野間 瑚道
| 氏名 | 野間 瑚道 |
|---|---|
| ふりがな | のま こどう |
| 生年月日 | 1897年6月14日 |
| 出生地 | 日本・神路村 |
| 没年月日 | 1964年11月2日 |
| 国籍 | 日本 |
| 職業 | 民俗地形学者、詩人、測量記録家 |
| 活動期間 | 1919年 - 1964年 |
| 主な業績 | 瑚道式沿岸記譜法の創始、潮鳴図の作成、海女口承の体系化 |
| 受賞歴 | 特別功労章、 |
野間 瑚道(のま こどう、 - )は、の民俗地形学者、詩人である。海岸線の記憶を「音の地図」として記述した人物として広く知られる[1]。
概要[編集]
野間 瑚道は、日本の民俗地形学者、詩人である。の漁村に伝わる海岸の呼称、潮の癖、磯の音を独自に記録し、後に「瑚道式沿岸記譜法」と呼ばれる方法論を提唱した人物として知られる[1]。
彼の仕事は、地図に現れない地形の性格を言葉と符号で保存しようとする試みであり、の一部研究者やの民俗学者の間で長く珍重された。また、本人が残した詩篇『潮鳴集』は、学術記録と私的な感傷が混ざり合う異様な文体で評価されている。
生涯[編集]
生い立ち[編集]
野間は、神路村の網元の家に生まれた。幼少期から潮の引き方で浜の呼び名が変わることに強い関心を示し、家業の手伝いをしながら、漁師たちが用いる符牒や海女の口伝をノートに写していたとされる。
にはの遷宮関連の雑役に伴って周辺地名の聞き書きを行い、これが後年の「音による地形分類」の原型になったという。ただし、当時の記録は断片的で、地元では「書きつけの多い子ども」として知られていたに過ぎない。
青年期[編集]
、の予科に進んだのち、の地理学講義に出入りするようになった。そこで系統の地形観に触れたとする説があるが、野間本人は「山は沈黙し、海は反響する」と記しただけで、体系的な師弟関係は最後まで曖昧であった。
には、の港湾測量補助として短期間勤務し、埠頭の波音を季節別に採譜した。この時期に、音叉、方位磁針、紐、烏賊墨を組み合わせた携帯記録具を考案したとされ、後に本人はこれを「瑚道箱」と呼んだ。
活動期[編集]
、野間はに「浜の名残」という連載を寄稿し、漁村の小地名を地形・音響・伝承の三層で分類する方法を発表した。これが民俗地形学の創始と見なされることがあるが、同時代の学界では奇人の覚書として扱われることも多かった。
にはからにかけての沿岸を歩き、潮鳴の強い入江を九段階で格付けした「潮鳴図」を作成した。一般には1〜5段階の評価で十分とされたが、野間は「第8潮鳴」「半潮鳴」「逆潮鳴」を導入し、役場の地図係を困惑させたと伝えられる。
、の依頼で一部海域の暗礁名整理に関与したが、軍事利用を嫌って記録の多くを詩の形に改変したため、実務上はあまり役に立たなかった。なお、この件については戦後に再評価されたというより、むしろ「役に立たなすぎて伝説化した」とする方が近い。
晩年と死去[編集]
はの借家で暮らし、海岸線の変化を毎朝の散歩で記録していた。特にの台風後、浜の形が「昨日までの記憶を失っていた」と書いた一節は有名である。
、内の病院で死去した。享年。死去の直前まで、病室の窓から聞こえる雨音を「都市の潮騒」と呼び、看護記録の余白に沿岸記譜を続けたとされる。
人物[編集]
野間は寡黙であったが、記録を始めると異常に細かくなる性格であったとされる。たとえば、浜辺で拾った貝殻を「白、白灰、白灰青、白灰青の憂い」と4段階に分けて整理した逸話が残る。
また、海女や漁師に対しては非常に礼儀正しく、初対面では必ず自分の靴を脱いでから話しかけたという。これは「地面に借りを作らないため」と本人が説明したとされるが、周囲には単に変わり者として受け止められていた。
一方で、夜中にへ波の音を書き写す癖があり、同居していた甥は「叔父は紙に潮を置く」と語ったという。もっとも、本人はそれを詩作ではなく調査の一部と主張していた。
業績・作品[編集]
瑚道式沿岸記譜法[編集]
野間の代表的業績は、沿岸地形を単なる地図記号ではなく、音・匂い・伝承・禁忌の組み合わせとして記述する「瑚道式沿岸記譜法」である。記譜はからまでの符号群と、潮位・風向・方言・来歴を示す補助記号で構成され、1940年代には一部の地方史研究会で模倣された。
この方法は、の正式採用こそされなかったものの、沿岸集落の聞き取り調査において有効とされ、後年の文化地理学に奇妙な影響を与えた。特に「音が先に失われる土地ほど、地名は残る」という彼の命題は、今なお引用されることがある。
主要作品[編集]
代表作には、詩文記録集『潮鳴集』、調査報告『浜名の記憶』、論考『地図にない岬』などがある。なかでも『浜名の記憶』は、との海岸線を比較しつつ、同じ「磯」という語が地域ごとにまったく異なる音を持つことを論じた点で知られる。
また、晩年に私家版で刷られた『瑚道箱使用法』は、外装が厚紙製であったため「道具書というより弁当箱に近い」と評された。現存部数は少なく、の競りでは一冊が異例の高値で落札されたとされる。
関連研究と影響[編集]
野間の手法は、その後の、、の一部研究者に断続的な影響を与えた。特ににで開かれた「沿岸記憶研究会」では、彼の記譜法を用いて港の警笛や波返しの音を保存する試みが行われた。
ただし、実用性の面では賛否が分かれ、ある自治体では「分類が細かすぎて防災図面が読めない」として採用を見送った。これに対し野間は「読めない地図こそ、失われにくい」と返したと伝えられる。
後世の評価[編集]
戦後しばらくは、野間は地方史の奇人として半ば忘れられていた。しかし以降、やの文脈で再評価が進み、海岸の記憶を音として保存する先駆者として位置づけられるようになった。
一方で、彼の記譜法は記号体系が過剰に複雑で、現代の研究者からは「美しいが実務には向かない」と評されることが多い。また、潮鳴を九段階で評価した理由については、本人が「八では足りず、十では多いから」と述べたとする逸話があり、根拠の薄さゆえにかえって引用され続けている。
では毎年、地元史研究会による小規模な顕彰講座が開かれており、参加者は浜辺で貝殻を拾いながら野間の短詩を朗読するという。学術的というより半ば儀礼に近いが、この奇妙な追悼形式こそが彼の名を残したともいえる。
系譜・家族[編集]
野間家は代々の沿岸に暮らした漁師兼記録役の家系であったとされる。父・野間瑚三郎は網元、母・野間いと子は海女たちの口伝を記す補助役を務め、家には潮見表と古い帳面が常に積まれていたという。
妻はに結婚した野間すみゑで、和紙の補修と清書を担当した。すみゑは野間の奇癖をよく受け止めた唯一の人物とされ、夫が夜中に「浜の骨格」を語り始めると、黙って湯を差したという逸話が残る。
子は長男・野間海彦、長女・野間澄江の2人で、海彦は戦後に地方自治体の測量課に勤めた。なお、孫の代になると家系は都市部に移ったが、正月だけは必ず波音の録音を流す習慣があり、これを「家訓の残響」と呼んでいる。
脚注[編集]
[1] 野間自身の生前刊行資料は少なく、初出の人物評は死後の回想録に依拠する部分が大きい。
[2] 『潮鳴集』の初版奥付には、刊行年のほかに潮位欄が印字されていたが、これは本人の手による加筆とされる。
[3] 瑚道式沿岸記譜法の記号数は資料により揺れがあり、42種とするものと58種とするものがある。
関連項目[編集]
脚注
- ^ 野田 恒一『潮鳴と記譜の系譜』海鳴社, 1978年.
- ^ 佐伯 俊彦『野間瑚道研究序説』文化地理研究会, 1983年.
- ^ Margaret A. Thornton, "Coastal Memory and the Kodo System," Journal of Imaginary Geography, Vol. 12, No. 4, 1991, pp. 201-228.
- ^ 北村 章『浜の名残と音の測量』志摩文化出版, 1996年.
- ^ Hiroshi Tanaka, "A Study on Noma Kodō's Tide Notation," Proceedings of the Maritime Folklore Institute, Vol. 8, 2002, pp. 73-95.
- ^ 柳瀬 みどり『瑚道箱の使い方と誤用』港湾資料館叢書, 2007年.
- ^ D. W. Ellison, "When Maps Refuse to Stay Quiet," Review of Acoustic Cartography, Vol. 5, No. 1, 2010, pp. 11-39.
- ^ 伊藤 玲子『地図にない岬 野間瑚道の詩学』青潮書房, 2014年.
- ^ Kazuo Fukumoto, "The Nine Grades of Surf," Eastern Annals of Cultural Topography, Vol. 19, No. 2, 2018, pp. 144-167.
- ^ 『瑚道式沿岸記譜法便覧』日本沿岸記録協会, 1961年.
外部リンク
- 志摩民俗地形研究所
- 沿岸記憶アーカイブ
- 潮鳴集デジタル版
- 日本架空地名学会
- 東京古書会館目録検索