舞孫弗 たつきん
| 氏名 | 舞孫弗 たつきん |
|---|---|
| ふりがな | まごふらっと たつきん |
| 生年月日 | 1878年4月17日 |
| 出生地 | 長崎県長崎市出島周辺 |
| 没年月日 | 1946年11月2日 |
| 国籍 | 日本 |
| 職業 | 民俗技師、舞踊研究家、興行企画者 |
| 活動期間 | 1898年 - 1944年 |
| 主な業績 | 折り畳み舞踊の標準化、港湾祝祭の再編、即興具『フラット笛』の考案 |
| 受賞歴 | 帝国芸能改良賞(1932年)、長崎文化功労章(1938年) |
舞孫弗 たつきん(まごふらっと たつきん、 - )は、の民俗技師、即興演出家、ならびに「折り畳み舞踊」の体系化で知られる人物である[1]。港湾都市の雑芸から近代祝祭儀礼までを横断した異色の実践者として広く知られる[1]。
概要[編集]
舞孫弗 たつきんは、末期から前期にかけて活動した日本の民俗技師である。特に、折り畳み式の所作と短い旋回を組み合わせた「折り畳み舞踊」の整備者として知られる。
その活動はの港湾芸能、の見世物興行、さらにはの祝典演出にまで及んだ。本人は一貫して「舞踊は持ち運べて初めて公共財になる」と主張したとされ、後年の都市祭礼や学校行事にまで影響を与えたとされている[2]。
生涯[編集]
生い立ち[編集]
舞孫弗は、のに近い雑貨問屋の三男として生まれたとされる。父・舞孫弗善右衛門は舶来品の木箱を修理する職人で、幼少期のたつきんは箱の蝶番や留め金に強い興味を示したという。この経験が、のちに身体を「開閉できる構造」として捉える独自理論につながったとされる[3]。
6歳のころ、彼は荷役人夫の休憩時に即席で真似をした「二拍で折れる足運び」を披露し、周囲から「たつきんは人ではなく折り畳み椅子のようだ」と評されたという。なお、この逸話は所蔵の口述記録にのみ見られ、信憑性には議論がある。
青年期[編集]
、たつきんはに渡り、見物の傍ら、船乗り相手の寄席で囃子の間合いを学んだ。翌年にはの舞踏家・黒谷静枝に短期間師事したとされるが、本人の回想録では「師に師事したのではない。師の靴音に師事したのである」と記されている[4]。
にはの荷役組合が主催した慰労会で、帆布と木枠だけを使った即興演目『たたみ舟』を上演し、以後「港の演目は畳めるべきだ」との持論を強めた。観客数は記録上であったが、翌日の新聞ではに増えており、早くも脚色の余地が見られる。
活動期[編集]
、たつきんは浅草の小劇場で「折り畳み舞踊」の公開講義を行った。彼の方法は、床に置いた風呂敷を中心に、身体の軸を三度だけ折り、最後に視線を遅れて到達させるというもので、当時の評論家からは「運動というより収納術に近い」と評された[5]。
の後には、避難所で子ども向けの短縮演目を指導したとされる。段ボールと毛布だけで再構成できる演目が重宝され、東京都の臨時文化班は彼の手法を「携帯性の高い慰撫技術」として採録したという。なお、たつきんはこの時期にを考案したともされるが、実物は現存していない[要出典]。
、を受賞し、授賞式では「芸は高く積むより低く畳め」と述べたと伝えられる。受賞記念公演『三段返しの夕暮』は、わずかで終演したにもかかわらず、翌月まで再演された。
晩年と死去[編集]
に入ると、持病の関節炎により大きな旋回を避けるようになったが、代わりに座ったままの「半折り所作」を洗練させた。門弟たちはこれを「沈黙期の完成」と呼び、本人も「動かないのではない。折り目の内側で動いている」と語ったとされる。
、の仮設住居で死去した。享年。遺品の中から、鉛筆で書かれた公演メモと、なぜかの路線図を折り畳んだものが見つかり、研究者の間で「最晩年に都市交通を舞踊化しようとしていた」との説を生んだ。
人物[編集]
たつきんは寡黙であったが、沈黙が長いわけではなく「次の所作のための余白を取る」ことを好んだとされる。弟子の証言によれば、稽古中に水を飲む際ですら角度を測り、コップを机に戻す音で拍子を確認していたという。
一方で、日常生活では極端に几帳面で、旅支度に以上かかると機嫌が悪くなった。鞄の中には必ず小型の晒し布が入っており、宿の座敷でも舞台でも同じ寸法で身を整えたことから、周囲からは「移動する定規」と呼ばれた[6]。
逸話として有名なのは、にの雨天興行で出演者が遅刻した際、彼が客席の傘を借りて即席の群舞を成立させた事件である。後年、この公演を見た新聞記者が「たつきんは雨具を振付ける男である」と書いたことから、妙な通称が定着した。
業績・作品[編集]
折り畳み舞踊[編集]
たつきんの最大の業績は、身体動作を「展開」「中継」「収納」のに分けて指導する折り畳み舞踊の理論化である。彼は頃から各地の見世物小屋で試験的に用い、には文化欄でも紹介された。
この理論では、舞踊は大きく見せることよりも、いかに素早く再現可能な形へ戻せるかが重要とされた。結果として、学校行事や工場慰安会の短時間演目に応用され、時点で少なくともが準拠したとされる。
フラット笛と付属資料[編集]
フラット笛は、木製の薄い笛に蛇腹式の小孔を設け、息の圧で音程を半音ずつ滑らせる装置とされる。たつきんはこれを「踊りの折り目を音に移したもの」と説明したが、楽器製作会社との契約書が一部残るのみで、実物は戦災で失われたとみられる[7]。
また、彼は『畳むための踊り書き』『港湾即興術講義録』『三拍子と折り目の関係』などの著作を残したとされる。もっとも、現存する写本の多くは以降の筆写であり、本文中に「踊りは畳んでも熱を失わない」などの妙に格好のよい警句が多いことから、後世の補筆を疑う研究者もいる。
後世の評価[編集]
戦後、たつきんは一時期「古い興行師」として忘れられたが、にの資料整理が進むと、彼の短尺演目が再評価された。とくにのシンポジウム『可搬性と祝祭』では、都市の狭小化に先行した思想家として紹介されている[8]。
ただし、彼の理論はあまりに実用的であったため、芸術よりも防災、教育、販売促進に転用されることが多かった。このため学界では「先端芸能ではなく先端包装文化の祖」とするやや皮肉な見方もある。一方で、では現在も夏の港祭りで、たつきん式の三段折りの所作が1日ほど再現されている。
系譜・家族[編集]
舞孫弗家は元来、の回船問屋に連なる家であったとされ、祖父・舞孫弗理左衛門はの開港期に舶来木材の目利きとして名を残したという。母・おしずは踊りの経験がないにもかかわらず、晩年まで息子の所作を最も厳しく批評した人物として知られる。
たつきんには姉が二人、弟が一人いたとされるが、史料ごとに人数が揺れる。長姉・すゑはで裁縫店を営み、弟・舞孫弗藤吉はに渡って興行用の木枠を作ったという。なお、弟子筋には血縁関係を装った者も多く、門流図では「親族」と「継承者」の境界が曖昧であることが指摘されている[9]。
脚注[編集]
[1] 舞孫弗 たつきん『折り畳み舞踊の基礎概論』長崎文化研究会, 1934年。
[2] 田代 恒一『港湾祝祭と都市身体』日本民俗技芸学会誌 第12巻第3号, pp. 41-58.
[3] 長崎県立郷土資料館編『出島口述記録集 成』資料叢書7, 1962年。
[4] 黒谷静枝『稽古場の靴音』未刊回想草稿, 1941年。
[5] 小林 駿『浅草演芸の変形史』東京芸能出版社, 1978年, pp. 119-123.
[6] 牧野 朱里『携行する身体』文化装束評論 第4巻第2号, pp. 9-22.
[7] 榎本 恒一『消えた楽器フラット笛の研究』音具史研究 第8号, pp. 77-90.
[8] 国立劇場調査室編『可搬性と祝祭――シンポジウム記録』国立劇場出版部, 1984年.
[9] 山路 誠『門流図の近代――芸能継承の親族擬制』民俗継承学報 第3巻第1号, pp. 5-19.
関連項目[編集]
脚注
- ^ 舞孫弗 たつきん『折り畳み舞踊の基礎概論』長崎文化研究会, 1934年.
- ^ 田代 恒一『港湾祝祭と都市身体』日本民俗技芸学会誌 第12巻第3号, pp. 41-58.
- ^ 長崎県立郷土資料館編『出島口述記録集 成』資料叢書7, 1962年.
- ^ 黒谷静枝『稽古場の靴音』未刊回想草稿, 1941年.
- ^ 小林 駿『浅草演芸の変形史』東京芸能出版社, 1978年, pp. 119-123.
- ^ 牧野 朱里『携行する身体』文化装束評論 第4巻第2号, pp. 9-22.
- ^ 榎本 恒一『消えた楽器フラット笛の研究』音具史研究 第8号, pp. 77-90.
- ^ 国立劇場調査室編『可搬性と祝祭――シンポジウム記録』国立劇場出版部, 1984年.
- ^ 山路 誠『門流図の近代――芸能継承の親族擬制』民俗継承学報 第3巻第1号, pp. 5-19.
- ^ 鈴木 花代『三拍子と折り目の関係』東洋芸能史研究 第21巻第1号, pp. 1-16.
外部リンク
- 長崎民俗芸能アーカイブ
- 港湾祝祭資料室
- 折り畳み舞踊研究会
- 国立即興文化センター
- 出島口述史データベース