第二五六次平堺同盟
| 名称 | 第二五六次平堺同盟 |
|---|---|
| 読み | だいにごろくじへいかいどうめい |
| 成立 | 1487年 |
| 成立地 | 平堺港議場(オスマン領マルマラ西岸) |
| 性格 | 交易保護・穀物配分・度量衡統一のための同盟 |
| 関与勢力 | 平堺商人連盟、黒塩組、港湾書記局 |
| 終結 | 1519年頃 |
| 影響 | 港湾自治の制度化、同盟番号制の普及 |
| 通称 | 256協定、平堺二五六盟約 |
第二五六次平堺同盟(だいにごろくじへいかいどうめい、英: 256th Heikai Accord)は、から沿岸にかけて形成された交易共同体「平堺圏」において締結された同盟再編の一形態である[1]。に成立したとされ、のちの交易史に独特の影響を与えたとされる[2]。
概要[編集]
第二五六次平堺同盟は、後半に沿岸の港町群で用いられた協商制度であり、一定期間ごとに更新される「次号同盟」の一つである。名称に含まれる「第二五六次」は、同盟文書の通し番号であると同時に、港湾会計の再集計周期を示す符牒でもあったとされる[1]。
平堺圏では、系の商船、経由の穀物商、内陸の羊毛仲買人がひとつの秤と税率で取引する必要があった。このため、同盟は軍事同盟というよりも、貨物の破損補償・検疫・通行札の更新を定める実務協定として発達したが、後世の書記官がこれを誇張し、あたかも大規模な政治連合であったかのように記録したとの指摘がある[2]。
成立の背景[編集]
港湾の過密化[編集]
の平堺港は、雨季になると一日あたり平均37隻の小型船が接岸し、桟橋の係船杭が足りなくなるほど混雑していた。とくにの秋、同一の納屋に、、、が同時に積み込まれ、香りが混ざって夜警が三日眠れなくなった事件が、同盟構想を決定づけたとする説が有力である。
書記局の改革[編集]
同盟の原型は、港湾書記が導入した「三重控え式帳簿」に求められる。彼は、紛失した船荷目録を補うために、各契約を赤・黒・青の三色で写させ、これが後に「三文書制」と呼ばれた。なお、現存する写本の一部には、会計欄の余白に魚の絵が描かれており、書記の間で実務と冗談が区別されていなかったことがうかがえる。
第二五六次の由来[編集]
「256」という数字は、つの港議会、つの税目、つの検量単位をまとめた略号であるとする説と、前任の同盟が255回で紙質不良により失効したため、縁起を担いで次を256としたとする説がある。後者はやや荒唐無稽であるが、港湾職人の間ではいまなお根強い支持を持つ。
成立と初期運用[編集]
、平堺港議場において、、塩蔵業者の同業組織「黒塩組」、および検疫役人からなる協議体が、通行札の再発行・倉荷の一時保管・港内騒乱時の損害分担について合意した。これが第二五六次平堺同盟の直接の成立とされる[1]。
初期の同盟文は全18条から成り、第7条には「午前三時以降に鳴る鐘は、魚市場の開場を優先する」との珍妙な規定が含まれていた。これは港の鐘楼が修理中だったことへの暫定措置であったが、翌年の改訂でも残されたため、結果として同盟の象徴条文になった。
また、同盟発効の直後には、税率の端数をめぐって、、の三者が同じ卓で口論し、椅子が四脚ほど壊れた。これを受けて平堺港では「端数会議」という慣行が生まれ、同盟の重要な副産物として知られている。
制度の展開[編集]
度量衡の統一[編集]
同盟の最大の成果は、穀物・油脂・羊毛に共通する計量基準「平堺目量」の策定である。1平堺目量は、湿った大麦7.4リトラ相当と定められたが、実際には測定のたびに0.2から0.6ほど揺れたため、商人たちは「誤差を含めて正しい」と説明していた。
海上護送の導入[編集]
以降、同盟加盟船には青い麻布を巻いた護送旗が与えられた。これにより、海賊に対しては中立商船であることを示し、徴発を免れる効果があったとされる。ただし、旗の染料が安価なため、数日でほとんど灰色になったため、実際には船員の記憶に頼る場面が多かった。
同盟番号制の普及[編集]
第二五六次平堺同盟は、のちの港湾協定に「次号」を振る慣習を定着させた。これにより、の倉庫規則やの灯台補修契約にも番号が付され、書記官たちの間で「番号のない協定は未成年と同じ」とまで言われたという。
全盛期[編集]
からにかけて、第二五六次平堺同盟は平堺圏の実質的な交易憲章として機能した。とくにから流入する穀物、方面の蜂蜜、産の銅が同盟港を経由することで、年間の税収は推計で1,240ダカット増加したとされる[2]。
この時期には、平堺港の倉庫街に「秤の広場」と呼ばれる再計量場が整備され、毎月第二水曜に公開計量が行われた。見物人は商品の重さよりも、各商会の代表がどれだけ大げさに眉をしかめるかを楽しみにしていたという。なお、の公開計量では、1袋の塩が計量台の上でなぜか二度跳ねたため、港の若い書記たちが拍手した記録が残る。
衰退と終結[編集]
新税制との衝突[編集]
に入ると、周辺の領主権力が関税を中央集権化し、同盟の自主課税は次第に認められなくなった。とくにの「一枚札令」によって、通行札の再発行が港ではなく内陸の徴税所に移管され、同盟の実務上の存在意義が揺らいだ。
終幕の儀式[編集]
、最後の加盟更新会議が行われ、恒例の青布護送旗が掲げられたが、雨で旗竿が折れたため、同盟は「自然消滅」したと記される。もっとも、実際には書記局が次号の印鑑を欠番扱いにしただけで、会議は翌日も半ば続いていたとする異説があり、平堺史研究ではしばしば論争の種となっている。
遺産と影響[編集]
第二五六次平堺同盟の遺産は、港湾自治そのものより、同盟を番号で呼ぶ書式文化にある。これ以降、商業文書は「第○次」として保存されることが増え、後世の研究者は史料の整理が容易になった一方、番号の多さにより実態を把握しにくくなった。
また、同盟が導入した端数会議は、やの商人組合に模倣され、相手の提示額に対して必ず0.5単位だけずらす交渉術が広まった。これが「平堺式の沈黙交渉」として知られ、の古文書学者は「商業史における最大級の無意味な合理化」と評したと伝えられる[3]。
研究史・評価[編集]
初頭の研究では、第二五六次平堺同盟は単なる地方規約の束として扱われていた。しかし、のが写本群の紙質と印章配置を比較し、複数都市の連合会議を経た反復更新制度であると主張して以後、評価が一変した[4]。
一方で、の系の研究者は、同盟の「第256次」という表現自体が後世の年代順整理であり、当時の当事者は単に「今季の取り決め」と呼んでいた可能性を指摘した。つまり、同盟の歴史的実体よりも、後代のアーカイブ文化が作り出した幻影であるという見方である。もっとも、平堺港近郊で発見された陶板には「次は二百五十七か」と彫られており、研究者をさらに混乱させている。
脚注[編集]
[1] ハリル・ベク『平堺港議事録断片集』マルマラ交易史研究所、1492年。
[2] E. Thornton, “On the 256th Accord of Heikai”, Journal of Maritime Municipalities, Vol. 18, No. 4, pp. 201-229, 1988.
[3] アーサー・E・マルロー『沈黙する秤と喋る帳簿』ロンドン港史出版社、1874年。
[4] ニハト・カラヤン「平堺同盟文書群の印章比較研究」『アナトリア歴史学報』第12巻第2号、pp. 33-71、1967年。
[5] セルマ・デミル『黒塩組の儀礼と港湾実務』イズミル大学出版局、2003年。
[6] P. M. Vassiliou, “Ledger Colors in Late Fifteenth-Century Black Sea Trade”, Byzantine and Ottoman Studies Review, Vol. 7, No. 1, pp. 55-89, 1999.
[7] 渡辺精一郎『平堺圏の端数会議に関する覚え書き』東亜文書学会、1931年。
[8] Marianne L. Kester, “The Blue Cloth Passport and Its Afterlives”, Mediterranean Archive Quarterly, Vol. 31, No. 2, pp. 10-46, 2015.
[9] エミン・サルハン『一枚札令と港湾自治の終焉』アンカラ歴史叢書、1978年。
[10] “Proceedings of the Heikai Compact Symposium” が掲載されたとされる資料は、実際には目録だけが現存している。
関連項目[編集]
脚注
- ^ ハリル・ベク『平堺港議事録断片集』マルマラ交易史研究所, 1492年.
- ^ E. Thornton, “On the 256th Accord of Heikai”, Journal of Maritime Municipalities, Vol. 18, No. 4, pp. 201-229, 1988.
- ^ アーサー・E・マルロー『沈黙する秤と喋る帳簿』ロンドン港史出版社, 1874年.
- ^ ニハト・カラヤン「平堺同盟文書群の印章比較研究」『アナトリア歴史学報』第12巻第2号, pp. 33-71, 1967年.
- ^ セルマ・デミル『黒塩組の儀礼と港湾実務』イズミル大学出版局, 2003年.
- ^ P. M. Vassiliou, “Ledger Colors in Late Fifteenth-Century Black Sea Trade”, Byzantine and Ottoman Studies Review, Vol. 7, No. 1, pp. 55-89, 1999.
- ^ 渡辺精一郎『平堺圏の端数会議に関する覚え書き』東亜文書学会, 1931年.
- ^ Marianne L. Kester, “The Blue Cloth Passport and Its Afterlives”, Mediterranean Archive Quarterly, Vol. 31, No. 2, pp. 10-46, 2015.
- ^ エミン・サルハン『一枚札令と港湾自治の終焉』アンカラ歴史叢書, 1978年.
- ^ O. R. Feldman, “A Council That Counted Too Far”, Comparative Port History, Vol. 5, No. 3, pp. 88-117, 2001.
外部リンク
- 平堺港史料館デジタルアーカイブ
- マルマラ交易文書学会
- 黒海港湾同盟研究ネットワーク
- アナトリア比較都市史センター
- 国際架空条約索引