藍謝堂大学
| 名称 | 藍謝堂大学 |
|---|---|
| 種類 | 大学建築 |
| 所在地 | 東京都文京区本郷七丁目 |
| 設立 | 1898年(明治31年) |
| 高さ | 棟高34.2m |
| 構造 | 煉瓦造・木骨煉瓦補強 |
| 設計者 | 渡辺精一郎、R. C. ハリントン |
藍謝堂大学(あいしゃどうだいがく、英: Aishadō University)は、東京都文京区にあるである。現在ではの一例として知られ、講堂・図書棟・回廊を一体化した独特の構成を特徴とする[1]。
概要[編集]
藍謝堂大学は、明治末期に建設されたとされる学寮兼講堂複合施設で、現在では日本の近代高等教育建築を代表する建物の一つとして扱われている。名称に「大学」を含むが、実際には創建当初から単一の学校法人に属する校舎ではなく、寄付者一族の会合施設と教場を兼ねていたとする説が有力である[1]。
敷地は東京都文京区の旧学術街区に所在するが、設計記録の一部は関東大震災で失われたため、建設経緯には不明点が多い。ただし、煉瓦外壁の色調が藍染めの発色に似ていたことから「藍謝」の名が生まれたとされ、これがのちに校名風の表記へ転用されたという。
名称[編集]
「藍謝堂」という名は、創設者のが所有していた染色商会「藍謝商店」に由来するという説が最も広く流通している。一方で、当時の学生新聞『本郷新報』には、建物完成を記念した祝辞の中で「青き志を謝してここに学ぶ」と記された箇所があり、名称は文芸趣味の強い校友会によって後づけで定着した可能性がある。
「大学」の付記については、の私立教育熱において、正式な大学昇格を前にした施設が自称的に「大学」を名乗る慣行があったことに由来する。なお、当時の東京市内では同様の命名が複数見られたが、藍謝堂大学ほど外観と名称の落差が大きい例は少ないとされる[2]。
沿革[編集]
創建[編集]
藍謝堂大学は、東京帝国大学周辺に集中していた私設講義所の一つとして計画された。建設費は約18万4,600円とされ、そのうち3割が藍染業者組合、2割が海運関係者、残りが匿名の篤志家によって負担されたと伝えられるが、寄付台帳の末尾が水濡れで判読不能なため、正確な内訳は研究者の間でも一致していない。
初代設計者の渡辺精一郎は出身の建築技師で、英国留学経験のあるR. C. ハリントンと共同で案をまとめたとされる。両者は「西洋講堂を日本の雨季に適応させる」ことを目的に、深い軒と通風窓を過剰なほど組み合わせた結果、外観がやや要塞めいたものになった。
拡張と転用[編集]
には講堂北翼が増築され、図書室、研究室、宿泊室、そして「謝恩の間」と呼ばれる謎の広間が追加された。これは同窓会の控室として説明されることが多いが、実際には学内交渉の最終合意がここでのみ成立したため、半ば会議場として機能していたとされる。
関東大震災後には一部壁面が亀裂を残したまま補修され、その補修材として横浜港に漂着した古材が用いられたとの記録がある。これにより外壁の一角だけ木目が交錯しており、現在でも「潮の来た壁」と呼ばれている。
保存運動[編集]
、再開発計画により解体案が浮上したが、建築史家の松浦久代らが中心となって保存運動を展開した。彼女らは建物の価値を「教育機関としてではなく、都市儀礼を担う器としての稀少性」に見いだし、文化庁へ提出した意見書は署名数3,412筆に達したとされる。
その後、1984年に外観保存・内部改修の方針が採用され、現在では展示施設と研究会場を兼ねる形で一般公開されている。ただし、地下の旧貯蔵室については安全上の理由で立ち入りが制限されており、そこで「未公開の藍染資料が保管されている」との噂が絶えない。
施設[編集]
藍謝堂大学の主棟は三層構成で、中央の講堂、南翼の図書棟、北翼の宿泊・準備室から成る。外観は赤煉瓦を基調とするが、窓枠や庇の装飾に藍色の釉薬瓦が用いられており、遠目には灰青色に見えることから、近隣では「夕暮れに色が変わる建物」と呼ばれている。
講堂内部は天井高11.8mで、中央に木造の折上げ天井が設けられている。音響効果は異様に良好で、の音楽会では、壇上の囁きが最後列まで届いたため、司会者が「演説には向くが秘密会議には向かない」と苦笑した記録が残る。
また、南翼の図書棟には、書架の背後に細い回廊が通されている。この回廊は本来、火災時の避難導線として設計されたものだが、学生たちが答案の受け渡しに用いたため、学内では「答案街道」と俗称された。現在でも改修前の木製札が一部残っている。
交通アクセス[編集]
最寄り駅はとされ、徒歩7分で到達できる。もっとも、初期の案内図では駅名が「本郷学寮前」と誤記されていたため、昭和中期までは来訪者の一部が迷い、近隣の方面まで回り込んでいたという。
都営バスの停留所も近接しており、文化財公開日には臨時便が設定される。なお、保存会は自家用車での来場を推奨しておらず、周辺道路が狭いことに加え、かつて講堂前で荷車が引っかかり出入口を半日ふさいだ事故が記録されているためである。
文化財[編集]
藍謝堂大学はに指定されているほか、近代煉瓦建築群の一角として学術的にも高く評価されている。とりわけ、外壁の一部に見られる通称「二重目地」は、補修を急いだ職人が目地材を二度塗りした結果であり、意図的意匠ではなかったが、後年の保存修理では逆に再現対象となった。
また、建物内部の黒板の裏から、頃の学生自治会規約が発見されたことがある。規約には「講義中に鳩を解放してはならない」と明記されており、当時の学内事情を示す一次資料として注目された。ただし、この条文が実際の鳩対策だったのか、あるいは学内劇の台本の一部だったのかについては、今なお議論がある。
現在では、春季と秋季に限定公開が行われ、建築史研究会の案内により内部見学が可能である。なお、案内の最後に必ず「藍謝堂の名は校舎にあらず、都市の記憶に由来する」と説明されるが、参加者の多くはそこで初めて、この建物が単なる大学施設ではなく、近代東京の社交文化を凝縮した装置であったことを理解するとされる。
脚注[編集]
[1] 近代和風建築史研究会編『本郷学術街区の形成と建築意匠』東都出版、2008年、pp. 114-139. [2] 佐久間あき『私立講堂の命名慣行と都市儀礼』新潮学術、2013年、Vol. 12, No. 4, pp. 51-68.
脚注
- ^ 近代和風建築史研究会編『本郷学術街区の形成と建築意匠』東都出版, 2008.
- ^ 佐久間あき『私立講堂の命名慣行と都市儀礼』新潮学術, 2013.
- ^ 渡辺精一郎『煉瓦と藍色―明治講堂設計覚書』建築史料社, 1909.
- ^ Margaret T. Holloway, “Lecture Halls and Civic Memory in Early Tokyo,” Journal of East Asian Built Heritage, Vol. 9, No. 2, 2016, pp. 77-104.
- ^ Robert C. Harrington, The Rainproof Hall Project, University Press of Yokohama, 1902.
- ^ 松浦久代『保存運動と戦後東京の文化財行政』東京文化研究所, 1986.
- ^ 山崎真一『藍染と煉瓦の相克』文化都市評論, 第18巻第3号, 1999, pp. 201-223.
- ^ 田島礼子『本郷の回廊と答案街道』建築史通信, 第7号, 1974, pp. 12-19.
- ^ Clara E. Whitfield, A Catalogue of Civic Halls in Meiji Japan, Albion Academic, 2011.
- ^ 『鳩を解放してはならない―学生規約史料集』東都資料刊行会, 2004.
外部リンク
- 藍謝堂大学保存会
- 東京近代建築アーカイブ
- 本郷学術街区研究センター
- 文化財デジタル目録・藍謝堂大学項目
- 近代講堂調査ネットワーク