花馬有真
| 分野 | 民俗音律・宗教儀礼 |
|---|---|
| 伝承地域 | 宮城県北部〜沿岸 |
| 成立時期(推定) | 江戸時代後期(資料上は17世紀末とされる) |
| 儀礼の主媒体 | 花籠状の共鳴器(呼気共鳴器) |
| 構成要素 | 唱句・拍手・足踏み(3拍子) |
| 関連する実務 | 寺社の維持運営(音頭税の扱い) |
| 記録媒体 | 私家版の「音律札」 |
花馬有真(はなうま ゆうしん)は、馬の鳴き声から始まるとされる系の音律儀礼である。儀礼の中心は「花」を介して体内の熱量を調整するという独特な思想であり、東北地方を中心に小規模な伝承として残存しているとされる[1]。
概要[編集]
花馬有真は、音律儀礼の一種として伝えられている概念である。名称は「花(はな)」「馬(うま)」「有真(ゆうしん)」の三要素からなり、花は共鳴の“入口”、馬は“拍”の起点、有真は“変化の持続”を意味すると説明されることが多い。
儀礼の実行にあたっては、参加者がまず「花の息」を3回吐き、その直後に足踏みを7回行う手順が伝承されているとされる。もっとも、現代に残る流派では足踏みの回数が9回に調整された例もあり、同一の儀礼が地域ごとに微細に変形していることが指摘されている[2]。
なお、この概念が単なる民俗ではなく、寺社の会計実務と結びついた“制度化された音”として機能していた時期があった、とする見解もある。一部の研究者は、儀礼が「施主の支払いを拍に換算する」発想を持つ点を根拠に、花馬有真が宗教と経済のあいだに立つ技法だった可能性を示唆している[3]。
語源と定義[編集]
語源については諸説がある。最もよく引用されるのは、馬の鳴き声が村の遠隔地へ響く際に生じる“揺れ”が、花籠状の共鳴器で整えられるという、音響学的説明である。ただしこの説明は、後世の記述が音響用語に寄せて改稿された可能性があるとされ、花馬有真の成立当初の言い回しを復元できないまま、用語のみが先行したのではないかとも議論されている[4]。
「有真」については、真実の“有無”を問う語感ではなく、「変化が有る(=続く)」という意味で用いられた、とする解釈がある。実際、音律札の残欠(とされる資料)では、「有真」は1行目の語であるのに対し、2行目では必ず呼気と足踏みの条件が並置されているという報告がある[5]。
また、名称の表記に揺れがあることも特徴である。たとえば「花馬有真」「花馬ゆうしん」「花馬御真」などの異表記が、仙台市周縁の私家資料に見られるとされる。異表記は識字率や書写習慣の違いを反映するとも言われるが、意図的に“意味の温度”をずらす編集であった可能性もあるとされ、読者の興味を誘う点でしばしば強調される。
歴史[編集]
前史:天領馬継ぎと「拍の会計」[編集]
江戸時代の後期、配下の天領では、馬継ぎ(中継輸送)に関する小規模な混乱が相次いだとされる。そこで「荷の受け渡し時刻を、音で揃える」試みが広まった、という筋書きが、のちの音律研究者によって提示された[6]。ここで重要なのが、音の統一が“契約の時間”の代替になった点である。
この試みは、仙台市の旧街道沿いにあったとされる小寺(寺名は資料では伏せられるが、後年の編者がと推定している)で実施されたとされる。編者の推定によれば、寺の会計係が「施主が納める米俵の数」を拍手の回数に換算し、拍手を間違えると俵の換算率が変わったという。数字としては、拍手1回につき米が0.14俵(=約1/7俵)相当であった、と非常に細かく書かれている[7]。もっとも、俵の換算は慣習であり、資料の信頼性には慎重な態度が必要だとされる。
この“拍の会計”が、やがて「花」と「馬」の要素を取り込み、花馬有真という名の儀礼へまとめられていった、というのが通説的な語り口である。
成立と流派:音律札の配布制度[編集]
花馬有真が制度として扱われ始めた契機は、江戸時代末期の検地改革にある、とする説がある。検地に付随して、寺社へ提出される“声量報告”が求められた時期があり、これを形式化するために音律札(個別の手順が記された札)が配布されたという筋書きである[8]。
配布の中心機関として、宮城県庁の前身にあたる“郷達所”が挙げられることが多い。ただしこの郷達所の名称は史料によって揺れており、編者が勝手に統一表記した可能性もある。とはいえ、音律札は「3拍子」「7足踏み」「花の息3回」の組合せを核としていた点が一致しているとされる。
流派の分岐は、札の“紙質”に起因した、とする説がある。具体的には、札を湿気から守るために薄い和紙に糊を重ねた系統(乾紙系)と、逆に湿りを保つ方向で羊皮紙に似た加工を施した系統(保湿系)で、共鳴が微妙に変わるため、拍の数を調整したと説明される[9]。ここで面白いのは、乾紙系は足踏みが7回で、保湿系は9回になった、と“数字が固定”されている点である。
近代の変質:学校行事への「応用」[編集]
明治時代以降、宗教色を薄める目的で、花馬有真が学校行事に応用されたとされる。とくに沿岸では、津波避難訓練の前に「花の息」を3回行う儀式めいた体操が一時期導入された、と語られている[10]。ただし当時の公教育は“宗教儀礼の排除”を掲げていたため、実際には「呼吸法」として再ラベル化された可能性が指摘される。
同様に、仙台市近郊の青年団では、拍手や足踏みを労働歌のリズムに取り込む試みがあり、結果として花馬有真の語は“健康体操の名称”に近づいていった。もっとも、この過程で「有真」の意味が“気力が有ること”として誤解され、原義から離れた、とする批評もある[11]。
この誤解が広まった背景には、音律札の原文を読む人が減ったことと、官憲文書で「有真」を難読扱いにしたことが影響した、とされる。書字の難しさが、意味の変形を加速させたというわけである。
儀礼の実際(伝承手順)[編集]
儀礼の中心は「花の息」「馬拍」「有真の留め」の三工程と説明されることが多い。第一工程の花の息は、参加者が胸の奥から息を出すのではなく、あえて“喉の手前”で止めるように吐くとされる。これを3回行い、その間に壁面へ指先を軽く当て、共鳴の具合を確認する流儀が伝えられている[12]。
第二工程の馬拍は、拍手ではなく「手のひらを空気に打ち付ける」ような動きで3拍子を作るとされる。奇妙だが、拍手の音量が基準より小さい場合、儀礼の進行役が「花の音(はなのね)」と呼ぶ合図を余分に1回足すと記録されている。ここで余分な合図は1回につき“時間が0.6分伸びる”とされ、なぜか実測に基づくような書き方が見られる[13]。
第三工程の有真の留めは、足踏み7〜9回の後、最後の足踏みの瞬間に「真」を“床へ移す”ため、靴の底を床から離さないまま小さく揺らす所作が求められるとされる。流派によっては床の素材(板・土間)で揺らし幅を変える、とされ、板は2ミリ、土間は3ミリが目安とされる。これがたびたび“嘘っぽいほど正確”だと笑われる点であり、実在の職人が残したメモに依拠する体裁で語られている[14]。
批判と論争[編集]
花馬有真は、学術的には「民俗音律の記述が後世の編纂で制度化された疑いがある」とされる。とくに音律札の“数値の固定”は、最初から数字があったというより、後年に整えられた可能性を示していると批判されることが多い。一方で、数字が整っているからこそ儀礼が伝承しやすかった、という反論も存在する。
また、学校行事への応用については、宗教儀礼の排除方針に抵触するのではないか、という論点がある。とはいえ、当時の教育文書では「呼吸法」として扱われ、花馬有真の語が直接は書かれなかったとされるため、論争は“言葉の再ラベル化”に向かう傾向がある。
さらに、会計実務との結びつき(拍手の回数で俵が換算されたという主張)については、経済史の観点から不自然だと指摘される。換算が成立するなら寺の会計帳簿に一致が出るはずだが、それが見つからない、という反証がしばしば紹介される[15]。それでもなお、この話が残り続けるのは、儀礼が“真面目に生活へ入り込んだ”ように感じられるからである、とする見解もある。
脚注[編集]
関連項目[編集]
脚注
- ^ 佐藤範明『音律儀礼と地域制度:東北の「札」史』東北民俗学会, 2009.
- ^ Margaret A. Thornton『Ritual Metrics in Rural Japan』Oxford University Press, 2014.
- ^ 渡辺精一郎『寺社運営の微細な換算体系』文教書房, 1932.
- ^ 高橋静也『呼気・共鳴・拍子の民俗音響学』共鳴研究叢書, 2018.
- ^ 鈴木礼子「花馬有真の数値固定性に関する注記」『民俗音律研究』第12巻第3号, pp. 41-63, 2021.
- ^ Katsumi Harada『Institutionalizing Sound: The Hanuma Case』Journal of Ethnomusicary Studies, Vol. 7, No. 2, pp. 101-129, 2017.
- ^ 寺島綾乃『学校行事化した宗教的所作』講談院学術, 2006.
- ^ Ryuji Nakamura「Unstable Terminology and Durable Ritual Forms」『East Asian Folklore Review』Vol. 22, No. 1, pp. 1-22, 2010.
- ^ 福田真衣『花籠状共鳴器の素材推定:保湿系の仮説』学風社, 2015.
- ^ (判読復元資料)『音律札集成:未収録断簡からの推定』仙台文庫, 第2版, 1979.
外部リンク
- 花馬有真資料館
- 東北民俗音響データベース
- 音律札デジタルアーカイブ
- 郷達所文書研究会
- 津波訓練呼吸法の記録庫