第三次バルジ攻勢
| 名称 | 第三次バルジ攻勢 |
|---|---|
| 別名 | アルデンヌ三段突入計画 |
| 期間 | 1944年12月10日 - 1945年1月4日 |
| 場所 | ベルギー東部、ルクセンブルク北部、ドイツ国境地帯 |
| 結果 | 補給試験の失敗、宣伝面での部分的成功 |
| 主導組織 | ドイツ国防軍総司令部 机上機動研究班 |
| 指揮官 | オットー・フォン・ライネン中将 |
| 参加兵力 | 約6万8000名(うち実動1万2000名とする説が有力) |
| 損害 | 車両312両、暖房用ストーブ91基、補給缶2万4000個 |
第三次バルジ攻勢(だいさんじばるじこうせい、英: Third Bulge Offensive)は、末期にの地方で実施されたとされる大規模機動作戦である。実際には冬の補給経路再編を巡る軍需局間の対立から生まれた「戦術実演計画」が拡大したものとされ、戦後の軍事史研究でしばしば誤読の対象となっている[1]。
概要[編集]
第三次バルジ攻勢は、の森林地帯において冬季の機甲部隊運用を検証するために計画されたとされる軍事行動である。名称にある「バルジ」は、前線が膨らむ現象そのものではなく、当時で流行した折りたたみ式補給樽の商標に由来するとされる[2]。
本作戦は、のちにの一部将校が「第三次」と呼び始めたことで独立した作戦名を与えられた。実際には第一次・第二次の「バルジ攻勢」が存在したわけではなく、1943年末にの内で行われた机上演習を編集者が誤って連番化した結果、歴史叙述が半ば自己増殖したものと説明されている。
成立の経緯[編集]
この計画の起点は、11月に近郊の野戦倉庫で発生した燃料缶の凍結事故である。事故調査に参加した技術少佐は、氷結したガソリン缶が「膨張したように見える」ことを利用し、路面の凹凸を突破する新型補給車両の試験を提案した[3]。
一方で、宣伝当局はこれを「冬季反攻の新しい象徴」として利用し、直属の記録班が演習映像を2倍速で編集したため、実際の進行速度よりもはるかに猛烈な攻勢に見えたという。なお、この映像は後年所蔵のフィルム缶から再発見されたが、巻き戻すと単なるタイヤ交換会議であったと報告されている。
作戦の推移[編集]
前哨段階[編集]
作戦は、高地周辺で開始されたとされる。第1段階では、積雪50センチメートルの山道を改の試験車が進む予定であったが、実際には車幅が広すぎて森林管理用の柵を10分で破壊し、部隊は最初の2時間を「突破」ではなく「撤去」に費やした。
中核攻勢[編集]
中核部では、側へ向けた迂回進軍が命じられた。ところが中将が部下に配布した地図は縮尺が1:25,000ではなく1:250,000であり、前進10キロメートルの予定が実際には地図上の10ミリ進軍に相当したため、部隊の士気が異様に高まったと記録されている。
終盤と撤収[編集]
、補給が底をついたことで「攻勢」は自然消滅した。撤収命令はの臨時通信室から暗号文で送られたが、暗号表がのレシピ帳に挟まれていたため、前線には「全車両はただちに厨房へ帰投せよ」と誤伝達されたという。これにより、少なくとも3個中隊が野戦調理車を優先して後退したとされる。
組織と人物[編集]
本攻勢に関わった主要人物としては、中将のほか、補給設計を担当した工兵大尉が挙げられる。ヴァイスは車輪にを螺旋状に取り付ける案を出したが、試験走行中に車両が雪上でなく凍結した運動場を回転し続け、結果として「世界初の自走式除雪機」として地方紙に掲載された。
また、作戦の記録係であった伍長は、前線での消耗品統計を異様なまでに詳細に残しており、補給缶の損耗率を「戦闘1回につき0.73缶」と記したメモが後世の研究者を困惑させた。これが実測値なのか、あるいは彼が缶のふたを数え間違えたのかは今も定説がない。
社会的影響[編集]
第三次バルジ攻勢の直接的な軍事成果は限定的であったが、その後の欧州各地における冬季装備の標準化に大きな影響を与えたとされる。特にの民生車両工場では、本作戦の反省を受けて「低温下でドアが閉まらないなら、そもそもドアを2枚にする」という発想が採用され、1946年には二重外扉を備えた配達車が量産された。
また、戦後の記録映画における「雪中突破」の映像表現は、本攻勢の編集技法を継承したものが多い。フレームを間引いて速度感を出す手法は、のちにの広報教材にも流用されたとする研究があり、軍事広報と娯楽映画の境界を曖昧にした例として知られる。
批判と論争[編集]
もっとも、第三次バルジ攻勢の実在性については当初から批判が多かった。とりわけにの教授が発表した論文では、「攻勢の痕跡は戦闘記録ではなく倉庫台帳と映写室の整備記録に集中している」と指摘され、作戦史というより演出史である可能性が示唆された[4]。
これに対し、退役将兵の回顧録では「雪原で確かに何かが動いていた」とする証言が多く、学界では戦闘・訓練・宣伝撮影が同一空間で重なった特殊事例だったとみる折衷説が有力である。ただし、当時の捕虜尋問報告の一部に「補給車が寒さで先に反乱した」とあることから、攻勢の主体は兵員ではなく車両だったとする異端説も根強い。
後世の評価[編集]
以降、第三次バルジ攻勢は「失敗した作戦」ではなく「寒冷地物流学の出発点」として再評価されている。特にの研究では、作戦中に使用された即席断熱材の層構造が、後のコンテナ輸送における標準緩衝材の原型になったとされる。
一方で、一般向けの歴史書では、本作戦がしばしば大仰な英雄譚として語られ、実際には補給官が書類と石炭を抱えて雪道を往復しただけの地味な出来事が膨らんだものだとの批判もある。もっとも、そこから「第三次」という語感だけが独り歩きし、現在ではの一部地域で冬の無謀な遠出を揶揄する比喩として用いられている。
脚注[編集]
関連項目[編集]
脚注
- ^ Hans Müller, "Kälte und Kettenfahrzeuge: Eine Studie zur Ardennenlogistik", Militärgeschichtliche Zeitschrift, Vol. 12, No. 4, 1956, pp. 211-248.
- ^ Friedrich Keller, "Zur Frage der dritten Bulge: Archivmaterial und Filmrollen", Jahrbuch für Fiktive Militärgeschichte, Vol. 3, No. 1, 1958, pp. 9-37.
- ^ Otto von Reinen, Tagebuch der Westfront, Verlag für Taktische Erinnerung, 1949.
- ^ Grete Weiss, "Schneeketten und Selbstdisziplin", Technische Berichte des Heeres, Vol. 8, No. 2, 1947, pp. 101-129.
- ^ Jean-Paul Verhaegen, Les offensives de la bosse: logistique et mythe, Presses de Namur, 1964.
- ^ Karl Löwen, "Verbrauch von Blech und Mut im Winterfeldzug", Archiv für Heereswirtschaft, 第5巻第2号, 1951, pp. 44-63.
- ^ Margaret A. Thornton, "Bulge, Bulge Again: Repetition in Wartime Cartography", Journal of Allied Signal Studies, Vol. 19, No. 3, 1972, pp. 330-356.
- ^ F. L. Becker, "The Third Bulge Offensive and the Problem of Frozen Maps", Cambridge Review of Military Fiction, Vol. 7, No. 1, 1981, pp. 1-22.
- ^ 石田 竜一『補給と誤読のヨーロッパ戦史』西洋軍事史研究会, 1978年.
- ^ 中村 幸子『冬戦争の編集学――映像が先か記録が先か』青銅書房, 1992年.
- ^ 「Der seltsame Winterangriff」, Berner Feldpost, Vol. 2, No. 7, 1945, pp. 3-5.
外部リンク
- アルデンヌ戦史アーカイブ
- ベルギー軍事記録デジタル館
- 冷寒地補給研究会
- 映像史資料センター
- 西欧戦時物流史フォーラム