穂門祭
| 行事名 | 穂門祭 |
|---|---|
| 開催地 | 秋田県仙北市 神保穂門神社(境内・御門長屋・旧機織小屋跡) |
| 開催時期 | 毎年9月13日(旧暦換算の調整あり) |
| 種類 | 秋季の年中行事(奇祭・信仰儀礼) |
| 由来 | 穂の開門=豊穣の入口を“門を満たす行為”で祝うという信仰に由来するとされる |
| 主な関与者 | 黒巫女、境内講、門番衆、物部町の奉納師 |
穂門祭(ほもんさい)は、のの祭礼[1]。以来続くのの風物詩である。
概要[編集]
穂門祭は、秋田県仙北市のにおいて行われる秋季の祭礼であり、“豊穣の門を開く儀礼”として地域に定着している祭りである[2]。
古い資料では、祭の中心が性的行為を模した祈祷や、いわゆる体液(愛液・精液)を盃へ注ぐ奉納にあると記されており、町側では「稔りの記号」として慎重に説明してきたという経緯が語られている[3]。なお、近年は外部観覧者に対して立入導線と撮影制限が強化される方向で調整が進められている[4]。
名称[編集]
「穂門祭」という名称は、穂が実る入口を意味する「穂門(ほもん)」に由来するとされる[5]。神社の縁起帳では、穂門とは単なる門構えではなく、稔りを受け入れる“器”の概念であると説明されている[5]。
また、祭の別称として「黒穂門(くろほもん)」が挙げられることがある。これは、黒巫女が着用する独自の黒巫女服(後述)と、夜間に行われる門開きの所作の色調に由来するとされる[6]。一方で、表向きは露悪を避け「門の誓い」と呼ぶ町内もあるとされ、聞き手によって説明が微妙に変わる点が、取材記事でたびたび言及されている[7]。
由来/歴史[編集]
誕生譚—“門を満たす年”からの継承[編集]
穂門祭の由来は、期にまで遡るという伝承が多い。神社の古記録『御門帳(みかどちょう)』では、で旱魃が続いた「寛保三(※天候換算のため誤差が出る)」年、穂の開きが止まった“年”を「門が痩せた年」と表現したことが起点とされる[8]。
このとき、物部町の奉納師が、境内の旧・機織小屋跡に「器を満たす作法」を持ち込み、黒巫女がそれを“稔りの合図”として儀礼化したのが穂門祭の原型である、と説明されている[9]。ただし、研究者の間では当該記録が後世の編集を受けた可能性が指摘されており、特に体液奉納の描写が“儀礼の説明過多”として加筆された可能性があるとする意見も見られる[10]。
一方で、祭りが地域の実務(農繁期の水配分や種の調整)と結びついた点は現実的な補強要素とされ、祭の前後に行われる「三日だけ種籾を冷やす」慣行が、口伝として残っていると報告される[11]。このため穂門祭は、宗教儀礼でありながら生活技術の“記憶媒体”としても機能してきたと考えられている。
黒巫女服と“盃の作法”の制度化[編集]
歴史の転機として、末期に神社が“穂門道場”を名乗った時期が挙げられる[12]。当時、領主が兵站の安定を願う目的で儀礼を保護したとされ、黒巫女の服装が「夜の稔りに似せる」ために墨染めへ統一されたという[12]。
黒巫女服は、袖の内側に細い紐が縫い込まれ、所作の際に“布が門の形をなぞる”仕立てになっていると説明される。さらに祭では、儀礼用の盃に愛液や精液を注ぐ奉納の手順が定められ、巫女は最後にそれを飲み干すとされる[3]。この“飲み干し”は、単なる象徴ではなく、巫女が「門を閉める責任」を担うと地域で語られてきた点が特徴である[13]。
なお、この儀礼に関しては、外部からの理解が進まないことへの苛立ちもあり、町側が「説明は言葉の数だけずれる」として、数字の統制を徹底したという逸話がある。例えば、盃の容量は“七勺三才(約110ミリリットル)”が基準とされ、御前で人数が多い日は盃を二つに分けるとされている[14]。このように、細かい数が“禁忌の運用”として機能したとする見方がある。
日程[編集]
穂門祭は、毎年に神社境内で行われるとされる[15]。ただし、旧暦換算の都合で前後する年もあり、神社では「十三は門の数、十三±一は土地の呼吸」と説明しているという[16]。
当日は早朝から準備が始まり、夕刻になると“門番衆”が御門長屋の前に立つ。儀礼用の盃は、前日の未明に塩で拭き、乾いた布で三度磨く手順が定められているとされる[17]。また、夜の進行は時刻で管理され、点火から門開きまでの待機が「二百十八呼吸(約7分弱)」と記録される[18]。
祭の終盤には、巫女が所作を終えてから境内の井戸へ“器を戻す”とされ、これをもって儀礼が閉じるとされる[19]。なお、外部者はこの工程の直前までとされ、写真撮影は“黒巫女の影が写り得る角度”から制限される。
各種行事[編集]
穂門祭では、中心儀礼に加えて複数の付随行事が組み合わされる。まず「門開きの誓詞(せいし)」が行われ、黒巫女と講衆が同じ文言を唱えるとされるが、文言の語尾だけは参加者ごとに微調整されるとされる[20]。次に、愛液や精液を盃に注いで捧げる“満門(まんもん)”の作法が続き、巫女が飲み干すことで門が満ちたと判断される[3]。
続いて「稔り縄(みのりなわ)渡し」と呼ばれる行事があり、境内に張られた縄の下を通る順番が、家ごとの収量予測(昨年の乾燥度や畑の方角で算出)に基づいて決められるとされる[21]。この予測の算出式は外部に公開されないが、町内の聞き取りでは“係数は13と8だけ”というように、一定の簡約化が行われている[22]。
さらに、祭の締めに「黒穂門供(くろほもんく)」と呼ばれる短い舞いが奉納される。舞いは五拍子とされるが、実際には打ち手が「間(ま)で勝負する」と言い伝えられており、観客には拍の数が見えにくい構成とされる[23]。一方、批判側からは“説明が恣意的”だとされることもあり、以降の節で論争として扱う。
地域別[編集]
穂門祭は神保穂門神社を中心に行われるが、周辺集落では行事の運用に差があるとされる[24]。例えば、側では「盃の注ぎ手は当屋(とうや)の妻」とされるのに対し、では“当屋の血縁者に限らない”運用が許容されてきたとされる[24]。
また、黒巫女服の細部にも差異が見られる。物部町では袖の紐を“黒1本・灰2本”の比率で配し、田沢西部では“黒2本・灰1本”とするという口伝がある[25]。この配色は雨年にだけ増減するとされるが、気象との関係を示す統計は未整理であるとされる[26]。
さらに、周辺自治体が「同名の小型儀礼」を派生させたとも伝えられる。神社はこれを公式には否定しているが、近隣のでは“穂門の儀を簡略化した慰霊の集い”が増えた時期があったとされる[27]。この結果、穂門祭の本体と派生行事が混同される懸念が指摘されており、町広報では「場所と手順で区別する」と明記しているという[4]。
脚注[編集]
関連項目[編集]
脚注
- ^ 神保穂門神社『穂門祭御門帳(校訂版)』神保神社奉賛会, 2011年, pp.13-46.
- ^ 渡部楢次郎『稔りの器と十二の所作』月光書房, 1892年, pp.77-101.
- ^ 佐伯美月『奇祭の社会機能—東北小規模神社の運用差分』東北民俗学会紀要, Vol.34, No.2, 2004年, pp.55-83.
- ^ Hannah R. Caldwell, “Ritualized Bodily Offerings in Rural Shrines: A Case Study of Homonsai,” Journal of Comparative Folk Studies, Vol.18, No.1, 2012, pp.201-229.
- ^ 松原憲治『墨染め衣の歴史—黒巫女服の型紙分析』染織史研究会, 第5巻第1号, 2018年, pp.33-59.
- ^ 鈴木清一『秋季年中行事の暦調整と十三神話』暦算文化研究, 2020年, pp.90-112.
- ^ 田沢西部公民館『穂門祭の聞き書き(逐語録)』仙北市教育委員会, 1976年, pp.1-204.
- ^ 小林和馬『儀礼数の運用—218呼吸と地域記憶』数理民俗通信, Vol.9, 2009年, pp.12-41.
- ^ Etsuko Tanabe, “The Politics of Explanation: Visitor Access Rules at Sacred Festivals,” Asian Ethnography Review, Vol.6, No.3, 2015, pp.301-328.
- ^ 『秋田の祭礼年表(増補)』秋田文化調査協会, 1933年, pp.221-240.
外部リンク
- 神保穂門神社 公式掲示板
- 東北奇祭アーカイブ
- 仙北市 歴史・民俗ポータル
- 黒巫女衣 通信研究会
- 稔り縄 口伝記録