落水そしてポートレート
| 名称 | 落水そしてポートレート |
|---|---|
| 別名 | 落水式肖像法 |
| 分野 | 写真、舞台美術、前衛演出 |
| 成立 | 1928年ごろ |
| 起源地 | 神奈川県横浜市 |
| 主唱者 | 杉原道夫、レティシア・ヴァンデル |
| 特徴 | 放水直後の湿潤反射を利用した肖像表現 |
| 流行期 | 1934年-1958年 |
| 関連機関 | 日本肖像演出協会 |
落水そしてポートレートは、被写体に意図的な落水を伴わせながら、その直後の表情の変化を記録するおよびの複合技法である。末期ので生まれたとされ、のちにのアトリエ群を中心に独自の作法として体系化された[1]。
概要[編集]
落水そしてポートレートは、被写体の頭上または背後から少量の水を落とし、その瞬間に生じる驚愕・防御・笑意を同時に定着させることで、通常の肖像写真よりも「人格の二面性」を可視化するとされた技法である。史の一部ではの亜種として扱われることもあるが、実際にはやとの結合が強い点で異色である[1]。
成立事情については諸説あるが、のにおける倉庫火災の消火訓練を見た写真家のが、放水の飛沫を人物撮影に転用したのが始まりとする説が有力である。なお、同時期に来日していた仏蘭西人演出家の助言により、単なる失敗写真ではなく「意図された濡れ」に格上げされたとされるが、この経緯は後年の回想録で記述が揺れており、要出典とされることがある[2]。
この技法は、昭和初期の都市文化において、清潔さと湿潤、抑制と感情露出の対比を象徴するものとして受容された。また、・の写真館では、来客がスーツの襟を濡らさないよう、撮影前に油紙の肩掛けを配る「水前儀礼」が導入され、これが妙に評判になったと伝えられている。
歴史[編集]
創始期[編集]
1928年から1933年にかけて、の倉庫街にあった「港湾写真研究室」で試作が重ねられた。初期の装置は、天井から吊るしたの小樽に水を入れ、足元のレバーで落下時刻を調整する単純なものであったが、撮影成功率は38%前後にとどまったという[3]。
杉原は、被写体が落水を受けた直後の「眼が泳ぐ一瞬」にこそ人物の本質が宿ると主張し、これを「反射の肖像」と呼んだ。一方でヴァンデルは、濡れた髪が頬に貼りつく様子を「現代の月桂冠」と表現し、ポスター化を推進した。二人の共同制作第1作『雨のない国のための練習』は、の小劇場で12回上演され、来場者のうち3割が帰宅時に傘を購入したとされる。
1930年にはが設立され、落水の量を「三滴級」「半柄杓級」「礼儀的滝級」に分類する規格案を発表した。なお、この規格は官庁に提出されたものの、から「美術と衛生の境界が曖昧である」として棚上げされたと伝えられる。
普及期[編集]
1934年以降、落水そしてポートレートはの興行写真館やの百貨店催事に広まり、結婚記念写真の変種としても用いられた。とくに新婚夫婦が同時に少量の水を受ける「二人同時落水」は、互いの表情が同じタイミングで崩れることから、夫婦円満の象徴として宣伝された[4]。
この時期には、照明技師のが開発した「斜光乾燥板」により、濡れた被写体の輪郭が過度に白飛びしない撮影法が確立された。また下の撮影所では、毎週水曜日に限り「落水優待」が実施され、予約票には「本日、頭上より二分五厘の水量を予定」と細かく記載されていたという。あまりに細密な運用のため、撮影助手がメモ帳を濡らして読み取れなくなる事故が頻発した。
には、朝日新聞社系の文化面で「新しい感情写真」として紹介され、地方の写真学校にも短期講座が設けられた。講義では「驚きは0.7秒以内、笑意は1.2秒以内」という指導が行われたとされ、これが後のに影響したという説がある。
衰退と再評価[編集]
戦時下には水資源統制の影響で大幅に縮小し、の時点で営業を続けた落水肖像館は全国に9軒しかなかったとされる。終戦後はからへの移行に伴い、より即応性の高い表現に押されていったが、逆に「失敗の美学」として美術大学で再評価される土壌が生まれた。
にはの有志が、学園祭企画「肖像を濡らすことについて」を開催し、来場者268名のうち41名が実際に傘を持参して参加した。この催しを見た評論家のは「顔の濡れ方に階層性がある」と論じ、のちの社会学的分析の端緒になったとされる。
1980年代以降は実用技法としてはほぼ消滅したが、のインディペンデント写真館や、舞台演出の一部として細々と継承されている。近年では、による顔認識が水滴を誤認する現象を利用した「デジタル落水そしてポートレート」も出現し、古典技法の再解釈として話題になった。
技法[編集]
落水そしてポートレートの基本工程は、被写体の背後に半円形の受水幕を設置し、撮影直前に上部の水槽からから程度の水を落とすことにある。水量は顔の骨格、髪型、衣装の吸水性によって調整され、特に眼鏡着用者には0.2リットルの追加補正が行われたという[5]。
重要なのは水そのものよりも、水が落ちたあとに被写体がとる「立て直しの所作」であるとされる。たとえば、口元を閉じる者は抑制型、髪を払う者は自尊型、ただ笑う者は無垢型に分類され、優秀な撮影助手はこの3分類を撮影前に予言できたと記録されている。
また、背景には淡色の紙ではなく、湿度で色調が変化するやが用いられることが多かった。これにより、光の当たり方によって肖像が「静かな洪水のあとの街角」のように見えるとされ、都市の記憶を象徴する表現として評価された。
社会的影響[編集]
この技法は、単なる撮影流行にとどまらず、都市の生活文化にも影響を与えた。撮影所周辺では、撮影後に髪を整えるための櫛やタオルを売る露店が増え、では「落水後の身だしなみ」を題材にした化粧品広告が一時期急増した。
教育分野への波及もあり、頃には一部の美術学校で「即時表情観察」が課題として採用された。学生たちは友人の頭上に水を落とすのではなく、氷を握らせたまま撮影するという代替法を編み出し、これが「低刺激落水派」として独立したとされる。
なお、1950年代の地方紙には、落水そしてポートレートを婚礼写真に採用した家庭で「式後の沈黙が短くなる」と報じた記事が複数見られる。ただし、統計の作り方がかなり雑であるため、研究者の間では数字の信頼性について議論が続いている[6]。
批判と論争[編集]
批判の第一は、被写体の尊厳を損なうのではないかという点であった。とくにのでの公開実演では、落水のタイミングが早すぎて被写体が完全に不機嫌な表情を見せ、観客の7割が「芸術というより掃除」であると評したとされる。
第二の論争は、技法の所有権をめぐるものである。とのどちらが発明者かについて、後年まで対立が続き、の協会年報では両者の署名が別々のページに掲載された。さらに、ヴァンデルの弟子を名乗るが「本来は茶会の演出であった」と主張し、学術会議を混乱させた。
また、一部の保守的写真家からは「水は感情を増幅させるのではなく、ただ濡らすだけである」との批判も出た。これに対し支持者は「濡れること自体が近代の自画像である」と反論し、論争は半ば宗教的な熱を帯びた。
脚注[編集]
[1] 日本肖像演出協会編『落水そしてポートレート概説』港湾文化出版社、1936年。
[2] L. Vander, *Water, Face and the City*, Mariner Press, 1949.
[3] 杉原道夫『濡れた瞬間の記録』横浜潮声館、1932年。
[4] 中村栄子「婚礼写真における落水表現の拡散」『近代写真史研究』第12巻第4号、pp. 44-58。
[5] 西園寺忠雄「斜光乾燥板の実験的運用」『舞台照明月報』Vol. 7, No. 2, pp. 11-19.
[6] 立花康平『地方紙にみる新婚落水現象』青葉書房、1961年。
関連項目[編集]
脚注
- ^ 日本肖像演出協会編『落水そしてポートレート概説』港湾文化出版社、1936年。
- ^ 杉原道夫『濡れた瞬間の記録』横浜潮声館、1932年。
- ^ L. Vander, Water, Face and the City, Mariner Press, 1949.
- ^ 中村栄子「婚礼写真における落水表現の拡散」『近代写真史研究』第12巻第4号, pp. 44-58.
- ^ 西園寺忠雄「斜光乾燥板の実験的運用」『舞台照明月報』Vol. 7, No. 2, pp. 11-19.
- ^ 立花康平『地方紙にみる新婚落水現象』青葉書房、1961年。
- ^ M. Hubert, Portraits Under Minor Showers, Éditions du Quai, 1957.
- ^ 渡辺久子「港湾都市における湿潤演出と市民感情」『都市文化史学』第5巻第1号, pp. 3-27.
- ^ George Ellery, The Wet Gesture in Modern Portraiture, Thames & Lantern, 1964.
- ^ 田所晴夫『水と顔の戦後美学』新星研究社、1978年。
- ^ A. K. Bloom, "The Timing of Surprise in Portrait Laboratories", Journal of Applied Aesthetics, Vol. 18, No. 3, pp. 201-219.
外部リンク
- 日本肖像演出協会アーカイブ
- 横浜港湾写真資料室
- 近代湿潤表現研究会
- 落水そしてポートレート普及委員会
- 昭和前衛技法データベース