秘密結社パイズリ
| 正式名称 | 秘密結社パイズリ |
|---|---|
| 別称 | P団、曲線会、胸環同盟 |
| 成立 | 1928年ごろと推定 |
| 創設地 | 東京都下谷区の貸座敷街 |
| 目的 | 意匠研究、相互扶助、試作具の交換 |
| 主要拠点 | 浅草、横浜港周辺、神戸の洋裁学校 |
| 機関紙 | 『曲線通信』 |
| 会員数 | 最盛期で約1,200人 |
| 公的扱い | 1948年に実質消滅 |
秘密結社パイズリ(ひみつけっしゃパイズリ)は、ので成立したとされる、胸部支持具の意匠研究と会員相互扶助を目的とする非公然団体である。戦前のの下町文化と末期の技術趣味が混交して生まれたとされ、のちにやにも支部が置かれたという[1]。
概要[編集]
秘密結社パイズリは、胸部を支える器具や衣服の設計を研究するの地下的友愛団体として知られている。名称の由来については諸説あり、インドの織物技法に由来するという説、あるいはの職人が「パイプ状の締結具」を略して呼んだという説がある[2]。
会員は主に洋裁師、舞台衣装係、医療用具商、そして少数の美術学校生で構成され、毎月第2土曜にとのあいだで移動集会を行ったとされる。集会では骨組みの角度、布の伸縮率、着用時の心理的安定性などが議論されたが、記録の多くは会員の匿名性を保つため暗号化されており、研究者のあいだでは「ほぼ読めない手記」として有名である。
なお、後年に流布した俗説では単なる奇抜な秘密結社として語られることが多いが、実際には女性服飾史と都市消費文化の狭間で成立した、きわめて実務的な互助ネットワークであったとする見方がある。もっとも、会員名簿に「第7支部・試着係・3名」とだけ記されたページが残っており、これが何を意味するかは今も不明である。
歴史[編集]
創設期[編集]
創設は、の仕立屋・が、舞台女優のための補助具設計会を開いたことに始まるとされる。河合はの衣装主任であった、医療具商のらと接触し、既製服の普及に伴う「体型差の吸収不能」を問題視したという[3]。
初期の会合は、浅草の小料理屋二階にて行われ、壁に掛けた銭湯の脱衣籠を転用して試作具を並べた記録が残る。ここで「パイズリ式三点支持」「可変張力帯」「礼装下でも鳴らない留め具」などの案が出され、後に結社名の一部となった「パイ」も、この時期の試作品番号P-3に由来するとされる。
拡大と分派[編集]
ごろには、会員数は推定470人に達し、の輸入商人やの舞台興行関係者を通じて全国へ広がった。特にでは、和装と洋装の折衷を重視する「浪花曲線派」が分派し、結社本部とのあいだで「肩紐の幅を何分にすべきか」をめぐる論争が起きた[4]。
一方、では工業高校の製図部が秘密裏に協力し、金属骨の規格化を進めた。これにより、会員の間では「ひとりで装着できる型」と「他者の補助を要する型」が明確に区別され、団体内部での階級意識が生じたことが、後年の批判の一因となった。
戦時下と終戦後[編集]
以降、資材統制の影響で綿布と薄鋼板の入手が難しくなり、会は公然活動を停止したとされる。ただし、の外郭に見せかけた「生活改善研究会」に紛れ、会員が試作を継続していたという証言もある[5]。
の空襲での記録庫が焼失したため、戦前資料の多くは失われたが、焼け残った鉄箱から「昭和20年7月、着装実験 14回目、被験者3名、笑い2回」という奇妙な記録が発見された。戦後はの裏口講習として再編されたが、に会員の高齢化とGHQの民間団体整理により、実質的に活動を終えたとされる。
組織と活動[編集]
秘密結社パイズリの組織構造は、一般の秘密結社に見られる中央集権型ではなく、支部ごとに素材・裁断・試着・記録の各班を分ける職能分業制であった。最上位は「総紐長」と呼ばれ、これは年1回の選挙で互選されたが、候補者が全員辞退したため、実際には前任者が翌年も続投する慣例が固定化していた。
活動の中心は、月例の「曲線評議会」と年2回の「試着式」である。前者ではの踏み圧、布地の摩耗、肩の可動域などが数値で比較され、後者では会員が外套の下に試作具を装着したままからまで徒歩移動し、疲労度を自己申告する方式が取られた。最長記録はの「2時間14分無言行進」とされる。
また、会は独自の互助制度を持ち、出産、転職、離婚、舞台降板など生活の節目に合わせて会費を減免した。会員章には小さな房飾りが付けられ、互いの会員番号を見分けるためにわざと左右非対称に縫われていたという。
思想と用語[編集]
会の思想は、単なる衣服改良を超え、「身体は固定されるものではなく、都市生活に合わせて交渉されるべきである」という実用主義に基づいていた。これを会内では「可塑的礼節」と呼び、礼儀と機能を両立させることが理想とされた。
代表的な用語としては、「曲面保全」「鳴り止め」「肩線の外交」などがある。特に「肩線の外交」は、相手に気づかれず装着感を改善するための縫製上の折衝を意味し、支部では「袖下会談」とも呼ばれた。また、会員の間では、布の張りを測る単位として独自の「1パイ」を用いていたが、これは実際には標準化されておらず、支部ごとに0.8〜1.3倍の幅があったとみられる[6]。
こうした術語は、戦後の服飾評論家によって半ば学術化され、の著作『都市下着論』において「半地下的身体工学」として再定義された。しかし、会員の多くは学術化を嫌い、最後まで「わたしたちはただ、ずれないようにしたかっただけだ」と述べたという。
社会的影響[編集]
秘密結社パイズリは、表向きの会員数こそ多くなかったものの、戦前・戦後の日本における女性衣料の実務標準に少なからず影響を与えたとされる。特にの試着室配置、和装補助具の留め具、舞台衣装の内側補強などは、会の試作が下敷きになったとの指摘がある。
また、の洋裁ブームの際、結社の残党が地方の手芸サークルに紛れ込んだことで、「体に合わせる裁縫」という考え方が普及した。これにより、地方の裁縫学校では「型紙は命令ではなく交渉文書である」と教えられるようになったという。もっとも、この表現はのちにの指導で削除された。
一方で、団体の排他性や儀礼性を問題視する声もあった。特定の素材を扱える者だけが昇格できる制度や、試作に失敗した会員に「一週間、房飾りを右手で触れてはならない」とする罰則は、現代の視点ではやや奇妙であり、女性団体史の研究者からは「擬似宗教的である」との評価もある。
批判と論争[編集]
秘密結社パイズリをめぐっては、長らく「実在したのか」という根本的な論争が続いている。戦後にで見つかった会報の断片は、紙質や印刷法から本物とみられているが、同一紙片に「会員募集・月会費12銭・雨天中止」の記載があり、これが当時の地下団体として自然なのか疑問を呈する研究者もいる[7]。
また、の夕刊に掲載された小文では、元会員を名乗る人物が「会議の半分は裁断台の高さ調整だった」と証言した一方、別の人物は「そもそも会の本体は歌と酒で、衣装研究は建前であった」と述べている。こうした証言の食い違いは、結社が高度に分裂していたことを示すと同時に、後年の創作が混入した可能性も示唆している。
なお、にで開かれた小展示では、来場者の一部が「自宅の押し入れにも似た器具があった」と証言し、予想外の反響を呼んだ。ただし、その器具が本当に結社由来かは不明である。
脚注[編集]
関連項目[編集]
脚注
- ^ 河合玲二『曲線と礼節――昭和初期の補助具文化』東都書房, 1958.
- ^ 松浦とき『試着室の政治学』日本服飾協会出版部, 1964.
- ^ 竹見孝一『支持帯の近代史』中央医療器械研究所, 1939.
- ^ 久保田ミキ『都市下着論』青磁社, 1957.
- ^ Y. Sato, “The Hidden Seam: Urban Undergarment Societies in Prewar Japan,” Journal of Material Culture Studies, Vol. 12, No. 3, 1989, pp. 211-239.
- ^ Margaret A. Thornton, “Nonpublic Tailoring Networks of East Asia,” Textile Anthropology Review, Vol. 8, Issue 1, 1976, pp. 44-68.
- ^ 『秘密結社パイズリ会報断片集』国立国会図書館古資料叢書, 第4巻第2号, 1972.
- ^ 河内須美子『日本の裏方文化とその服装学的転回』港湾出版社, 1983.
- ^ T. Watanabe, “On the Acoustics of Fasteners,” Proceedings of the Imperial Dress Institute, Vol. 3, No. 2, 1937, pp. 9-17.
- ^ 『昭和衣装機構の謎――房飾りと会員制』東京民俗学会紀要, 第19巻第1号, 1995.
外部リンク
- 嘘ペディア服飾史研究会
- 国立架空資料館デジタルアーカイブ
- 東京下町非公認文化年表
- 横浜港秘密結社調査ノート
- 昭和怪団体資料室