草野雪種
| 氏名 | 草野 雪種 |
|---|---|
| ふりがな | くさの ゆきたね |
| 生年月日 | 1897年2月14日 |
| 出生地 | 長野県上伊那郡高遠町近郊 |
| 没年月日 | 1964年11月3日 |
| 国籍 | 日本 |
| 職業 | 民俗植物学者、発明家、詩人 |
| 活動期間 | 1922年 - 1964年 |
| 主な業績 | 雪種法の体系化、霜下標本箱の発明、口述詩集『白い土の譜』 |
| 受賞歴 | 北信文化奨励賞、帝都自然思想賞 |
草野 雪種(くさの ゆきたね、 - )は、の民俗植物学者、発明家、口述詩人。冬芽採集に基づく「雪種法」の提唱者として広く知られる[1]。
概要[編集]
草野 雪種は、前期から中期にかけて活動したの民俗植物学者である。冬季に採取された種子の発芽率と、積雪下での土壌音響をあわせて研究したことで知られる。
その名は、のちに「雪種法」と呼ばれる独自の採集・保存技術に由来するもので、とを中心に山村の聞き書きと実地観察を重ねた。なお、彼の理論は一部の農事研究者からは異端とみなされたが、戦後の地方博物館運動に小さくない影響を与えたとされる[2]。
生涯[編集]
生い立ち[編集]
、の高遠町近郊に生まれる。父は山林管理の請負人、母は薬草の採集と染色を兼ねる家の出で、幼少期から山野の植物名を記憶することを習いとした。雪種は八歳のころ、積雪の下から掘り出したオオイヌノフグリの根茎が、春に再び花をつけたのを見て「土は眠っているのではなく、音を聴いている」と語ったとされる[要出典]。
を経て、に進学した。中学時代には理科教師・に師事し、顕微鏡観察よりも採集箱の湿度変化を記録する方法に傾倒したという。
青年期[編集]
、理学部植物学科の聴講生となるが、正式な学籍は得ていない。学内では周辺の雑役に従事し、標本の乾燥処理を手伝う一方、冬季の標本が春季よりも色を保つことに着目した。これが後年の霜下保存理論の出発点である。
には、の古書店で入手した『積雪地方植物誌抄』を註釈し、同人誌『北氷草紙』に投稿した。ここで初めて「雪種」の語を署名に用いたとされ、以後この筆名がそのまま通称となった。
活動期[編集]
、の魚沼地方で冬芽採集の実地調査を開始し、翌年には木箱と竹筒を組み合わせた「霜下標本箱」を考案した。この装置は内部をわずかに負圧に保つ仕組みで、積雪の圧で箱内の結露が減るとされたが、実際には持ち運び中に壊れやすく、採集隊の間で「雪種の棺桶」と呼ばれた。
、の講演会で「雪種法」を初めて公開し、種子は採取時点の生育環境ではなく、採集者の足音の一定性によって保存性が変わると主張した。聴衆の一部は熱狂したが、植物学会側は「統計の取り方が詩的すぎる」と批判したという。
はの嘱託として地域植物の聞き取り記録を整理し、農家の口伝に基づく品種名の系譜表を作成した。1949年には地方ラジオ番組『山の種便り』に出演し、毎回三分間だけ沈黙してから植物名を読み上げる放送形式が話題となった。
晩年と死去[編集]
ごろから心臓の持病が悪化し、畔の療養施設で静養した。晩年は詩作に比重を移し、冬芽を「雪の端に付着した記憶」と表現する連作を残した。
11月3日、の自宅で死去した。満67歳であった。遺稿の整理は妻の草野ミサ子と長男の雪人が行い、のちに口述詩集『白い土の譜』として刊行された。
人物[編集]
雪種は寡黙である一方、講義や野外調査では妙に饒舌で、植物に対して人名を付けて呼びかける癖があったとされる。とくにカラマツを「山の会計係」、ミズナラを「遅れて来る議長」と呼んだ逸話は有名である。
服装は一貫して旧式で、30年代になっても革の首掛け標本箱と詰襟上衣を手放さなかった。本人は「近代的な服装では霜の会話が聞こえない」と述べたというが、周囲からは単なる頑固者と見られていた。
また、調査地で配られる甘酒を「発芽の補助剤」と称して勧めたため、村人からは半ば風変わりな学者として親しまれた。もっとも、本人が発明した採集用の木靴は大変に重く、徒歩調査の同行者が毎回三人必要であったと記録されている。
業績・作品[編集]
雪種法[編集]
雪種法は、冬季に採取した種子・冬芽・根茎を、採集時の雪質、踏圧、気温勾配とともに記録し、翌春の発芽再現性を高めるとされた保存法である。草野はにこれを体系化し、採集時の「第一踏み」「第二踏み」を記録紙に残す独自の記譜法を導入した。
この方法は一部の地方試験場で試行され、1938年のでは、冷蔵設備の乏しい山間部で通常の紙袋保存より発芽率が14.6%高かったとされる。しかし比較条件が曖昧であったため、後年の再検証では有意差が出ない例も多かった。
主な著作[編集]
代表作に『雪種小論』()、『山村の冬芽』()、『白い土の譜』(、遺稿集)がある。とくに『山村の冬芽』は、植物学書でありながら随所に俳句のような短文が挟まれており、後に民俗詩の資料としても参照された。
また、学術論文というより随筆に近い「霜下標本箱試作記」は、の紀要に掲載された際、編集部が図版を三枚も追加したため、本文より挿絵の方が有名になった。
発明と普及活動[編集]
雪種は標本保存のために、竹炭層と薄い羊毛を重ねた「低温呼吸紙」を考案したとされる。この紙は、湿度が高いと淡い藍色に変わるため、山村では季節時計の代用品としても使われた。
さらにには、の講演会で「種子郵送用の和紙封筒」を紹介し、戦後の地方博物館や学校教材の収集活動に一定の影響を与えた。もっとも、郵政当局からは重量超過よりも「中身が生き物に見える」として問い合わせが相次いだという。
後世の評価[編集]
以降、雪種は本格的な植物学者というより、地域文化の記録者として再評価された。とりわけとの共同展示『雪の下の標本』では、彼の調査ノートが「科学と民俗の境界を越えた資料」として紹介された。
一方で、雪種法の実験記録には再現性に乏しいものが多く、研究史の上ではしばしば「観察の精密さと結論の大胆さが同居した例」と評される。1984年の誌では、ある評者が「草野雪種の功績は、結果よりも測定の気分を科学に持ち込んだ点にある」と述べている。
では現在も、秋に「雪種祭」が催され、霜下標本箱を模した山車が出る。なお、この祭りの起源については雪種自身が関わったという説と、観光協会が後年に創作したという説が併存している[要出典]。
系譜・家族[編集]
草野家は旧来、で小規模な山林管理と薬草採集を営む家であった。父・草野宗一は山番、母・草野はなは草木染めの職を持ち、祖父の代には炭焼きも行っていたとされる。
妻の草野ミサ子は出身で、雪種の調査旅行に同行して記録整理を担った。長男の草野雪人は地元紙の記者となり、父の口述をほぼそのまま写した連載「霜の見た植物」を残している。
また、孫の草野雪音は音響工学の分野に進み、祖父の「土は音を聴く」という説に着想を得たと語った。草野家一門は現在も内に散在しているが、雪種の遺品のうち木靴だけは親族会議で保存先が決まらず、結果としてに寄託されたままである。
脚注[編集]
[1] 草野雪種の生年については、戸籍上とする資料と、本人の手記に見える説がある。
[2] 雪種法の呼称は、初出時には「雪中種法」とも記されていた。
[3] 霜下標本箱の実物は現存するとされるが、現物確認ができたのは二箱のみである。
関連項目[編集]
脚注
- ^ 草野雪人『白い土の譜 補遺』信濃書房, 1967年.
- ^ 山岸俊文『雪種法と山村植物誌』日本林苑出版社, 1972年.
- ^ 田所初枝「霜下標本箱の構造と保存性」『長野県農業試験場報告』Vol.18, No.2, pp.41-59, 1939年.
- ^ Margaret L. Fenwick, "Winter Bud Collecting in Central Japan," Journal of Ethnobotanical Studies, Vol. 7, No. 3, pp. 122-149, 1956.
- ^ 小林重治『高遠地方植物聞書』上伊那文化会, 1948年.
- ^ 加納静夫「草野雪種の講演記録とその受容」『民俗と標本』第4巻第1号, pp. 5-28, 1981年.
- ^ Harold E. Brant, "The Aeration of Snow Boxes," Proceedings of the Alpine Archive Society, Vol. 12, pp. 201-218, 1962.
- ^ 松平郁子『冬芽の社会史』東京学芸出版, 1989年.
- ^ 新井千代「山の会計係としてのカラマツ」『信州植物文化研究』第9号, pp. 77-90, 1994年.
- ^ 渡辺久子『口述詩と植物記述の交差点』青土社, 2003年.
- ^ A. N. Cartwright, "A Slightly Blue Paper for Seed Postage," Rural Museums Quarterly, Vol. 2, No. 1, pp. 11-19, 1952.
- ^ 草野雪種『霜の見た植物』高遠町郷土資料室編, 2011年復刻版.
外部リンク
- 高遠町郷土資料室デジタルアーカイブ
- 信州山村文化研究センター
- 長野県立歴史館 特別展示案内
- 日本民俗植物学会 会報
- 雪種祭実行委員会 公式記録