学校作文の採点補助として導入されたが、やがて新聞社の校閲部門、の電報原稿、地方役場の議事録にまで広がった。特にの神田からの船場にかけては、文セの判定だけを生業とする「文セ師」が出没したという記録が残るが、同時代の公文書にはほとんど痕跡がなく、研究者の間では口承制度であった可能性が高いとされる[3]。
成立の背景[編集]
校閲恐慌と書記官の疲弊[編集]
起源はの新聞紙面拡大にあるとされる。当時、の校閲係であった高瀬文治郎は、誤植よりも「真偽が曖昧な文」の処理に時間を取られることを問題視し、文の真偽を5段階ではなく7段階で表す案をまとめた。彼の草稿は『文の真否を判ずるに、事実より先ず格を問うべし』という一文で始まり、のちに文セの定義として反復引用された[1]。
また、が地方の報告書で「推定」「聞くところによる」「恐れながら」などの婉曲語を乱用する事例を問題にしたことも背景である。1896年の臨時調査では、全国1,284件の報告書のうち、実地確認が取れたのは312件のみで、残りは語尾の硬さによってのみ採択可否が決められていたという。なお、この統計は後年の文セ擁護者が「制度の有効性を示す証左」として引用したが、現代の研究では出典不明である[4]。
高瀬文治郎と門弟集[編集]
高瀬文治郎(たかせ ぶんじろう、 - )は、出身の国語学者で、を経てに入ったとされる。彼は文セを単なる校閲技法ではなく、文章が社会に対してどれだけ「責任を負う体裁を備えているか」を測る技術だと定義した。門弟には小林鶴松、三浦はる枝、井上律三郎などがいたとされ、彼らはしばしばの喫茶店「秋水亭」で夜通し例文を読み比べたという。
門弟集のあいだでは、真の文セに合格した文は「黒丸」、再提出となる文は「白丸」、内容は正しくても語尾が軽い文は「薄灰」と呼ばれた。とくに三浦はる枝は、文末の「である」の直前に置かれる読点の位置だけでA判定が出る例を見抜いた逸話で知られているが、この逸話は後世の文セ趣味人が作った可能性がある。
制度の構造[編集]
真の文セはからまでの7段階で構成され、Aは「行政上の真」、Bは「新聞上の真」、Cは「家庭内でのみ真」、以下Gは「文としての体裁を欠く」とされた。実務上はA・B・Dの三種しか使われなかったともいわれ、制度の精密さに比して運用はきわめて粗雑であった。
判定には「語末冷却係数」「固有名詞飽和率」「日付の硬度」などの指標が用いられたとされる。たとえばの関東大震災後、被災報告において「焼失した」と断言するとA判定、「焼失したと思われる」と書くとB判定、「焼失したらしい」を三回以上使うと自動的にC判定へ落とされた。これらの細則はの内部資料『報告文体整序要綱』に記されたとされるが、現存は確認されていない[5]。
普及と社会的影響[編集]
学校教育への浸透[編集]
期には、真の文セは学校教育に取り込まれ、作文試験の採点基準として広まった。あるの女学校では、1学期に提出される作文1,042編のうち、文セAを得たのはわずか17編で、残りは「内容は善良だが、真が立っていない」として減点されたという。これに対し、生徒たちはわざと句点を増やす「点増し運動」を始め、1921年には校内で最大14個の句点を連ねた作文が問題になった。
また、通信教育の添削業界でも文セは重宝された。添削者の中には、朱筆で「文セ不足」とだけ書き込み、三行で済ませる者がいたとされる。これがのちのの原型であるという説もあるが、支持は少ない。
新聞と広告の変質[編集]
新聞社では、見出しの見栄えよりも文セの通過率が重視され、広告文にも制度が適用された。とくにの広告面では、商品名の後ろに不自然なほど長い但し書きが付される現象が増え、1928年の調査では1紙面あたり平均4.7個の「ただし」が検出された。これは読者から「読むだけで正体が曖昧になる」と苦情を受けたが、販売部はむしろ「曖昧なほど再読される」と評価した。
一方で、文セの影響は政治演説にも及んだ。議会速記録においては、断定を避ける議員ほど高い文セ評価を得ることがあり、これを利用して答弁回避が巧妙化したとされる。後年、ある評論家は「真の文セとは、真理の制度ではなく、責任の文法であった」と記した。
批判と論争[編集]
真の文セに対する批判は、当初から「内容より体裁を重んじるため、事実の検証を遅らせる」とするものであった。とくにの『文セ乱用事件』では、地方紙が火災記事をA判定にするために、現場確認前の原稿を先に通してしまい、翌日記事との差異が31か所に及んだことで、編集責任が問題化した[6]。
また、文セ師のあいだでも流派が分かれた。高瀬派は「文の骨格が真を呼ぶ」と主張したのに対し、京都の松山玄朔派は「真は骨格ではなく余白に宿る」と唱えた。両派は1935年の臨時講演会で激しく対立し、会場の黒板にA・B・Cの判定記号を書き合う騒ぎとなったという。記録写真は残るが、当日の演題と発言要旨は食い違いが多い。
終焉と再評価[編集]
戦後の文書自由化[編集]
、は「文書は内容の真偽によってのみ扱うべきで、句点の数によって真偽を推量してはならない」とする通達を出し、真の文セは公的には廃止されたとされる。だが実際には、役所の決裁欄で「文セ確認済」の朱印が頃まで散発的に見られたという報告があり、制度は完全には死ななかった。
さらに、地方の印刷所では文セの判定票が紙片として再利用され、見本帳のしおりや帳簿の下敷きになった。これが古書市場で「文セ票」として高値で取引されるようになり、の一部の店では1枚780円で売られていたという。
現代の受容[編集]
現在では、真の文セは実在した制度というより、近代日本の校閲文化を象徴する半ば寓話的な事例として扱われている。もっとも、の一部では、今も「文セ判定表」を復元し、町内会の回覧文に適用する実験が行われているとされる。
また、による文章生成の普及以後は、「もっともらしいが真ではない文」を見抜くメタファーとして再注目され、校閲業界では「文セ耐性」という言い回しが俗語化した。なお、2021年にで行われたとされる公開講座では、参加者87名中19名が「現代のSNSこそ文セの最大の後継」と回答したが、調査票の設計はかなり雑であったと記録されている[7]。
脚注[編集]
[1] 高瀬文治郎『文真概論序説』文雅堂、1902年。 [2] 文部省編『作文採点と真偽判定の手引』大日本図書局、1898年。 [3] 佐伯良太「神田校閲圏における文セ師の口承」『近代文体史研究』Vol. 14, No. 2, 1979年, pp. 88-104. [4] 内務省臨時調査局『報告文書の語尾分布に関する覚書』1910年。 [5] 警視庁文書課『報告文体整序要綱』非売品、1924年。 [6] 松井香織「1930年代における文セ乱用事件の一考察」『校閲学雑誌』第8巻第1号, 2001年, pp. 11-29. [7] 国立国語研究所公開講座記録編集委員会『AI時代の真の文セ』2021年、pp. 3-17.
関連項目[編集]
脚注
- ^ 高瀬文治郎『文真概論序説』文雅堂, 1902.
- ^ 文部省編『作文採点と真偽判定の手引』大日本図書局, 1898.
- ^ 佐伯良太「神田校閲圏における文セ師の口承」『近代文体史研究』Vol. 14, No. 2, 1979, pp. 88-104.
- ^ 内務省臨時調査局『報告文書の語尾分布に関する覚書』, 1910.
- ^ 警視庁文書課『報告文体整序要綱』, 1924.
- ^ 松井香織「1930年代における文セ乱用事件の一考察」『校閲学雑誌』第8巻第1号, 2001, pp. 11-29.
- ^ 山根志郎『文の真偽と国家』有楽社, 1937.
- ^ Elizabeth K. Harlow, "The Administrative Syntax of Truth in Early Modern Japan," Journal of Comparative Scribal Studies, Vol. 6, No. 4, 1988, pp. 201-229.
- ^ 田村静子「句点過剰と判定疲労」『日本文法史年報』第12巻第3号, 1964, pp. 55-71.
- ^ M. A. Thornton, "Punctuation as Proof: On the Shin no Bunse System," East Asian Philology Review, Vol. 2, No. 1, 1971, pp. 9-33.
- ^ 『真の文セ判定表全集』中央校閲協会, 1956.
- ^ 石黒二三『文セ師の夜明け』北斗書房, 1949.
外部リンク
- 中央校閲協会資料室
- 神田文体史アーカイブ
- 近代文書判定研究センター
- 全国句点保存会
- 文セ票デジタル博物館