遠野まずうちのどか(とおのまずうちのどか)
| 氏名 | 遠野 まずうちのどか |
|---|---|
| ふりがな | とおの まずうち のどか |
| 生年月日 | 10月3日 |
| 出生地 | 遠野市 |
| 没年月日 | 6月21日 |
| 国籍 | 日本 |
| 職業 | 民俗調律家、即興語り師 |
| 活動期間 | - |
| 主な業績 | 「まずうちのどかのどか節」制定、共同聞書(ききがき)法の考案 |
| 受賞歴 | 宮内省芸能顕彰(大正期)、民俗学研究奨励賞(昭和期) |
遠野 まずうちのどか(とおの まずうちのどか、 - )は、日本の民俗調律家(みんぞくちょうりつか)である。彼は「まずうちのどかのどか節」として知られる即興語りの体系を確立した[1]。
概要[編集]
遠野まずうちのどかは、日本の民俗調律家として知られる人物である。人々が語り継ぐ歌や昔話を、単に「聞く」のでなく、声の強弱・息継ぎの位置・床板の軋み方までを含めて「調律」し、共同体の記憶を再編する技法を体系化したとされる。
彼の名が特に広く流通したのは、「まずうちのどか」の語りが、旅回りの講談師にも農村の寄合にも同じ確率で刺さるとして、記録が各地の書簡や新聞切り抜きとして残ったためである。なお、彼が作ったとされる「まずうち三原則」には一見すると学術的な形式がある一方で、実際には妙に生活臭い条件(雨樋の鳴る周期や囲炉裏の炭の黒度)が混ぜられていたとも言われている[2]。
生涯[編集]
生い立ち[編集]
遠野まずうちのどかは、遠野市の「遠野寒造り(ひやづくり)」を行う家に生まれた。家業は酒造ではなく、寒の間だけ家屋の梁を鳴らし、木材の“季節の癖”を測ることだったとされる。
彼は10月3日に出生し、出生時刻は「東の雲が三指(約4.5センチ)だけ流れた頃」と家記録にある。誕生から7日目に、母が庭の石を三回撫でることで子の声が整った、と言い伝えられたことから、以後、彼は“声が先に育つ子”として扱われた[3]。
また、幼少期に読んだという『梁鳴(はりなり)の暦』は現存が確認されていないが、彼の癖として「聞こえない音を“聞こえる形”に変える」ことが挙げられている。
青年期[編集]
、彼は15歳で遠野から北上し、旧制に類する「県立声調学院(せちょうがくいん)」の前身である簡易講習に通ったとされる。そこで指導を受けたのは、音響ではなく家相と声量の相関を研究した付属の講師・であった。
猿沢は、声の高さを測る代わりに「門の戸当たりが何回で静まるか」で計る手法を教えたとされる。遠野まずうちのどかは、同じ語句を繰り返しているのに、戸が静まる回数が変わることに気づき、「語りは生き物であり、部屋が育てる」と結論したと記録されている[4]。
この青年期に、彼は短歌ではなく“余白のある文”を好み、語り終えた後の沈黙を「第二の主題」と呼ぶようになった。
活動期[編集]
活動期の転機は、26歳のときに起きた「郷寄合同期(ごうよりあいどうき)」事件である。ある村で語り部が相次いで倒れたと報告された際、まずうちのどかは医者の代わりに共同席に入り、語りの順番と息継ぎの間隔を再設計したとされる。
彼の手法は“同席者の呼吸曲線を目視で数える”という奇妙さで知られ、実際の記録では、各人の息継ぎが平均で「1分あたり12.4回」になったところで語りが定着したとされる。さらに、彼は「炭の黒度が3(灰色から黒へ移る中間)の日は、笑いが先に出る」と書き残したとされ、ここだけがやたら具体的である[5]。
以後、彼は各地の寄合を“即興の工房”として運営し、聞書を残す際は「誰が何を語ったか」よりも「語りがどう変形したか」を重視したとされる。
晩年と死去[編集]
晩年の代には、戦時下で寄合が縮小し、人々の声が“短くなる”ことが問題になったと彼は嘆いたとされる。彼はに地方紙『内陸声報』へ連載記事「沈黙の測り方」を寄せ、紙面上で“読むと息が整う符号”を作ったとも言われている。
ただし晩年の活動は、後述の批判にもある通り、過度な儀礼化が懸念された。最後の公開語りは、その翌年の6月21日に、71歳で死去したとされる。死因は「胸の中の響きが途切れたため」と書簡に記されており、公式記録では肺炎として扱われたともされる[6]。
遺品としては、音差を測るための小型振り子と、語りの合図に使った木片が残ったと伝えられている。
人物[編集]
遠野まずうちのどかは、きわめて穏やかな性格でありながら、議論になると突然“言葉の温度”を指で測る癖があったとされる。弟子たちは、彼が「語りは火傷しないように出せ」と繰り返したことを覚えているという。
逸話として有名なのは、ある冬の講演で彼が観客に「笑う前に、右足のつま先を3ミリだけ上げてから、言葉を落としてみなさい」と指示した出来事である。観客の笑い声が揃って発生し、彼が即座に“団子のように連結した笑い”と呼んだことから、場が一体化したと記録されている[7]。
また、彼は人の名前を正確に言うのを苦手としていたが、誤っても直ちに謝らず「あなたの名前は今日の声に合わせて短くなる日」と説明したとされる。こうした態度は、学者には理解しづらい一方で、寄合の場ではむしろ安心感として受け止められた。
業績・作品[編集]
遠野まずうちのどかの代表的業績は、「まずうちのどかのどか節(ぶし)」と、その運用規則である。のどか節は、昔話の骨格を崩さず、語り手が“間違えたように聞こえる正しさ”を作る技法であると説明された。
彼の著作として挙げられるのは、『共同聞書の粒度(りゅうど)』である。ここでは、聞書の最小単位を「粒」と呼び、紙の上ではなく、部屋の床が鳴るタイミングを基準に記録するよう求めているとされる。実際の校正メモでは、粒度の指標が「床板がミリ単位でたわむ時間 0.83秒」を中心に置かれていたとされるが、原稿は散逸したとされる[8]。
ほかに、『沈黙の測り方』()や、弟子向けの手引書『口の中の調律譜(ちょうりつふ)』が挙げられる。なお『口の中の調律譜』では、発音練習の段階が「第1息、2分の1息、残響息」といった比喩で表されており、音楽学の観点からは異色とされた。
後世の評価[編集]
遠野まずうちのどかは、後世において「民俗と音響の中間に立った人物」として位置づけられることが多い。一方で、評価は二分されている。
肯定的な見方では、彼の手法が地域の語りを“復元”するだけでなく、“共同体の合意形成”に寄与したとされる。特に、彼が設計した寄合の進行表が、子どもから老人まで発話の順番を等分にしたため、孤立が減ったという伝承がある[9]。
反対に、批判としては、彼の調律が次第に儀礼化し、語り手が「正しい間」を守ることに追われるようになった点が指摘されている。結果として、即興の幅が狭まり、逆に“息が詰まる”場になったという声もある。なお、最も有名な論争として、彼が使った「炭の黒度3」条件が、科学的根拠というより“その日の流行”に左右されていたのではないか、とする指摘が残っている[10]。
系譜・家族[編集]
遠野まずうちのどかの家系は、声を“梁の癖”に結びつけて測る家として語られる。父は遠野の木材検分に従事したの記録係であるとされ、母は寒造りの手当てを担ったとされる。
彼には3人の弟がいたとされるが、名が伝わるのは長男ののみである。澄之介は、まずうちのどかが亡くなった後も弟子たちの会計を担い、語りの会費を「年額で金 3円・米 2斗・味噌 1樽」として固定したという記録がある[11]。
また、彼の唯一の弟子兼協力者として、出身の校正係が挙げられる。佐々木は彼の文章の癖を整える役を担ったとされるが、逆に“直されたはずの妙さ”が時々残るのは佐々木がわざと残したのではないか、とも噂されている。
脚注[編集]
関連項目[編集]
脚注
- ^ 遠野まずうちのどか『共同聞書の粒度』内陸声報社, 【1932年】.
- ^ 猿沢 亘次郎『戸当たり静定論:声量の近似測定』声調学院出版部, 【1907年】.
- ^ 佐々木 たか『編むことで残る逸脱:口の中の調律譜校正版メモ』暁文庫, 【1941年】.
- ^ 渡辺精誠『民俗の再編と呼吸の間:調律法の社会学的読み替え』日本民俗学会, 【1938年】.
- ^ Kobayashi, Haruto “Tuning Folk Memory by Room Resonance”, Journal of Rural Acoustic Studies, Vol. 12, No. 3, pp. 41-58, 【1939年】.
- ^ Thompson, Lydia A. “Silence as a Measurement Unit in Oral Performance”, Transactions of the Comparative Folklore Society, Vol. 5, No. 1, pp. 9-27, 【1946年】.
- ^ 内田清照『炭の黒度と笑いの発生確率』民間機関紙編集局, 第2巻第1号, pp. 12-19, 【1935年】.
- ^ 宮城県教育会編『近代語りの技法:沈黙の測り方注釈集(仮)』教育会叢書, 【1948年】.
外部リンク
- 遠野のどか節アーカイブ
- 声調学院コレクション
- 共同聞書データベース
- 内陸声報 切り抜き館
- 沈黙測定 研究会