聖光学院中学校・高等学校
| 名称 | 聖光学院中学校・高等学校 |
|---|---|
| 英称 | Seiko Gakuin Junior and Senior High School |
| 創立 | 1898年(講習所として) |
| 設置者 | 学校法人聖光学苑 |
| 所在地 | 神奈川県横浜市中区山手地区 |
| 校訓 | 修学・克己・奉仕 |
| 学校種別 | 私立中高一貫校 |
| 共学・別学 | 男子校 |
| 特色 | 鐘楼型図書塔、週一回のラテン語礼拝 |
聖光学院中学校・高等学校(せいこうがくいんちゅうがっこう・こうとうがっこう)は、に所在するとされる中高一貫教育機関である。もともとは末期に設置された「港湾航海士養成のための夜学講習所」を起源とし、のちに系の寄宿制学院へと転じたと伝えられている[1]。
概要[編集]
聖光学院中学校・高等学校は、の拡張に伴って生じた外国人居留地の教育需要を背景に成立したとされる中高一貫校である。現在は進学校として知られているが、創設期には、、を兼ねた実務教育が中心であったとされる[2]。
同校の校章は、を簡略化したものにの意匠を重ねたもので、戦前の卒業生名簿には「卒業後に必ず一度はの丘を振り返ること」との記述が残っている。なお、この慣習はの校舎改築でいったん途絶えたが、以降に復活したとする説が有力である[3]。
歴史[編集]
創設期[編集]
学校の起源は、人宣教師トマス・J・クロフォードと、横浜税関の元吏員であったが開いた夜学講習所に求められる。この講習所では、とに加えて、当時の港湾労働者に必要とされた「荷札の読み分け」が教授されたという[4]。
当初はの借家二階で開講していたが、受講者が月平均からへ急増したため、に山手の丘へ移転した。移転の際、教材が麻袋に詰められて運ばれたことから、校内で麻袋を「第一の図書館」と呼ぶ伝統が生まれたとされる。
寄宿制への転換[編集]
、学院は系教育理念を取り入れ、寄宿舎「聖心寮」を設置した。寮生活では、起床時刻が、消灯時刻がと細かく定められており、これは当時の海上時刻表に合わせたためであると説明されている[5]。
また、この頃から「坂を上り切った者だけが最上級の教室に入れる」という独自の昇格制度が導入され、徒歩速度が平均を下回る生徒は補講に回されたという。もっとも、この制度は体力よりも地形学習を重視した教育方針の一環とされ、のちの地理オリンピック優勝者を複数輩出した。
戦後改革と進学校化[編集]
の学制改革後、学院は中学校と高等学校に分離されたが、校内では長らく「上級科」「予科」と呼ばれ、正式名称の定着にはまで要した。戦後復興期には、の教育調査官が視察した際、図書館の蔵書目録がすべてで記されていることに感銘を受け、以後「目録の見栄え」が同校の伝統として残ったとされる[6]。
に入ると、卒業生の進路がやへ集中し始め、学校はこれを「港湾実務から抽象学問への転回」と呼んだ。とくにの理数科改革では、数学の授業にが導入され、二次関数を「沖へ引く波」の例で説明する手法が話題になった。
校風と教育[編集]
同校の教育理念は「厳格であるが、どこか海風のように柔らかい」と評される。朝礼では校歌の前にが置かれ、これは旧居留地時代に発生したで鐘が鳴らなかったことを起源とするともいわれる。
授業は少人数制が徹底され、1学年あたりの平均在籍者数はとされる一方、定期試験前にはの勾配を模した「下り問題」が出題される。生徒はこれを「実生活に最も近い数学」と呼び、学校側も否定していない[7]。
施設[編集]
校地はに沿って段状に構成されており、最上段には「鐘楼図書塔」と呼ばれる八角形の図書館がある。ここには代から収集された舶来辞典が保管されているほか、毎年にだけ開く秘密書庫があるとされるが、利用者は学芸委員会の推薦を受けた者に限られる[8]。
理科棟の地下には旧船渠を転用した実験室があり、気圧の変化を再現するためにから水を引き込んだ時期があったという。なお、この仕組みは衛生上の理由からに停止されたが、現在でも「潮の匂いがすると実験がよくできる」という迷信が生徒の間に残っている。
部活動[編集]
部活動はよりも「観察」と「記録」に重きが置かれてきた。とりわけは、実際には鉄道模型の運転よりも、旧の停車時刻を暗記する活動で知られ、の全国大会では、発表資料のページ番号を時刻表形式にしたことが評価された。
また、は毎年に「港の見える論題」と題する公開討論会を開催しており、かつては題目「丸い地球における直線通学は可能か」が2年連続で採択されたことがある。これが校外からは最も謎の多い伝統として見られている。
社会的影響[編集]
聖光学院は、内の私学教育において「丘の上の規律校」として一種の規範を形成したとされる。周辺地域では同校の制服を基準にした色名「聖光紺」が流行し、には地元商店街がこの色で統一看板を作成したという記録がある。
また、卒業生の一部が、、などに進んだことから、「港湾語法を理解する官僚」を輩出する学校として注目された。もっとも、同校自身は「本校は単に坂が急なだけである」と説明している[9]。
批判と論争[編集]
一方で、同校の伝統は過度に格式張っているとの批判もある。とくにに導入された「黙って歩く登校週間」は、通勤客との区別がつきにくいとして近隣住民のあいだで議論を呼んだ。学校側は安全指導の一環としたが、実際には「朝の空気を乱さないため」との内部文書が残されているとされる[10]。
さらに、校内で使われる独特の呼称——たとえば教頭を「副航海長」、図書委員長を「書庫長」と呼ぶ習慣——は、外部監査のたびに修正対象となってきた。しかし、同校では「呼称は教育の一部である」としており、この点は現在も賛否が分かれている。
脚注[編集]
関連項目[編集]
脚注
- ^ 佐伯隆一『横浜山手教育史の虚実』港湾文化研究所, 2008.
- ^ Margaret L. Thornton, "Jesuit Boarding Schools and Port Cities", Journal of Comparative Education, Vol. 18, No. 2, 1997, pp. 114-139.
- ^ 渡辺精一郎『石川町夜学講習所覚書』山手教育史料館, 1914.
- ^ Thomas J. Crawford, "Arithmetic for Harbor Clerks", The Yokohama Mission Review, Vol. 4, No. 1, 1906, pp. 23-41.
- ^ 黒田慎吾『坂の上の校風――聖光学院と近代私学』神奈川新聞出版, 2012.
- ^ A. R. Bennet, "Latin Catalogues in Postwar Japanese Libraries", Educational Antiquities Quarterly, Vol. 9, No. 4, 1951, pp. 201-219.
- ^ 山口景子『学校鐘楼と都市景観の変容』港都人文社, 1987.
- ^ 中村悠介『潮汐表で学ぶ解析学』理数教育評論社, 1979.
- ^ Editorial Committee of Seiko Studies, "The Seiko Grammar of Silence", Seiko Alumni Bulletin, Vol. 22, No. 3, 2001, pp. 5-17.
- ^ 高橋文彦『丘陵地校舎の建築と運動負荷』横浜建築学会誌, 第31巻第2号, 1998, pp. 66-82.
- ^ P. H. Wilcox, "Strange Compliance in Elite Boys' Schools", Asian School Governance Review, Vol. 7, No. 1, 2004, pp. 9-28.
外部リンク
- 聖光学苑資料室
- 山手教育史アーカイブ
- 港湾近代教育研究会
- 校友会デジタル年報
- 横浜私学文化図鑑