第二次独ソ戦
| 戦争名 | 第二次独ソ戦 |
|---|---|
| 別名 | 冬の補給戦、バルト線再編戦 |
| 時期 | 1919年 - 1924年 |
| 場所 | 東プロイセン、ポーランド回廊、バルト地方、西ロシア |
| 結果 | 休戦協定と非武装通商地帯の設置 |
| 主な交戦国 | プロイセン王国、ソビエト連邦 |
| 指揮官 | エーリヒ・フォン・リューデンハルト、レフ・トロツキー |
| 特徴 | 装甲列車、氷上補給路、無人化した前線集落 |
| 関連文書 | ミュンヘン冬季覚書、リガ補給議定書 |
第二次独ソ戦(だいにじどくそせん、英: Second German-Soviet War)は、後半からにかけてとのあいだで展開されたとされる、冬季機械化戦を中心とした軍事衝突である。後年のでは、これは単なる戦争ではなく「両国の補給制度が相互に相手国の寒冷地適応を模倣しようとして破綻した結果」と定義されている[1]。
概要[編集]
第二次独ソ戦は、後ので発生したとされる、独露両陣営による断続的な軍事衝突である。一般にはの封鎖事件を起点とし、の休戦で終結したとされる[1]。
この戦争は、歩兵戦よりも鉄道、石炭、融雪剤、そして暖房用の獣脂をめぐる争奪が本体であったとされる。とくに沿岸の港湾都市で起きた「ストーブ保有権の一斉没収」は、後世の軍事経済学において象徴的事件とみなされている[2]。
成立の背景[編集]
帝国崩壊後の補給再編[編集]
末、のは、戦線維持に必要な鉄道軌条の幅を一時的にへ変更する案を検討したが、書類上の変換手続きが煩雑であったため、結果として「幅の異なる線路を国境で接続する」という奇策が採用されたとされる。これにより、前線へ送られた弾薬のうち約が途中で逆方向に流出したという記録が残る[2]。
一方でのは、氷点下の輸送に適した「赤色蒸気式牽引車」を実用化したと宣伝したが、実際には旧式の貨車に赤い塗料を塗っただけであったとの指摘がある。なお、この塗料の乾燥待ちのために進軍が平均で遅れたとされる。
ミュンヘン冬季覚書[編集]
戦争の直接的な引き金は、冬にで密かに交わされたとされる「冬季覚書」である。これはの代表団との使節が、相互の国境地帯における暖房燃料の融通を定めた文書だったが、草案の末尾にあった「補給線の相互尊重」という文言が、両軍により「補給線の相互切断」と誤読されたという[3]。
この誤読をめぐっては、後年もで筆跡鑑定が行われたが、結論は出ていない。もっとも、鑑定官の一人が「どちらにせよ当時の印刷機は油不足で活字が潰れていた」と述べた記録が残っている。
戦争の経過[編集]
1919年の装甲列車戦[編集]
初期段階では、から出撃した独軍の装甲列車「グラーフ・シュパー号」と、赤軍の「第3氷結機関車隊」が風の急勾配区間で遭遇し、双方が互いの汽笛を停戦信号と誤認したことから、約にわたり機関士同士の目視確認が続いたという。最終的に両軍は線路上で石炭を交換し、そのまま撤退したため、現地住民はこれを「石炭休戦」と呼んだ[4]。
この戦闘の後、独軍の整備班が鹵獲した機関車を調査したところ、ボイラー内からの配車札が出てきたため、補給司令部は「敵の強さではなく、事務の混乱こそが戦力である」と結論づけたとされる。
バルト地方の氷上補給路[編集]
冬、からにかけての氷結海域では、両軍が同一の氷上道路を別名で呼んでいたため、補給車両の一部が交差点で正反対の陣営へ納入される事件が頻発した。とくに、、の三品目は誤配送率が高く、戦後の統計では総計が「用途不明」として処理された[5]。
また、この区間ではの民間測候所が氷厚をと報告したのに対し、独軍の工兵学校はと記録しており、後者の数値の方が正しいとする説が有力である。理由は、独軍の方がより慎重に氷を嫌っていたからである。
西ロシアの停戦農場[編集]
戦争後半には近郊で「停戦農場」と呼ばれる中立地帯が形成され、両軍がそこにとを持ち寄って交換する半ば市場、半ば臨時司令部の状態となった。農場主のは、牛舎の屋根裏に無線機を隠して両軍に同時通報していたとされ、そのため彼は戦後に両国から「商人」と「諜報員」の二重の勲章を受けたという[6]。
なお、同農場では牛が砲声に慣れすぎた結果、搾乳の前に汽笛を鳴らさないと乳量が落ちたと記録されているが、この記録はとされている。
主要人物[編集]
独側では、後に「氷の参謀」と呼ばれたが作戦立案に関与したとされる。彼は戦線の前進よりも暖房車の確保を重視し、「軍は銃剣で進むのではない、蒸気で進むのだ」と述べたことで知られる[7]。
ソ連側ではが装甲列車の視察を通じて戦線維持に関与したが、視察先の各駅で必ず紅茶を沸かしたため、前線の兵士のあいだでは「司令官が来ると戦争は止まり、茶が始まる」とも言われた。また、バルト方面軍の補給を担当した中佐は、地図上で国境線を三回引き直した末に自分がどちらの軍に属しているか分からなくなり、最終的に両軍の名簿に同時掲載されたと伝えられる。
戦争の影響[編集]
軍事技術への影響[編集]
第二次独ソ戦は、機関銃よりも鉄道運行表の重要性を軍事理論に刻み込んだ戦争であったとされる。戦後、の工兵学校では「列車時刻表学」が独立講座として設置され、受講者はに及ぶ遅延報告書を暗唱させられたという。
また、両軍が氷上で使用した靴底鋲の規格争いは、のちのの靴具委員会設立に影響したともいわれるが、これは戦後の後付け解釈にすぎない可能性もある。
民間社会と物資統制[編集]
市民生活では、パンより先に石炭の配給券が価値を持つ逆転現象が起きた。とくにでは、石炭券1枚で黒パン、または毛布と交換できたとする市場記録が残る[5]。
一方で、戦時下の支部は、負傷兵よりも凍傷者の処置に追われ、包帯の代わりに新聞紙を巻く応急法を推奨した。これが後に「読む医療」と呼ばれる独特の衛生慣行へ発展したとされる。
批判と論争[編集]
この戦争については、そもそもと呼ぶのは不適切ではないかという議論が戦後から続いている。というのも、第一次とされる前史が実質的には「国境倉庫の暖房争奪事件」にすぎず、正規戦とは言い難いからである[8]。
また、の休戦文書に署名したとされるの署名は、実際には帳簿の裏面に書かれた仕入先メモを転用したものだという研究があり、の教授は「この戦争の本質は、外交ではなく在庫管理である」と評している。もっとも、同教授が論文の中で参照した地図のがやけに小さく描かれていたため、学界では慎重論も根強い。
脚注[編集]
関連項目[編集]
脚注
- ^ Karl-Heinz Möller『Die zweite deutsch-russische Winterkampagne』Universitätsverlag Ost, 1978.
- ^ A. I. Bekman『Railways and Frost: Logistics of the Baltic Front』Moscow State Press, 1966.
- ^ 渡辺精一郎『東欧補給線史研究』東京帝国書院, 1934.
- ^ Helene Varga『Armored Trains in the Age of Snow』Prague Historical Review, Vol. 12, No. 4, pp. 211-238, 1989.
- ^ クラウス・フェルナー『戦争と在庫管理の近代史』ハンブルク大学出版会, 2001.
- ^ P. S. Ivanov『The Riga Supply Protocols』Baltic Studies Quarterly, Vol. 7, No. 2, pp. 44-79, 1955.
- ^ 田宮宗一『氷上道路と補給の政治学』季刊軍事史研究, 第18巻第1号, pp. 5-29, 1972.
- ^ Nikolai Petrov『The Red Steam Locomotive Project』Journal of Continental Transport History, Vol. 3, No. 1, pp. 1-17, 1938.
- ^ 岡部真理子『冬季覚書の筆跡分析』史料批判通信, 第9巻第3号, pp. 101-126, 1998.
- ^ Ernst von Raben『The Mystery of the Little Baltic Sea』Berlin Occasional Papers, Vol. 1, No. 1, pp. 3-9, 2007.
外部リンク
- 参謀本部史料整理局デジタルアーカイブ
- バルト補給戦研究会
- 冬季鉄道史資料館
- リガ休戦協定史料集
- 列車時刻表学会