西園寺重一郎
| 本名 | 西園寺 重一郎 |
|---|---|
| 生年月日 | 1872年4月18日 |
| 没年月日 | 1941年11月3日 |
| 出身地 | 京都府上京区(とされる) |
| 職業 | 考案家、翻訳家、静寂技師 |
| 主な業績 | 家屋内静寂学の体系化、無音戸締装置の設計 |
| 所属 | 帝都静寂協会、東京家内改良同盟 |
| 影響 | 住宅文化、夜間礼法、鉄道周辺の生活音規制 |
西園寺重一郎(さいおんじ じゅういちろう、 - )は、後期から初期にかけて活動したの考案家、翻訳家、ならびに「家屋内静寂学」の創始者である[1]。とくにで普及した「無音戸締装置」の設計者として知られ、のちにの半公式委員を務めたとされる[2]。
概要[編集]
西園寺重一郎は、末期に「音は意志よりも先に家を壊す」と主張し、住宅の開閉音や座敷の軋みを抑制するための各種装置を提唱した人物である。彼の理論は後にに吸収され、期の都市中産階級に広く受容されたとされる[3]。
もっとも、重一郎の活動は工学、民俗学、礼法、そしてほぼ占星術に近い勘所が混ざっており、同時代の記録でも評価が割れていた。とくにとで配布された彼のパンフレット『静かなる戸』は、1921年版で2万4,800部が刷られた一方、実際に装置を導入した家屋は約1,130戸にとどまったとされる[4]。
生涯[編集]
出自と青年期[編集]
重一郎はの旧家に生まれたとされるが、家系図の一部はにあやかった後年の改竄ではないかとの指摘がある。少年期には沿いの機械店で真鍮製の蝶番に魅せられ、のちに「音の出ない金具」を生涯の課題とするようになったという[5]。
で英独両語を学んだ後、の聴講生として物理学講義に出入りしたとされる。もっとも、正式な学籍簿は残っておらず、彼が自称していた「耳に関する比較工学」は、当時の学生名簿には見当たらない。
帝都静寂協会の設立[編集]
、重一郎はの貸席でを発足させた。参加者はわずか17名であったが、その内訳には建具職人、新聞記者、元軍楽隊員、そして菓子問屋の番頭が含まれていたという。協会は月例で「引戸の着地音」「湯呑みの接触音」「玄関石の反響」を測定し、数値化することを目的とした[6]。
彼はこの時期に、布張りの敷居、砂袋入りの靴箱、戸車に蜜蝋を塗る技法を整理し、これを総称して「家屋内静寂学」と命名した。初期の会報には、音量をデシベルではなく「不快係数」で表す独自指標が用いられていたが、算出法は執筆者ごとに違っていた。
晩年[編集]
の後、重一郎は仮設住宅の騒音問題に関与したとされる。焼け跡での生活では戸締りの音よりも足場のきしみが問題になり、彼は「音の少ない救援小屋」の設計図をに提出したが、実際には屋根板が薄すぎて夜露に弱かったため、普及は限定的だった。
に入ると、彼はの港湾倉庫の共鳴対策や、沿線の住宅密集地での生活音調整に助言したとされる。ただし、晩年の講演録はやけに哲学的で、「最上の静寂とは、誰かが二度目に戸を閉めるときに初めて訪れる」といった、意味がありそうでない言葉が多い。
家屋内静寂学[編集]
家屋内静寂学は、住居内で発生する微細な音の発生源、伝播、抑制を研究する半学術的分野として説明される。重一郎はこれを「生活の礼節を音響で測る学」と定義し、、、の三類型ごとに対策が異なるとした[7]。
この分野が奇妙に発展した背景には、後期の都市化がある。路面電車、煉瓦舗道、共同井戸の水音が増えるなか、重一郎は「家の中だけは無風でなければならない」と説き、の住宅改良担当者にしばしば呼び出された。彼の理論は、のちに防音材メーカーや畳店に好都合な形で翻案され、学術と商業の境目が曖昧になったとされる。
一方で、当時の批判者は「静寂を欲するほど人は音を立てる」として、彼の装置を過剰に神経質な中流家庭の象徴と見なした。もっとも、昭和初期には沿線の集合住宅で実用面が評価され、戸車の摩擦を抑える蜜蝋配合比率だけで13種類が試作されたという。
無音戸締装置[編集]
機構[編集]
無音戸締装置は、引戸が鴨居に接触する瞬間の衝撃を分散させるために、竹製緩衝片と鹿皮の薄板を組み合わせた装置である。標準型は幅24.7センチ、厚さ1.8センチ、重量112グラムで、取り付けに要する時間は熟練工で14分、初心者でおよそ31分とされた[8]。
重一郎はこれを「戸は閉まるのではなく、納得して静かになる」と説明したが、実演では装置が湿気を吸って扉が半開きになる事故がたびたび起きた。そのための沿線では、冬季限定の配布が行われたという。
普及と失敗[編集]
装置はの実演会で人気を集め、1924年にはの家具店8店舗が取り扱いを開始した。しかし、購入者の約3割が「音は減ったが、家族の呼び出しが聞こえなくなった」と苦情を申し立てたため、後期型では微弱な反響板が追加された[9]。
なお、重一郎はこの欠点を逆手に取り、「静寂は安全と引き換えである」と述べたと伝えられる。これがのちに防犯業界の広告文句として流用され、彼の名は一部で「静かな危険を作る男」としても知られるようになった。
社会的影響[編集]
重一郎の活動は、住宅設備だけでなく生活規範にも影響を与えたとされる。とくに初期のでは、夜間に戸を閉める際に一拍置く「重一郎式礼法」が流行し、下宿案内にも「当宿、無音戸締流可」と記される例が現れた[10]。
また、系の家庭教育雑誌では、子どもに対して「走る前に床板を覚えよ」とする記事が掲載され、学校の廊下に毛氈を敷く試みまで実施されたという。もっとも、こうした動きは一部の都市部に限られ、地方では「静かすぎる家は火事が起きてから気づかない」と警戒された。
戦前の住宅統計を読むと、静寂改修が行われた世帯は時点で全体の0.8%程度にすぎないが、広告や講演による心理的影響は大きかったとされる。特に百貨店の住宅展では、彼の名を冠した模型居間が毎年の目玉になった。
批判と論争[編集]
重一郎への批判は、工学的なものと倫理的なものに分かれる。前者は装置の耐久性や測定法の曖昧さを問題視し、後者は「静寂」を中流家庭の規範として押しつけたとみなした。とくにのでは、彼の提唱する「静けさ優等住宅」が、長屋の共同性を損なうと論じられている[11]。
なお、の匿名教授が残したとされるメモには、「彼の装置は美しく、実用には少しだけ奇跡が足りない」と書かれていた。これは後年、重一郎本人の筆致ではないかという説もあるが、筆跡の一致率は73%とされ、決着を見ていない。
さらに、1932年頃には彼の講演会で「静寂税」の導入を求める聴衆が現れ、会場がかえって騒然となった事件がある。この出来事は、彼の思想が成功しすぎた結果として語られることもある。
死後の評価[編集]
重一郎の死後、その名は一時忘れられたが、にの技術史調査で再評価された。調査報告では、彼の試案が「住宅の沈黙を定量化しようとした最初期の試み」と位置づけられ、のちの建具工学にも影響したとされた[12]。
一方で、以降の建築史研究では、彼の資料の出典不明部分が問題となり、特に『静かなる戸 第二輯』に収録された図面の一部が、実はの閲覧用封筒の裏紙に描かれていたことが判明している。とはいえ、その雑な真正性こそが彼の魅力であるとする研究者も多い。
現在では、住宅史と音響文化史の狭間に位置する奇人として扱われることが多いが、実務家のあいだではなお「戸を閉める前に半歩引く」という彼の教えが生きているという。
脚注[編集]
関連項目[編集]
脚注
- ^ 佐伯静男『家屋内静寂学序説』帝都静寂協会出版部, 1922年.
- ^ Margaret A. Thornton, “Domestic Silence and Urban Etiquette in Early Shōwa Japan,” Journal of East Asian Acoustic Studies, Vol. 8, No. 2, 1976, pp. 114-139.
- ^ 河合光一『無音戸締装置考』東京建具研究会, 1925年.
- ^ 田村信彦『近代住宅における音の政治』河出書房新社, 1984年.
- ^ Hiroshi Endo, “The Soft-Hinged Door: A Forgotten Device,” Architectural Folklore Quarterly, Vol. 12, No. 4, 1991, pp. 55-72.
- ^ 西園寺重一郎『静かなる戸 第二輯』私家版, 1931年.
- ^ 杉山雅章『都市のきしみと礼法』岩波書店, 2002年.
- ^ Robert P. Ellsworth, “Quietness as Domestic Control,” The Nippon Review of Material Culture, Vol. 3, No. 1, 1968, pp. 9-28.
- ^ 京都府建築史料調査会編『明治・大正住宅改良資料集』京都府史料叢書, 1959年.
- ^ 山根玲子『静寂の経済学』NTT出版, 2011年.
- ^ 大阪住宅文化研究所『都市下宿の作法と音環境』, 1930年.
- ^ M. A. Thornton, “On the Measured Silence of Saionji Jūichirō,” Proceedings of the Society for Speculative Domestic Engineering, Vol. 1, No. 1, 1979, pp. 1-17.
外部リンク
- 帝都静寂協会アーカイブ
- 日本住宅音響史研究所
- 西園寺重一郎資料室
- 建具と生活音の博物誌
- 関東震災住宅復興データベース