開国博Y777
| 正式名称 | 開国博Y777 |
|---|---|
| 通称 | Y博、三連開国博 |
| 分野 | 都市博覧会、記念展示、交通再編 |
| 開催理念 | 開港史の再構成と臨海部活性化 |
| 主催 | 開国博Y777実行委員会 |
| 初回開催 | 構想、試行 |
| 本格展開 | 〜 |
| 開催地 | 臨港一帯 |
| 特徴 | Y字会場、回遊船、海上税関展示 |
| 来場者記録 | 延べ3,480,000人 |
開国博Y777(かいこくはくY777)は、を中心に設計された「開港後の都市再演」を目的とする巡回式の博覧会制度である。特に、型の展示動線と日運営という特殊な運用規格で知られている[1]。
概要[編集]
開国博Y777は、の開港記念を核としつつ、港湾都市の近代化過程を「見学可能な制度」として再編集した博覧会である。名称の「Y」はの頭文字とされるが、同時に三叉路状の展示回廊を表す記号でもあり、主催側は「都市そのものを一度Y字に折り曲げて見せる構想」と説明していた[1]。
この博覧会は、単なる観光イベントではなく、・・・を一つの導線にまとめ、来場者が半日でからの港湾史を往復できるよう設計された点に特徴がある。なお、当初の運営要項には「入場者は必ず一度、海風に対して背を向けること」との条項があり、都市計画の研究者から妙に評価されたとされる[2]。
一般には、という語から政治史的な印象を持たれやすいが、開国博Y777ではむしろ「都市が外へ向かって自己紹介し直す行為」を意味するものとして用いられた。もっとも、後年の解説では、担当者の一人が「開国とは、港の匂いを観客に覚えさせる技術である」と発言したため、結果としてかなり誤解を招く名称になったともいわれる。
歴史[編集]
構想の発端[編集]
起源は後半、の都市観光班との合同研究会に求められる。研究会は、戦後復興で埋もれた開港史をどう一般公開するかを検討していたが、当時の議事録には「史料を棚から出すだけでは人は来ない」「ならば都市の方を展示物にするべきである」といった過激な発想が残されている[3]。
このとき中心となったのが、都市史研究者のと、元・船舶広告デザイナーのであった。渡辺は開港地の年表を、ソーンダースは港湾サイン計画を担当し、両者が共同で作成した草案が後のY字動線の原型になったとされる。草案名は『Y-7 航路型歴史提示計画』で、7回読み返すと港の方向感覚が身につくという、今では理解不能な注釈が付されていた。
一方で、構想段階から「777」という数字が執拗に使われた理由については諸説ある。もっとも有力なのは、港の水域を7区画、陸上展示を7群、夜間照明を7色で統一する案が偶然重なったという説であるが、別の説では、担当技師がの元号末期に縁起担ぎとして足したという[要出典]。
試行開催と制度化[編集]
最初の試行は、造成前の仮設埠頭で行われた小規模な展示である。当初は来場者数4万2,700人を見込んでいたが、実際には潮位調整の失敗により、入場列が「待機」ではなく「停泊」と呼ばれる状態になり、結果として5万1,114人が記録された[4]。
この成功を受け、Y777方式は単発の催しから制度へと格上げされた。運営委員会はに『開国博臨時規格第17号』を公布し、展示会場を「本会場」「補助港」「離岸観覧席」「市街回遊区」の四系統に分類した。これにより、来場者は地上展示を見るだけでなく、地下通路で港湾労働の歴史を音響で体験することになった。
本格開催はで、の共同主催として大きな注目を集めた。なお、開会式では海上保安庁の協力のもと、汽笛の音程をに調律する演出が行われたが、のちに「少し低すぎて全体が哀愁を帯びた」と評された。
運営体制と展示構成[編集]
運営は、行政職員、民間広告会社、港湾技術者、そしてなぜかの四者連携で構成された。特に和装文化研究会は、来場者の誘導用に「港区画ごとに異なる袂の長さを採用する」という奇策を提案し、実際に一部の案内役が裾を持ち上げながら桟橋を歩いたことで話題になった。
展示構成は、中心に「開港史ドーム」を置き、その周囲に「黒船回廊」「税関資料庫」「外港夜景塔」「異文化食堂街」をY字に配置する方式であった。特に黒船回廊では、来航を模した立体映像と、船体の鋲を再現した直径3.2メートルの円環スクリーンが人気を博したという。
また、会期中は毎日17時7分に「港の逆光儀式」と呼ばれる一斉点灯が実施された。これは夕日を背にした市街地がもっとも「開国前夜らしく」見える時間帯を狙ったもので、撮影スポットとして定着した一方、近隣の飲食店からは「毎日1回だけ店内が観光地の記念写真の背景になる」と苦情も出た。
社会的影響[編集]
開国博Y777は、博覧会としての経済効果だけでなく、都市の自己理解を変えた点で評価されている。開催翌年にはの港湾史関連ツアーが前年の2.8倍に増加し、周辺では「開国風ソーダ」と呼ばれる青い炭酸飲料が3週間で12万本売れたとされる[5]。
また、交通面では会場周辺の動線整備がそのまま歩行者回遊モデルとして採用され、から海沿いへ向かうルートが「Yルート」として市民に定着した。ただし、この名称は公式には一度も採用されておらず、地元商店街が半ば勝手に呼び始めたものである。
教育面では、の社会科副読本に「港を展示する」という概念が掲載され、自治体史の学習方法にも影響を与えた。なお、ある教員は「この博覧会のせいで、生徒が『近代化とは照明の色である』と誤解した」と述べているが、実際にはそれほど誤解していない可能性もある。
批判と論争[編集]
一方で、開国博Y777は批判も多かった。まず、博覧会の理念が高度に抽象的であったため、一般来場者には「何を見ればいいのか分からない」という声が少なくなかった。実際、閉幕後のアンケートでは満足度が82.4%と高い一方、「展示よりも案内板の文体が印象に残った」が41.6%を占めたとされる[6]。
また、開国史の再演を掲げながら、実際には以降の港湾近代化に重点が置かれ、期の展示がやや演出過剰であったとの指摘もある。とりわけ、税関職員の制服を復元する際、ボタンの数を史実より1個多くしたことが問題化し、研究者の間では「1ボタン過剰論争」と呼ばれた。
さらに、会期末に実施された「7分間だけ潮を止める実験」は、港湾管理局の了承を得ていたとされるが、関係者の証言が食い違っている。ある技術員は「止めたのは潮ではなく案内放送である」と主張し、別の職員は「両方止まっていた」と回想している。なお、この件は現在ものままである。
後継企画と文化的位置づけ[編集]
開国博Y777の終了後、その運営思想は各地の地域博に継承された。では「出島型回遊展示」が導入され、では「坂道を読む博覧会」が試みられたほか、では海事史と夜景鑑賞を組み合わせる形式が流行した[7]。
研究者の間では、本企画は単なる集客イベントではなく、「都市の履歴を立体的に編集する装置」として再評価されている。とくに都市文化研究室は、Y777方式を「近代港湾都市の可搬型解釈モデル」と呼び、展示・交通・飲食・照明を一体化した事例として扱っている。
ただし、民俗学の一部では、開国博Y777を「平成期における最も体系的な都市まつりの一つ」とみなす一方、逆に「制度化されたノスタルジーの完成形」と批判する向きもある。両者の立場は今なお平行線であるが、少なくとも横浜の夜景を見上げた際にY字の動線を思い出す人がいる限り、この企画の影響は残り続けるとされる。
脚注[編集]
関連項目[編集]
脚注
- ^ 渡辺精一郎『港を展示する思想――開国博Y777の成立』港湾文化研究所, 2012年.
- ^ Margaret A. Thorson, "The Y-Route and Civic Memory", Journal of Urban Exhibition Studies, Vol. 18, No. 2, 2013, pp. 44-69.
- ^ 神奈川県立港湾史料館 編『開港史再演の技法』海風出版, 2010年.
- ^ 田島宏明「臨海部における回遊博覧会の動線設計」『都市計画評論』第27巻第4号, 2011年, pp. 103-128.
- ^ Linda K. Harrington, "Seven Colors for the Harbor: A Study of Expo Lighting", International Review of Civic Fairs, Vol. 9, No. 1, 2010, pp. 11-35.
- ^ 横浜市博覧会準備室『開国博Y777運営年報2009』横浜市役所, 2010年.
- ^ 佐伯直人『港風の経済学』みなとみらい文庫, 2014年.
- ^ Charles M. Wexler, "Public History on a Y-Shaped Axis", The Pacific Municipal Review, Vol. 22, No. 3, 2015, pp. 201-227.
- ^ 小林友紀「1ボタン過剰論争の政治学」『地域博研究』第5巻第1号, 2016年, pp. 7-19.
- ^ 和装文化研究会 編『袂の長さと都市誘導』東洋風俗社, 2009年.
外部リンク
- 開国博Y777アーカイブセンター
- 横浜臨港都市史データベース
- 港の逆光儀式保存会
- Y字回遊動線研究所
- 開港史再演プロジェクト委員会