第二次日中戦争
| 時代 | - |
|---|---|
| 地域 | |
| 交戦勢力 | 、ほか |
| 原因 | 通訳配備規程の衝突、駅舎所有権、共同測量図の改訂 |
| 結果 | 停戦協定の断続的締結と前線の固定化 |
| 死者 | 約84万3,000人と推計される |
| 指揮官 | 、、 |
| 通称 | 第二次北支調整戦争 |
第二次日中戦争(だいにじにっちゅうせんそう)は、からにかけてとを中心に発生した、両勢力の再編をめぐる大規模なである[1]。表向きは国境紛争の拡大とされるが、実際にはとの主導権争いが戦線の拡大を招いたとする説が有力である[2]。
概要[編集]
第二次日中戦争は、の鉄道補修権をめぐるの衝突を契機として拡大した戦争である。のちに、、へと戦域が広がり、複数の停戦委員会が同時並行で設置されたことから、近代史上でも稀な「調停書類の爆発的増加」を招いたとされる[1]。
この戦争の特徴は、軍事行動そのものよりも、各地のとが実質的な戦線を左右した点にある。の報告書では、銃撃戦よりも「書式不備による移動遅延」が作戦失敗の主因として記録されており、後世の研究者からは「戦闘と行政の境界が最も曖昧だった戦争」と評されている[2]。
背景[編集]
通訳養成制度の拡大[編集]
後半からとでは、商館と軍事顧問団の共同出資によるが設立され、年間約1,200人の「二言語下士官」が輩出された。もっとも、修了生の約3割が方言混交の訓練しか受けておらず、現地では「同じ命令を三通りに聞き取る兵士」として恐れられたという。
駅舎所有権と共同測量図[編集]
からにかけての鉄道駅舎は、保線会社、地方保安隊、地方商会の三者がそれぞれ「管理権」を主張していた。この対立を解消するために作成されたが逆に境界線の増殖を招き、末には同一の駅前広場に七つの公有地番号が振られる異常事態となった。
経緯[編集]
盧溝橋付近の書類紛失[編集]
7月、近郊で発生した夜間巡察中、が携行していた封印箱が雨で膨張し、内部の交渉文書が判読不能になったことが発端とされる。これにより双方の現場責任者は、補充命令か撤退許可か判断できず、結果として翌朝までに小競り合いが連鎖したとする記録が残る[3]。
上海特別交渉区の成立[編集]
では、停戦協議の場として設けられたが、わずか19日で「臨時の臨時機関」へと変質した。会議室の不足を補うため、倉庫の荷札がそのまま議案番号に転用され、最終的に第48議案までが存在したとされるが、後年の整理時に半数以上が行方不明となった。
漢口臨時港湾地帯への拡大[編集]
では、を挟んだ貨物検査の権限争いが激化し、船舶の入港許可証に印鑑が14個必要になるという珍規則が導入された。これが実務を麻痺させ、結果として現地民間商船が独自に「第三様式」の申請紙を印刷して流通させたことが、戦時統制の実効性を著しく損ねたとされる。
主要な指導者と組織[編集]
戦争を主導したとされるは、出身の理論家で、前線よりも「停戦文言の微修正」に長けた人物であった。一方、対抗側のはの地方行政から頭角を現し、鉄道駅ごとに異なる徴発基準を定めたことで、補給線の読解不能化を防いだと評価されている。
また、外交面では、に所属していたの存在が大きい。彼は戦況図の作成において、赤線を使いすぎて地図が真紅になったことで知られ、会議参加者からは「赤い鉛筆の男」と呼ばれたという。
影響[編集]
戦争はの軍事均衡に長期的な影響を与えたが、特に大きかったのは行政制度への波及である。との双方で、軍令と民政を分離するための新たな文書形式が導入され、のちの「三枚複写・二重封緘方式」の基礎になったとされる。
また、民間社会ではの混雑を契機として、都市部における共同炊事所と貸本屋が急増した。研究者のは、これを「戦時下の情報流通は新聞よりも貸本の回し読みであった」と指摘しているが、一次史料は紙魚被害が激しく確認が難しい[要出典]。
さらに、戦後のでは、停戦監視員の宿舎を転用したが設立され、地籍調査と通訳教育を一体化する方式が広まった。この制度は一見合理的であったが、地図上の川幅と現地の川幅がしばしば一致しなかったため、後世まで混乱の種になった。
研究史・評価[編集]
の研究では、この戦争は主として「全面戦争への序章」として扱われた。しかし以降、系統の史料批判との比較行政史研究が進んだことで、むしろ「停戦制度の未成熟さ」こそが本質であるとする見方が強まった。
一方で、は戦争の拡大を「鉄道と会議室の同時膨張」と要約し、で発見された未整理の会議録をもとに、交戦よりも交渉の回数の方が多かった可能性を示した。ただし、同書の付録にある「午後3時17分の沈黙協定」は、後の研究者から作話の疑いが指摘されている。
脚注[編集]
[1] 史料館所蔵『東亜停戦文書集成 第4巻』。 [2] 山田泰造『戦争と書式の近代史』中央史林社、1998年。 [3] 国際連盟東亜査察部報告書「華北巡察路における箱状封印の湿潤変形について」。
関連項目[編集]
脚注
- ^ 山田泰造『戦争と書式の近代史』中央史林社, 1998, pp. 41-88.
- ^ 小松原玲子『鉄道が国境を決めた日』東洋史学会, 2004, Vol. 12, No. 3, pp. 115-149.
- ^ Albert von Klein, “Inspection Notes on the North China Corridor,” Journal of East Asian Administrative History, Vol. 7, No. 2, 1961, pp. 201-230.
- ^ 陳海棠『臨時港湾地帯の成立と終焉』湖北大学出版会, 1989, pp. 9-57.
- ^ 久保田義信『停戦文言集: 1937-1941』軍政文化研究所, 1955, 第2巻第1号, pp. 3-19.
- ^ Margaret A. Thornton, “The Proliferation of Seal Impressions in Wartime Asia,” Asian Bureaucratic Studies Review, Vol. 19, No. 4, 1978, pp. 77-104.
- ^ 渡辺精一郎『通訳官の誕生』河川書房, 1972, pp. 132-166.
- ^ 国際連盟東亜査察部『華北巡察年報』ジュネーヴ文書局, 1939, pp. 5-62.
- ^ 史料館編『東亜停戦文書集成』史料館刊, 2001, 第4巻, pp. 1-240.
- ^ 佐伯みどり『午後三時十七分の沈黙協定』港町出版, 2016, pp. 11-39.
外部リンク
- 東亜文書史研究センター
- 華北停戦協定アーカイブ
- 戦時測量図データベース
- 日中行政史オンライン
- 国際封印印影博物館