鎮西寿々歌
| 名称 | 鎮西寿々歌 |
|---|---|
| 別名 | 鎮西節、寿々歌、潮待ち歌 |
| 発祥 | 肥前国沿岸部(現・佐賀県・長崎県境付近とされる) |
| 成立時期 | 寛文年間から元禄年間にかけてと推定 |
| 分野 | 民俗音楽、祭礼、地域史 |
| 主な伝承者 | 久留島源之丞、白石みつ、山城院了翁 |
| 演奏形式 | 合唱、半語り、太鼓伴奏 |
| 関連施設 | 鎮西寿々歌保存会、潮見神楽殿 |
| 備考 | 近代以降は観光行事として再構成された |
鎮西寿々歌(ちんぜいすずか)は、西部の沿岸地域において、潮位の節目と豊漁祈願を結びつけて歌われたである。のちに、、の各分野にまたがる複合文化として再編された[1]。
概要[編集]
は、沿岸で行われたの儀礼に由来するとされる歌謡である。歌詞には、、、などの語が頻出し、もとは周辺の海人たちが航海安全を祈るために口伝したものと説明されている。
一方で、現在「鎮西寿々歌」と呼ばれる体系は、中期にの記録係であった久留島源之丞が、散在する港の唄をひとまとめにしたことから成立した、という説が有力である。なお、この整理作業の際に、源之丞が誤っての節回しを三節ほど混入させた結果、独特の抑揚が生まれたとされる[2]。
起源[編集]
潮待ちの歌からの成立[編集]
最古の原型は、9年にへ寄港した廻船の船頭帳に記された「すずか、すずか」という掛け声であるとされる。この掛け声は、潮が退くまでの待機時間を紛らわせるために用いられ、後にを中心とする応答歌へ発展した。伝承では、漁場に向かう前に必ず3回、に向かって歌う習わしがあったという。
という女性歌手の名がしばしば挙げられるが、実在したかどうかは定かでない。彼女は1回の祭礼で最大17節まで歌い切ったとされ、声がの岬まで届いたという逸話がある。ただし、この逸話は明治期の地誌家が脚色した可能性も指摘されている。
元禄再編と文献化[編集]
期になると、という僧侶が鎮西寿々歌を「風待ちの経」として写本化した。了翁本は全28章から成り、うち11章は海上での禁忌、9章は豊漁祈願、残る8章はなぜかの割れ方に関する訓戒で占められている。
この異様に細かな分類は、後年の学者が「港湾の実務記録としては有用である」と評価したことから、儀礼歌と実用書の中間に位置づけられるようになった。もっとも、了翁が実際に海を見たことがあったかは不明である[3]。
構成と演目[編集]
鎮西寿々歌は、前口上、潮読み、櫓歌、返し歌、鎮め節の5部で構成されるのが一般的である。演奏時間は短いもので8分、長いものでは41分に及び、特に鎮め節では歌い手がのまま1分半静止する所作が求められる。
楽器は、、が基本であるが、地域によってはやが打楽器として用いられた。味噌樽の使用は一部の研究者から「音響的にも衛生的にも問題がある」とされたが、潮風で樽が引き締まるため、かえって音が良くなるという謎の理屈が広く支持された。
また、歌詞の終止句に「すず、すず、すずか」と3回繰り返す部分があり、これがとの音義連関を生むとする民俗学的解釈がある。現代では、1番ごとに観客がを鳴らす演出が加えられることもある。
近代以降の変遷[編集]
保存運動の開始[編集]
32年、の郡視学だった渡辺精一郎が、廃れつつあった鎮西寿々歌を「地方教育の補助教材」として再評価した。これが保存運動の始まりとされ、翌年にはとの有志47人がを結成した。会則第4条には「歌唱前に潮位を確認すること」とあり、後に行政文書としては極めて珍しい条項として話題になった。
保存会は年1回の公開演奏を行い、1907年の第6回公演では観客数がちょうど1,283人に達したと記録されている。なお、この数字は座席数の端数処理の結果であり、なぜか当時の新聞は「1,280余名」と報じている。
観光資源化と競技化[編集]
38年にはの提案により、鎮西寿々歌は「港町の体験型芸能」として再編された。これに伴い、歌い手の衣装が作業着風から白地の法被へ変更され、歌詞に含まれていた禁忌表現の2割が削除された。
その後、1979年にのイベント会社が「寿々歌早唱選手権」を企画し、1節をいかに崩さず短縮できるかを競う形式が生まれた。最短記録は42秒であるが、審査員の1人が「速すぎて鎮まっていない」と評したため、現在も公式記録としては賛否が分かれている[4]。
社会的影響[編集]
鎮西寿々歌は、単なる民俗芸能にとどまらず、の士気向上、の郷土学習、の象徴として利用されてきた。とりわけ期以降は、地方自治体が「海と歌の共生」を掲げる際の定番文言として採用し、パンフレットに寿々歌の1節が引用されることが増えた。
また、の集計によれば、寿々歌の公開演目が行われた年は周辺の海産物売上が平均で8.7%上がったとされるが、これは祭礼期間に合わせて特売が組まれたためだとみる向きもある。いずれにせよ、との消費促進に寄与した点は否定しがたいとされている。
批判と論争[編集]
一部の研究者は、鎮西寿々歌の「古さ」は以降の地域史編纂で意図的に増幅されたものであると批判している。特に、了翁本とされる写本の紙質が期の和紙に近いという指摘は有名であり、真正性をめぐる論争は現在も決着していない。
また、保存会が1986年に導入した電子伴奏版については、「潮の気配が消える」「歌の後半で海より先にスピーカーが息切れする」などの批判が寄せられた。これに対し保存会側は、電子音もまた現代の潮として受け止めるべきだと反論したが、この説明は一部の民俗学者からはほとんど支持されていない[5]。
脚注[編集]
[1] 鎮西寿々歌研究会編『肥前港湾歌謡の系譜』潮流社、1998年。 [2] 田所春彦「長崎奉行所文書にみる潮待ち歌の編集」『海民史研究』Vol.12, No.3, 2004, pp. 44-61. [3] 山城院了翁『風待経注解』写本、元禄15年頃成立とされる。 [4] 中村礼子「観光化された民俗芸能の速度規範」『地域文化論集』第8巻第2号、1981年、pp. 7-19. [5] Shibata, K. “Acoustic Decomposition of Suzuka in Coastal Rituals,” Journal of Maritime Folklore, Vol. 5, No. 1, 1992, pp. 1-23.
関連項目[編集]
脚注
- ^ 鎮西寿々歌研究会編『肥前港湾歌謡の系譜』潮流社, 1998年.
- ^ 田所春彦『長崎奉行所文書にみる潮待ち歌の編集』海民史研究 Vol.12 No.3, 2004, pp. 44-61.
- ^ 山城院了翁『風待経注解』写本, 元禄15年頃.
- ^ 中村礼子『観光化された民俗芸能の速度規範』地域文化論集 第8巻第2号, 1981, pp. 7-19.
- ^ Shibata, K. 'Acoustic Decomposition of Suzuka in Coastal Rituals,' Journal of Maritime Folklore, Vol. 5, No. 1, 1992, pp. 1-23.
- ^ 佐藤美紀『港町における合唱儀礼の社会史』海と民俗社, 2007年.
- ^ 永井辰雄『鎮西寿々歌の旋律構造と潮位予報』九州大学出版会, 2011年.
- ^ Margaret H. Bell 'Ritual Song and Harbor Administration in Early Modern Japan,' East Asian Studies Quarterly, Vol. 18, No. 4, 2015, pp. 201-228.
- ^ 渡辺精一郎『郷土教育と歌謡保存』佐賀教育史料刊行会, 1902年.
- ^ 『寿々歌早唱選手権公式記録集』長崎県観光課資料室, 1980年.
外部リンク
- 鎮西寿々歌保存会公式記録館
- 潮見民俗芸能アーカイブ
- 肥前港唄デジタル年表
- 佐賀県地域文化データベース
- 海民口承研究所