虹組トップスター
| 名称 | 虹組トップスター |
|---|---|
| 別名 | 虹冠位、七色首位 |
| 初出 | 1928年頃 |
| 発祥地 | 大阪府宝塚市周辺 |
| 分類 | 舞台称号・興行制度 |
| 主な運用団体 | 関西演劇振興連絡会 |
| 関連制度 | 星組昇格試験、銀橋式評価 |
| 特徴 | 七色の襟章と月次更新制 |
| 廃止 | 1974年頃から形骸化 |
虹組トップスター(にじぐみトップスター、英: Nijigumi Top Star)は、末期ので成立したとされる舞台階級名である。もともとはの養成過程における仮称であったが、のちに独立した称号制度として広まり、中期には全国の商店街レビューにも転用されたとされる[1]。
概要[編集]
虹組トップスターとは、舞台・レビュー・商業宣伝の境界が曖昧であった初期に生まれた、出演者の格付け称号である。名称の「虹組」は、当初は周辺で試験運用された「補助演目班」を指したが、のちに七色の衣装を着用する座長格の者を示す語へ変化したとされる。
この制度は、単なる人気投票ではなく、歌唱点、足さばき、銀橋上での回転数、客席の拍手持続秒数などを加重平均して決定されたと伝えられている。もっとも、の改定で「笑顔の白さ」が評価項目に加わったため、後年の研究者からは「統計と感覚の混血」と評されている[2]。
成立の経緯[編集]
宝塚の仮設運用としての始まり[編集]
起源については諸説あるが、最も有力なのはにの稽古場で実施された臨時配役表が原型であるという説である。配役漏れを防ぐため、当時の演出助手であったが「青」「黄」「桃」などの仮色を付し、最上位の者だけに虹色の帯を許したことが始まりとされる。
この帯は当初、演出意図の誤認を防ぐための識別具にすぎなかったが、客席の観客がそれを「上席の証」と解釈したことで制度化が進んだ。なおの夏公演では、帯の染料が高温でにじみ、途中から本当に虹色に見えたため、一部の観客が「天候と連動した演出」と誤認したと記録されている[3]。
商店街レビューへの流出[編集]
に入ると、虹組トップスターの概念は演劇界を越え、の寄席や百貨店の宣伝公演にも輸入された。特にの屋上劇場では、週替わりで「今週の虹組トップスター」を選出し、選ばれた者はカーテンの前で3分だけ宣伝文を即興で読む義務を負った。
この運用は集客効果が高く、1934年には同店の屋上劇場来場者数が月間12,480人に達したとされる。ただし同年秋、雨天で虹色幕が紫外線により退色し、次週から「灰組トップスター」が併設されたため、制度の拡張がかえって客の混乱を招いたとの批判もある[要出典]。
制度の特徴[編集]
七色評価法[編集]
虹組トップスターの選定には、赤・橙・黄・緑・青・藍・紫の七項目が用いられた。これは見た目の華やかさだけでなく、舞台上での「色の遅延」まで測定する独自方式であり、衣装が照明に反射してから観客の手元に届くまでの時間を、係員が懐中時計で計測したとされる。
もっとも、に導入された「藍の深さ係数」は実質的に審査員の好みで決まり、同じ月に二人の受賞者が出たことから、以後は「準トップスター」「準々トップスター」という無駄に細かい階層が増殖した。これにより、地方巡業では紹介文が長くなりすぎて、開演前に半分が終わる事例もあった。
銀橋式と拍手秒数[編集]
舞台中心線を重視する式評価は、トップスター制度の象徴である。銀橋上での滞在時間、片足立ちの安定性、客席後方への視線到達率が点数化され、合計87点以上で虹組トップスター候補に入るとされた。
また、観客の拍手は拍手係が木製の計測板で測り、10秒以上の連続拍手が3回起きると「虹鳴り」として加点された。の東京公演では、あまりに拍手が長引いたため最終幕が2回延期され、当日の新聞が翌朝版でなく版に掲載されるという珍事が起きている[4]。
著名な虹組トップスター[編集]
初期の代表例[編集]
初代の代表格としてしばしば挙げられるのがである。彼女は後半にでの巡演中、雨で客足が止まった際に、傘を衣装に見立てて即興のソロを行い、結果として「雨の日ほど映える人物」として伝説化した。
同時期のは、歌唱力よりも台詞の復唱速度で評価され、共演者の台本を1.8秒で暗唱したことから「秒針の女王」と呼ばれた。なお、当時の記録では彼女の名前は3種類の表記で残っており、研究者のあいだで同一人物説が長く争われた。
黄金期の人物[編集]
の黄金期には、の港湾劇場から引き抜かれたが登場し、虹組トップスターのイメージを決定づけたとされる。彼女は毎公演前に照明係へ「今日は緑を0.7灯増やしてください」と細かく注文することで知られ、最終的に照明設計そのものへ介入した初の称号保持者となった。
またのレビュー小屋出身のは、退場時に必ず二回振り返る癖があったため、観客が帰れずロビーに滞留したことから「帰路停止型スター」と呼ばれた。この型はのちに地方興行の成功モデルとして研究され、観光経済の論文にまで引用されたという。
異端の受賞者[編集]
制度史上もっとも異端とされるのはのである。彼女は本来、舞台に立つ予定がなかったにもかかわらず、当日の停電で暗幕が完全に落ちた瞬間に客席へ懐中電灯を向け、「これが私の登場である」と宣言して拍手を得た。
この出来事は「非常時におけるトップスター性」の典型例として扱われ、以後の審査では「停電耐性」が暗黙の加点項目になったとされる。ただし、北見本人は晩年の回想録で「偶然である」と述べており、後世の神話化との距離が問題視されている。
社会的影響[編集]
虹組トップスターは、単なる舞台称号にとどまらず、中期の消費文化にも影響を与えた。百貨店の歳末抽選では「当選者の中で最も虹組的な振る舞いをした者」に追加景品を与える企画が行われ、にはの催事場でその判定をめぐる抗議が発生した。
また、学校教育への波及も大きく、関西地方の一部女学校では「礼法」「唱歌」「虹歩き」が並列で教えられたとされる。特に虹歩きは、廊下をまっすぐ進みつつ肩だけ少し内側に入れる所作であり、当時の教師は「就職に強い」と説明したという。
一方で、称号の過剰細分化は階層意識を助長したとの批判もあった。1960年代には「虹組ではない者は舞台人にあらず」といった極端な言説が雑誌に掲載され、文化評論家のはこれを「色彩を装った序列主義」と批判した[5]。
批判と論争[編集]
最大の論争は、虹組トップスターの認定基準が毎年微妙に変化していた点にある。審査基準は公表上は固定されていたが、実際には照明の明るさや舞台袖の湿度、さらには審査員が昼食に食べたの硬さまで影響したとされる。
とりわけの公演では、同一公演から3人のトップスターが同時に選ばれ、しかも翌週には全員が「参考記録」に格下げされた。この前例は制度の信頼性を大きく損ない、以後は「虹組トップスターの翌週持ち越し禁止」が内規として追加された。
なお、1970年代に入ると一部の演出家が「虹組」の語を広告に乱用したため、本来の舞台称号としての格が下がったという指摘もある。もっとも、当時のファン雑誌は逆にこの混乱を歓迎し、「毎月が昇格試験である」として紙面を埋め尽くした。
終焉と継承[編集]
制度としての虹組トップスターは、の演目改編を境に次第に使われなくなった。テレビ中継の普及により、観客が拍手秒数を直接体感しなくなったこと、また衣装管理がコスト高になったことが主因とされる。
しかし完全に消滅したわけではなく、以降は地方の商店街パレード、大学祭のミスコン、さらには社内表彰の呼称として残存した。特にの老舗劇場では、現在も年1回の記念公演で「名誉虹組トップスター」が授与されるが、選考委員会の実態は実質的に福引係であると指摘されている[要出典]。
このように、虹組トップスターは日本の大衆芸能における「見た目の序列化」と「観客参加型評価」の極端な融合例として記憶されている。学術的には、近代日本のレビュー文化を理解するうえで重要な概念とされる一方、実務的には「やけに手間のかかる人気投票」と要約されることが多い。
脚注[編集]
関連項目[編集]
の文化
の劇場文化
脚注
- ^ 松原久平『虹色帯と配役表――関西レビュー初期史』関西演劇研究会, 1938.
- ^ 田所健次「虹組制度の社会学的検討」『演劇と都市』Vol. 12, No. 3, pp. 41-67, 1964.
- ^ 白石ルリ『銀橋の上で考えたこと』南風書房, 1959.
- ^ 中村英策「拍手秒数の計測法とその誤差」『舞台技術年報』第7巻第2号, pp. 88-102, 1942.
- ^ Margaret A. Thornton, “Color Ranking and Audience Submission in Prewar Osaka,” Journal of Performative Systems, Vol. 5, No. 1, pp. 19-33, 1971.
- ^ 北見サクラ『停電とわたし』港町出版, 1970.
- ^ 佐伯昌弘「虹歩きの教育的効果」『近代女子教育史研究』第18巻第4号, pp. 201-219, 1983.
- ^ Eleanor W. Pike, “Top-Star Hierarchies in Japanese Revue Houses,” Theatre Quarterly Review, Vol. 9, No. 2, pp. 74-96, 1968.
- ^ 関西演劇振興連絡会編『虹組トップスター制度要覧 第3版』連絡会資料室, 1937.
- ^ 山根照夫『灰組トップスター誕生秘話』東都出版社, 1961.
外部リンク
- 関西演劇アーカイブス
- 宝塚周辺舞台史資料館
- 虹組研究会
- 昭和レビュー年鑑
- 銀橋文化調査室