野田市・流山市・松戸市・市川市・浦安市合併構想
| 正式名称 | 野田市・流山市・松戸市・市川市・浦安市合併構想 |
|---|---|
| 別名 | 東京湾東岸統合構想、五市連衡案 |
| 提唱時期 | 1987年頃 |
| 主導組織 | 千葉県東葛湾岸広域調整会議 |
| 対象地域 | 野田市・流山市・松戸市・市川市・浦安市 |
| 想定人口 | 約236万8000人 |
| 想定庁舎 | 新松戸臨海合同庁舎案 |
| 主な論点 | 財政調整、湾岸交通、学区再編 |
野田市・流山市・松戸市・市川市・浦安市合併構想(のだし・ながれやまし・まつどし・いちかわし・うらやすしがっぺいこうそう)は、北西部の5市を単一の特別自治体へ再編することを目的としたとされる広域行政構想である。後年には「東岸統合構想」とも呼ばれ、の非公式協議を起点としていると伝えられる[1]。
概要[編集]
野田市・流山市・松戸市・市川市・浦安市合併構想は、・・・の結節域にまたがる5市を、単一の広域市へ統合するという構想である。行政効率の向上に加え、岸の物流・住宅・観光機能を一体化する狙いがあったとされる。
もっとも、構想の実態は単純な合併論ではなく、湾岸埋立地の境界線処理、学校給食の規格統一、そして「市役所が多すぎて地図が読みにくい」という住民苦情への対策が奇妙に混じったものであった。後世の研究では、当初はの内部文書に記された「仮称・第3東葛特別区」が母体であったとも推定されている[2]。
成立の経緯[編集]
湾岸再編ノートと呼ばれた草案[編集]
発端は、企画部の嘱託職員であったが作成した覚書「湾岸再編ノート」にあるとされる。そこでは、の醤油物流、の新興住宅地、の商業集積、の教育施設、の観光税収を一体運営した場合、年間で約41億円の間接費が削減できると試算されていた。
ただし、この試算はの台風17号による利根川流域の通行止め日数を基準にしたもので、後になって「災害時の迂回路が1本増えるだけで数字が半分になる」と指摘された。にもかかわらず、会議録には「合併後の市章は波と車輪と醤油樽を重ねるべし」といった妙に具体的な意見が残されている。
五市連衡会議[編集]
には、5市の副市長経験者、商工会議所役員、学校給食センター管理者ら17名による「五市連衡会議」が内のホテルで非公開開催された。ここで初めて、行政区域を湾岸・内陸・北部の3ブロックに分け、住民票発行だけは旧市名を残す「二重表示制度」が提案されたとされる。
会議は2日間に及び、2日目の昼食で側が提供した冷めにくいフタ付き弁当が高く評価されたことから、以後の協議は「弁当方式」と呼ばれた。なお、議事録の一部には「市議会定数を72ではなく73にした方が発言が円滑である」との記述があり、これは後年まで要出典扱いとなっている。
構想の内容[編集]
構想では、新自治体の名称候補として「東葛湾岸市」「新東京東端市」「五浜市」などが検討されたが、最終的には地名認知度を優先して長大な連結名が仮称として残された。これは住民投票用の投票用紙に名前をそのまま印字すると1行に収まらないため、正式名称が実質的に採用されなかった珍しい例とされる。
行政機能はの教育・文化部門、の本庁行政、の都市計画、の食料流通、の観光・湾岸管理に分割される予定であった。また、消防指令センターはの高層ホテル上層階に設ける案があったが、強風時の揺れが理由で見送られた。
特筆すべきは、通学区域の編成である。構想資料では、1年生は旧市内、2年生は隣接市、3年生は「越境学習」という名目で最長8.4kmの通学を許容する設計が示されていた。これに対し、保護者側からは「学力向上より先に靴底が削れる」との反発が起きたという。
反応と論争[編集]
5市の住民反応は一様ではなかった。では税収の大きい工業地帯への期待が根強かった一方、では「自分たちの住所表記が長くなる」ことへの懸念が強かった。では新駅周辺開発との整合性が争点となり、では教育行政が混乱することへの警戒が示された。では、合併すれば市内の坂が何倍にも見えるのではないかという半ば冗談のような意見まで出たとされる。
の住民説明会では、反対派が「統合は結局、庁舎が遠くなるだけである」と主張したのに対し、推進派は「窓口が1つになることで、書類の記入欄も1つ減る」と応じた。しかし実際には、5市の業務を統合するために新たな内部調整が23層も必要になると判明し、構想は次第に「合併」より「連絡会議の連絡会議」の性格を強めた。
歴史[編集]
平成初期の再燃[編集]
、の余韻を背景に、再開発と財政再建を兼ねた広域合併論が再燃した。とりわけ南部の埋立地との観光開発を一体化する案が注目され、周辺の渋滞対策を名目に、湾岸道路に臨時の「合併優先車線」を設ける計画まで検討された。
この時期の資料には、各市の代表が会議後に赤い折りたたみ自転車で相互訪問したため、移動時間の感覚が共有されたという逸話がある。もっとも、これは後年の聞き書きであり、実際には全員がの普通列車を使っていた可能性もある。
断念と残響[編集]
頃までに、財政規模よりも自治体文化の差異が大きすぎるとして、合併構想は事実上棚上げとなった。特に、の農工混在地帯との海浜新市街では、住民が望む行政サービスの想定が大きく異なり、一本化が困難であった。
ただし、構想は完全には消滅せず、その後の地域におけるごみ処理広域化、図書館相互利用、消防無線共通化に影響を与えたとされる。研究者の間では、「合併は失敗したが、境界線の会話だけが先に統一された」と評されている。
社会的影響[編集]
この構想が社会に残した最大の影響は、自治体合併を「名前の長さ」で測る風潮を広めたことである。以後、内の行政文書では、長すぎる仮称を付けると交渉が止まるという経験則が半ば定説化した。
また、合併議論を契機に、各市の広報紙が互いの暮らしを紹介する連載を始め、結果として住民が隣市の祭礼や学校給食に妙に詳しくなった。なお、一部の市民団体はこれを「合併未遂による相互理解の成功例」と評価している。
一方で、交通網の一体化を先行させた結果、駅名が地域アイデンティティを上書きするという副作用も指摘された。とくに・・の周辺では、利用者が「自分が今どの市にいるか分からない」と答える調査結果があり、構想の余波としてしばしば引用される[3]。
批判と論争[編集]
批判の中心は、そもそも5市を1自治体にする必然性が曖昧であった点にある。合併推進側は「広域行政の合理化」を掲げたが、反対派は「合理化の前に、会議資料が7種類あること自体が非合理である」と反論した。
また、構想書の末尾にあった「将来的に東岸の諸市とも接続可能」との一文が、無限拡張を招く危険な発想として批判された。これに対して当時の作業部会は、「接続可能」とはあくまで地図上の話であり、実際に隣接市を増やす予定はないと説明したが、翌月には補足資料が12ページ増えていた。
もっとも、この一連の論争は、地方自治をめぐる住民参加の初期事例として再評価されてもいる。なお、東岸地域では今なお、合併説明会で配られた灰色のクリアファイルが家庭内で重要書類の保管用に使われているという。
脚注[編集]
[1] 千葉県広域行政史編纂委員会『東葛湾岸再編資料集 第4巻』県政資料出版, 2003年.
[2] 山岸直哉「平成初期における湾岸自治体統合構想の系譜」『地方自治研究』Vol.18, No.2, pp. 44-67, 2011年.
[3] K. Thornton, “Boundary Confusion and Commuter Identity in Eastern Chiba,” Journal of Urban Misalignment, Vol. 7, No. 1, pp. 12-29, 2016.
関連項目[編集]
脚注
- ^ 千葉県広域行政史編纂委員会『東葛湾岸再編資料集 第4巻』県政資料出版, 2003年.
- ^ 山岸直哉「平成初期における湾岸自治体統合構想の系譜」『地方自治研究』Vol.18, No.2, pp. 44-67, 2011年.
- ^ K. Thornton, “Boundary Confusion and Commuter Identity in Eastern Chiba,” Journal of Urban Misalignment, Vol. 7, No. 1, pp. 12-29, 2016.
- ^ 渡辺精一郎『湾岸再編ノート注釈版』東関東行政評論社, 1994年.
- ^ 佐伯真理子「合併未遂が学校給食に与えた影響」『都市行政季報』第12巻第4号, pp. 88-103, 2008年.
- ^ M. R. Ellison, “Merger Fatigue in Suburban Prefectures,” Civic Planning Review, Vol. 22, No. 3, pp. 201-219, 2019.
- ^ 市川都市政策研究会編『東京湾東岸自治体の境界と暮らし』港湾文化新書, 1999年.
- ^ 高橋尚之「新松戸駅周辺における行政中心性の変遷」『交通地理』第9巻第1号, pp. 5-21, 2005年.
- ^ N. Fujisawa, “The Five-City Coordination Model,” Asian Municipal Studies, Vol. 4, No. 2, pp. 77-91, 2002.
- ^ 『合併できなかった市たちの記録』東葛地方史叢書, 2015年.
外部リンク
- 東葛湾岸自治史データベース
- 千葉県仮称都市構想アーカイブ
- 五市連衡会議文書室
- 湾岸再編資料館
- 東関東地方自治メモリアルセンター