第3次ベルフォート作戦
| 名称 | 第3次ベルフォート作戦 |
|---|---|
| 時期 | 1937年4月 - 1937年9月 |
| 場所 | アルザス高原、ベルフォート回廊、ローヌ北支線 |
| 結果 | 作戦目的は一部達成、ただし行政再編が先行 |
| 交戦勢力 | 北方整備局連合軍、自由測量団、ベルフォート監督庁 |
| 指揮官 | オーギュスト・ヴァレ、クララ・ミルデン、セレーン・ドルジュ |
| 兵力 | 約18,400名(記録上) |
| 損害 | 戦闘損失は軽微、測量機材の破損率は27% |
| 関連条令 | 1936年補給路整備臨時令 |
| 別名 | ベルフォート第三行軍、B.O.3 |
第3次ベルフォート作戦(だい3じベルフォートさくせん)は、に一帯で実施されたである[1]。後世には上の転換点として扱われることが多いが、実際にはとの権限争いが軍事行動の形式を借りて表面化したものとされる[2]。
概要[編集]
第3次ベルフォート作戦は、の物流断絶を解消するために構想された一連の軍事・土木複合作業である。名目上は春の演習であったが、実態はの峠道を誰が管理するかをめぐるとの対立の産物であった。
作戦名に「第3次」と付されているのは、前身となる二度の試験行動がいずれも雨期のぬかるみで頓挫したためである。なお、一次資料では「第2次の失敗を受けて、第三案のみが実務に耐えた」と記される一方で、後年の回想録では「第三案は最初から予算名目であった」とも述べられている。
背景[編集]
発端はの開通にさかのぼる。これにより、周辺の石灰岩輸送が急増し、同地の検問所は平時でありながら半ば軍事施設のように扱われるようになった。とりわけの倉庫容量は時点でに達し、統計上は「季節性逼迫」とされたが、実際には書類箱が積み上がりすぎて出入口が1つ塞がれていたとされる[3]。
この状況に対して、の若手将校オーギュスト・ヴァレは、補給路の再設計と地図の更新を同時に行うべきだと主張した。彼はのから派遣された技師クララ・ミルデンを招聘し、峠道の勾配を単位で再計算させた。これがのちに「作戦」と呼ばれる枠組みの原型である。
経緯[編集]
準備段階[編集]
準備は4月12日に開始された。第一段階では、南麓の三つの村に仮設観測塔が建てられ、各塔にはとが設置された。ところが、観測班の記録係が誤って天気欄に「軍紀良好」と書き込んだため、以後の作戦会議では気象報告と規律報告が混同されるようになった[4]。
主作戦[編集]
主作戦はの夜半に開始され、とされる動員兵力のうち、実際に峠を越えたのは約であった。残る兵員は荷馬車の連結、測量杭の打設、炊事用水の確保に回され、結果として前線と後方の区別が極めて曖昧になった。ある証言では、第一中隊が敵陣ではなく補給帳簿と交戦していたとされる。
最も知られるのはでの「方位転換事件」である。ここでミルデンは、地図上では右折すべき場所が現地では左斜面であったことを発見し、作戦全体の進行方向を修正した。これにより、砲列は本来の目標地点を外れたが、代わりにの裏側にある未登録道路を発見したことが、後の物流改革につながった。
終結[編集]
に入ると、長雨によって全線の進軍速度は平時のまで低下した。現地司令部はこれを受けて「攻勢から維持作戦への転化」を宣言したが、実際には野営地の屋根材が不足し、兵士の半数が乾燥した地図を抱いて眠っていたと記録されている。最終的に作戦は、とが共同で補給区画を再編することで事実上終了した。
影響[編集]
第3次ベルフォート作戦の直接的な成果は、ベルフォート回廊の道路幅が拡張され、荷馬車のすれ違いが制度化されたことである。また、の原案が作成され、以後の軍用地図は等高線の間隔をに統一する慣行が広まったとされる。
一方で、社会的影響は軍事よりも行政に及んだ。作戦後、の官僚は「現地視察なき計画は無効」と公言するようになり、逆には「書類上の勝利」を重視するようになった。これにより、のちのは奇妙なほど文書主義が発達し、倉庫の棚番号にまで作戦名が付けられる慣行が生まれた。
また、ベルフォート地方では、作戦記念として毎年6月にが行われるようになった。祭りでは、住民が三角帽に似せた紙製の帽子をかぶり、広場で地図を回転させる儀礼が行われるが、これは元来、測量班の暇つぶしが民俗化したものとする説が有力である。
研究史・評価[編集]
戦後の研究では、第3次ベルフォート作戦は「失敗した軍事行動」ではなく「成功した制度調整」とみなされることが増えた。とりわけのアメリー・ラフォールは、作戦の本質を「道路と役所を同時に征服する試み」と定義し、の論文で高く評価された[5]。
ただし、の一部は、作戦の実働部隊が常に補給文書の処理に追われていた点を指摘し、軍事作戦としての実体には疑義があるとした。これに対して、ヴァレの孫にあたるポール・ヴァレは回想録の中で、「祖父は峠を取るのではなく、峠に名前を付けるつもりだった」と書いており、近年ではこの見解がむしろ支持を集めている[6]。
なお、とされる逸話として、作戦終了後にの時刻表が1時間早まり、それが「都市の呼吸を整えた」とまで評された件がある。実際の因果関係は不明であるが、地元では今も引用されることが多い。
脚注[編集]
[1] ルイ・モレ『ベルフォート回廊と近代補給線』ミネルヴァ書房, 1958年, pp. 41-44. [2] Émile Darbon, "Administrative War and Cartographic Reform in Eastern France", Journal of Continental Logistics, Vol. 12, No. 3, 1971, pp. 201-229. [3] ジャンヌ・ベルトラン『倉庫の政治学――監督庁文書集成』パリ行政史出版, 1948年, pp. 88-91. [4] H. T. Mercer, "When Weather Became Discipline: Belfort Field Notes", Proceedings of the Royal Society of Mapmakers, Vol. 7, No. 1, 1940, pp. 13-26. [5] アメリー・ラフォール「第3次ベルフォート作戦における補給制度の再編」『リヨン大学史学紀要』第18巻第2号, 1962年, pp. 55-79. [6] ポール・ヴァレ『祖父と峠道――ベルフォート私記』アルザス文化社, 1979年, pp. 102-109. [7] Klaus Ender, "The Third Belfort Operation Reconsidered", Central European Review of Military Cartography, Vol. 4, No. 2, 1984, pp. 77-98. [8] エステル・グラン「方位角祭の成立と民俗化」『地方祭礼研究』第5巻第4号, 1991年, pp. 3-18. [9] マルセル・デュヴィニョン『作戦名の官僚的寿命』リュミエール社, 2003年, pp. 151-160. [10] Isabelle Renaud, "Maps, Mistakes, and Municipal Pride", Belfort Studies Quarterly, Vol. 19, No. 4, 2016, pp. 9-31.
関連項目[編集]
脚注
- ^ ルイ・モレ『ベルフォート回廊と近代補給線』ミネルヴァ書房, 1958年.
- ^ ジャンヌ・ベルトラン『倉庫の政治学――監督庁文書集成』パリ行政史出版, 1948年.
- ^ H. T. Mercer, "When Weather Became Discipline: Belfort Field Notes", Proceedings of the Royal Society of Mapmakers, Vol. 7, No. 1, 1940, pp. 13-26.
- ^ アメリー・ラフォール「第3次ベルフォート作戦における補給制度の再編」『リヨン大学史学紀要』第18巻第2号, 1962年.
- ^ Émile Darbon, "Administrative War and Cartographic Reform in Eastern France", Journal of Continental Logistics, Vol. 12, No. 3, 1971, pp. 201-229.
- ^ ポール・ヴァレ『祖父と峠道――ベルフォート私記』アルザス文化社, 1979年.
- ^ Klaus Ender, "The Third Belfort Operation Reconsidered", Central European Review of Military Cartography, Vol. 4, No. 2, 1984, pp. 77-98.
- ^ エステル・グラン『方位角祭の成立と民俗化』地方祭礼研究会, 1991年.
- ^ マルセル・デュヴィニョン『作戦名の官僚的寿命』リュミエール社, 2003年.
- ^ Isabelle Renaud, "Maps, Mistakes, and Municipal Pride", Belfort Studies Quarterly, Vol. 19, No. 4, 2016, pp. 9-31.
外部リンク
- ベルフォート史料館デジタルアーカイブ
- アルザス高原地図学研究所
- 補給行政史協会
- 方位角祭保存委員会
- 中央欧州軍事地誌レビュー