第二次ダーレン海戦
| 時代 | 末期 |
|---|---|
| 年月日 | 1827年6月14日 - 6月16日 |
| 場所 | ダーレン湾一帯 |
| 結果 | 側の戦略的勝利 |
| 交戦勢力 | ダーレン自由艦隊 / 連合水上評議会艦隊 |
| 指揮官 | ロレンツ・ヴァルナー / イザベラ・クルズ |
| 戦力 | 大型艦19隻、小型艦27隻 |
| 損害 | 沈没8、拿捕11、死傷約2,400 |
| 呼称 | 第二次ダーレン海戦 |
第二次ダーレン海戦(だいにじだーれんかいせん)は、にで起きたである[1]。後世にはの主導権を決定づけた海戦として知られている[2]。
背景[編集]
第二次ダーレン海戦は、を通るの統制をめぐり、との対立が先鋭化したことに端を発する。とくに1820年代の後半には、が湾内の浮標税を事実上独占し、周辺の諸港が強い不満を示していた。
この海域は潮の干満差が大きく、旧式の帆走艦では航行が難しかったため、先導船に磁針補正器を積む慣行が生まれたとされる。なお、当時の記録ではこの補正器の誤差が「おおむね3度以内」とされているが、実際には船乗りの勘に依存する割合が高かったとの指摘がある[3]。
経緯[編集]
1827年6月14日未明、ダーレン湾北口での前衛艦「マルシュ・ノワール」が座礁し、後続の三隻が連鎖的に隊列を乱したことから戦闘が始まった。これを契機として、率いる連合艦隊は、湾口に設置した偽装灯台を起点に敵艦を内湾へ誘導する作戦を実行した。
第二日には、ロレンツ・ヴァルナーが旗艦「聖ベアトリス号」上で逆風回避のための横帆転換を命じたが、転換の合図に用いられた角笛の音程が誤認され、3隻の砲門が味方艦に向けて開かれるという混乱が生じた。海戦記録集『湾口日誌』によれば、砲撃は合計417発に及び、そのうち約6割が水面近くを跳ねる“跳弾砲”として機能したとされる[4]。
第三日夕刻、連合側の火船12隻が風向の急変により一部反転し、むしろ自軍の補給船団に接近したため、一時は形勢が逆転しかけた。しかし、港湾監察局の臨時測量官であったミゲル・アルバロが、浅瀬を示す杭列を1本ずつ切り倒して退路を確保したことで、自由艦隊は退却に失敗し、8隻を失った。
影響[編集]
この海戦の結果、ダーレン湾の関税制度は再編され、が1828年に締結された。これにより、湾口での積み替え税は艦船の総トン数ではなく、積荷の「湿度換算重量」に基づいて課されるようになったが、この制度は現場で極めて不評であった。
また、戦後に導入されたは、標準化された測深棒と気象札を組み合わせたもので、のちのの航行安全基準に影響したとされる。とくに、ダーレン式の潮汐予報表はとの商人のあいだで高く評価され、1829年までに複製版が少なくとも14版刷られたという[5]。
一方で、海戦後に捕獲された旗艦の金属製舵輪が、の博覧会で「平和の象徴」として展示されたことから、後世の記憶は軍事的勝利よりも港湾技術の転換点として語られる傾向がある。
研究史・評価[編集]
20世紀初頭のは、第二次ダーレン海戦を「近世海戦から港湾管理戦への移行を示す典型例」と位置づけたが、近年の研究では、この評価はやや誇張であるとみなされている。というのも、当時の艦隊運用は依然として個々の船長の嗜好に大きく左右されており、統一的な作戦体系が完成していたとは言い難いからである。
また、の1998年報告は、海戦の勝敗を決めたのは砲戦よりも「港外での昼食休憩時間の差」であった可能性を示唆した。これに対し、のは、休憩時間よりも塩分摂取量の不足が士気に影響したと反論している[6]。なお、この論争は現在も続いているが、双方とも当時の航海日誌の記述に依拠しているため、確証は十分ではない。
ダーレン市立史料館に残る絵図では、戦闘海域に巨大な木製の魚型浮標が描かれているが、これは実際の戦闘ではなく後世の児童向け再現模型に由来する可能性が高いとされる。もっとも、地元ではいまなお「魚が戦局を変えた日」として半ば真顔で語られている。
再現と記憶[編集]
19世紀後半以降、第二次ダーレン海戦は港湾祭礼の中心的題材となり、では毎年6月に「火船行列」が行われた。行列では、子供たちが帆を模した白布を背負い、街路の両側で塩を撒きながら進む習慣があり、これは本来は航路清めの祈願であったものが、次第に観光資源化したものとされる。
20世紀にはが『ダーレン、二度目の潮』を制作し、海戦の再現に本物の救命浮環を2,300個用意したことで話題となった。ただし、撮影時に潮位計が故障し、艦船模型の半数が干上がったため、実際には「海戦」より「干潟劇」として記憶された部分も大きい。
現代ではの後身組織が海戦記念館を維持しているが、展示の中心は砲門ではなく航路標識である。これは、ダーレン海戦が軍事史よりも、港湾制度・測量技術・交易秩序の再編を象徴する出来事として受容されていることを示している。
脚注[編集]
[1] なお、一部の写本では「第三次」と誤記されている。
[2] ダーレン湾周辺の記念碑銘文による。
[3] ジュリアン・ペール『潮流と誤差』、第2巻第4号、pp. 88-91.
[4] 『湾口日誌』1827年6月版、ダーレン市立文書庫所蔵。
[5] M. R. Haddon, “On the Daren Wet-Weight Tariff”, Journal of Maritime Administration, Vol. 14, No. 2, pp. 201-219.
[6] ニコラ・アレンティ「塩分と士気の相関について」『パルマ海軍学院紀要』第31号、pp. 17-44.
関連項目[編集]
脚注
- ^ ジュリアン・ペール『潮流と誤差』ダーレン海事出版社, 1904年.
- ^ M. R. Haddon, “On the Daren Wet-Weight Tariff”, Journal of Maritime Administration, Vol. 14, No. 2, pp. 201-219.
- ^ ヘンリー・ヴォス『湾口戦術の成立』オルド・プレス, 1921年.
- ^ ニコラ・アレンティ「塩分と士気の相関について」『パルマ海軍学院紀要』第31号, pp. 17-44.
- ^ Clara W. Fenning, A Maritime Error of Three Degrees, Northmere University Press, 1958.
- ^ 『湾口日誌』1827年版、ダーレン市立文書庫編, 1897年復刻.
- ^ フェルナンド・マルケス『港湾国家の税と戦争』リオ・デルタ書房, 1976年.
- ^ A. J. Bellamy, The Second Daren Engagement and Its Fiscal Legacy, Royal Coastal Review, Vol. 8, No. 1, pp. 55-73.
- ^ 『ダーレン海戦再現図録』連合水上評議会記念局, 2003年.
- ^ オットー・レーム『魚型浮標の政治史』ライン沿岸研究叢書, 2011年.
外部リンク
- ダーレン市立史料館
- 連合水上評議会アーカイブ
- 港湾史研究ネット
- 塩銀航路記念財団
- 近世海戦図像データベース