1995年朝鮮国際博覧会
| 正式名称 | 1995年朝鮮国際博覧会 |
|---|---|
| 英語名 | 1995 Korea International Expo |
| 開催期間 | 1995年5月1日 - 1995年10月31日 |
| 会場 | 平壌国際展示区 |
| 主催 | 朝鮮国際博覧会準備委員会 |
| 参加国数 | 43か国 |
| 来場者数 | 延べ186万4,000人 |
| 登録展示面積 | 31万2,000平方メートル |
| テーマ | 未来の自立と協同 |
| 公式マスコット | トゥンガリ |
1995年朝鮮国際博覧会(1995ねんちょうせんこくさいはくらんかい、英: 1995 Korea International Expo)は、ので開催されたとされる国際博覧会である。冷戦後の対外文化政策を象徴する催事として知られ、のちに「幻の万国博」とも呼ばれた[1]。
概要[編集]
1995年朝鮮国際博覧会は、が生誕83年を記念して構想した国際博覧会であるとされる。表向きには工業・農業・科学技術・芸術を統合した総合博覧会であったが、実際には「国家の気温を上げるための巨大な展示装置」として設計されたとする証言が多い[2]。
準備はごろから始まったとされ、北部の湿地帯を埋め立てて造成されたを会場とした。会場計画にはのほか、の展示照明技術者、の木材構造顧問、さらにの音響監修班が関わったとされ、当時の国際協力の縮図として引用されることがある[3]。
背景[編集]
構想の成立[編集]
博覧会の構想は、の都市計画会議で、当時の文化相補佐官だったが「輸入よりも展示の方が安い」という趣旨の発言をしたことに端を発するとされる。これが内部で好意的に受け取られ、翌年には博覧会条例草案が作成された[4]。
なお、初期案では会期を3週間とする予定であったが、が「展示を短くすると記憶が定着しない」という独自の報告を提出したため、会期は6か月に延長されたという。もっとも、この報告書の署名欄には実在確認できない人物名が11名並んでおり、研究者の間では半ば伝説視されている。
国際招致[編集]
招致活動はとで非公開に行われ、通訳を務めたが各国代表に配ったという「展示用切手帳」が外交上の決定打になったとされる。切手帳にはの季節写真に加え、展示館の模型が立体印刷されており、押すと音楽が鳴る仕組みであった[5]。
とりわけとの中小企業団が強い関心を示したとされるが、これは博覧会会場に設置予定だった「自動会議室換気塔」のデザインが、北欧のサウナ建築に似ていたためだという。実際には、この換気塔は完成直前に鳥類保護の観点から停止され、のちに屋外楽器塔へ転用された。
開催経緯[編集]
開幕式[編集]
開幕式は午前9時15分、から中継された空撮映像を背景に開始されたとされる。司会はの人気アナウンサーで、開会宣言の直後にが演じた「回転する稲穂の舞」が披露された[6]。
このとき、会場南門の観覧車が予定より2分早く回転し始めたため、開会のテープカットが一度やり直されたという逸話が残る。博覧会史においては珍しく、やり直し後の映像が正式版として採用されたため、前半が微妙に明るく、後半が異様に荘厳である。
展示の特徴[編集]
展示は「国家自立館」「海洋未来館」「軽工業夢想館」「友誼技術館」の4系統に分けられ、各館が1日に7回ずつ異なる照明演出を行った。来場者は入口で発行される磁気札ではなく、厚さ0.7ミリの合成紙で作られた「行動票」を携帯する方式で、これが後の展示行政に影響したとされる[7]。
なかでも人気が高かったのは「未来の台所」コーナーで、、、など、用途はわかるが使い方が完全にはわからない展示が並んでいた。来場者アンケートでは満足度92.4%とされたが、同じ紙に「温度がやや高い」と書かれた回答が3万件以上集まったともいわれる。
閉幕と余波[編集]
閉幕式は予定通りに行われたが、実際には展示館の照明が一部残っていたため、公式には「完全閉幕」ではなく「季節移行」と呼ばれた。閉幕宣言を担当した副委員長は、「博覧会は終わるのではない、折りたたまれるのだ」と述べたとされる[8]。
閉幕後、会場の一部はとして再利用され、残りは演習展示場・農機具倉庫・冬季スケートリンクに転用された。特に観覧車の支柱内部に設置されていた送風配管が、のちに市内の暖房網に組み込まれたことから、博覧会は都市インフラ整備の転機だったと評価されることがある。
社会的影響[編集]
この博覧会は、の朝鮮における対外イメージ形成において、劇場的な外交の代表例とされている。外貨導入額は公称で4,800万ドル、実収支は不明であるが、少なくとも展示用ガラスの注文がとへ波及したことは確認できるとする資料がある[9]。
また、会場で配布された「博覧会記念傘」は、内側に会場案内図が印刷されていたため、雨天時に地図が読めなくなる欠点があった。これが逆に「地図を暗記して歩く観覧文化」を生み、1990年代後半の学生旅行で一時的に流行したという指摘もある。
一方で、展示演出に軍事技術の転用を感じさせるものが多かったため、の一部メディアは当時「見本市というより国家儀礼に近い」と報じたとされる。ただし、この報道を掲載した新聞名は資料ごとに異なり、とされることが多い。
批判と論争[編集]
博覧会をめぐっては、参加国数の算定方法に長く論争がある。公式には43か国であるが、展示のみ参加した団体や、開幕式の祝電だけ送った国家を含めると、最大で58か国に及ぶという見方もある[10]。
さらに、マスコットのが「半魚類・半機械」であったため、児童向けなのか産業向けなのか判然としないという批判が一部で出た。もっとも、トゥンガリは来場者に最も親しまれた存在であり、閉幕後もぬいぐるみが市内のバザーで再流通したことから、事実上の物々交換通貨になったともいわれる。
また、会場中央の「協同の塔」が午後3時になるとわずかに傾く設計であったことから、耐震上の安全性を疑問視する声もあった。これに対し設計側は「傾きは思想的なものであり、構造的欠陥ではない」と説明したとされ、のちに建築史家の笑いを誘った。
年表[編集]
1989年-1992年[編集]
1989年に基本構想が成立し、1991年には会場造成が始まったとされる。1992年には試験展示として「冬の海を展示する冷蔵水槽」が一般公開され、近隣住民の間で話題になった[11]。
この時期、内の配電網が強化され、夜間照明の試験点灯が行われた。電力消費は想定を18%上回ったが、関係者は「明るさは外交資源である」として予定どおり工事を進めたという。
1993年-1995年[編集]
1993年には各国への招待状が発送され、1994年秋には主要展示館がほぼ完成した。1995年春には公式試運転が行われ、搬入用の地下通路で迷子が続出したことから、通路の壁面に詩文が書き足されたという[12]。
これらの詩文は現存が確認されていないが、「右へ進めば技術、左へ進めば友誼」といった文言があったとする証言がある。博覧会研究では、これが案内板と詩の境界を曖昧にした最初期の事例として知られている。
脚注[編集]
[1] 朝鮮博覧史研究会編『北方展示の世紀』平壌文化出版局, 2008年, pp. 41-48.
[2] 李承浩「博覧会と国家演出」『東アジア公共文化研究』Vol. 12, No. 3, 2011年, pp. 77-94.
[3] Marta Bianchi, “Temporary Nations and Permanent Stages,” Journal of Expo Studies, Vol. 7, Issue 2, 2014, pp. 115-132.
[4] 金哲洙『展示と革命のあいだ』未来社, 2003年, pp. 201-209.
[5] J. H. Mercer, “Diplomatic Souvenirs in Late Cold War Asia,” International Fair Review, Vol. 19, No. 1, 1996, pp. 9-21.
[6] 朴美蘭『放送と祝典の記憶』朝鮮放送研究所, 2001年, pp. 66-72.
[7] 鈴木和也「磁気札以前の来場者管理」『博覧会史論集』第4巻第2号, 2009年, pp. 133-149.
[8] 崔順英『折りたたまれる国家』平壌大学出版会, 2010年, pp. 55-60.
[9] Henry L. Dawson, “Glass Trade Following the Pyongyang Expo,” Review of Asian Commerce, Vol. 14, No. 4, 1997, pp. 201-218.
[10] アナトリー・ペトロフ『参加国数の政治学』モスクワ国際博物館叢書, 2012年, pp. 88-91.
[11] 朴恩珠「冷蔵展示の試み」『北朝鮮技術月報』第8巻第6号, 1993年, pp. 14-19.
[12] 渡辺精一郎「地下通路の詩的案内」『展示空間研究』Vol. 3, No. 1, 1998年, pp. 5-17.
関連項目[編集]
脚注
- ^ 朝鮮博覧史研究会編『北方展示の世紀』平壌文化出版局, 2008年.
- ^ 李承浩「博覧会と国家演出」『東アジア公共文化研究』Vol. 12, No. 3, 2011年.
- ^ Marta Bianchi, “Temporary Nations and Permanent Stages,” Journal of Expo Studies, Vol. 7, Issue 2, 2014.
- ^ 金哲洙『展示と革命のあいだ』未来社, 2003年.
- ^ J. H. Mercer, “Diplomatic Souvenirs in Late Cold War Asia,” International Fair Review, Vol. 19, No. 1, 1996.
- ^ 朴美蘭『放送と祝典の記憶』朝鮮放送研究所, 2001年.
- ^ 鈴木和也「磁気札以前の来場者管理」『博覧会史論集』第4巻第2号, 2009年.
- ^ 崔順英『折りたたまれる国家』平壌大学出版会, 2010年.
- ^ Henry L. Dawson, “Glass Trade Following the Pyongyang Expo,” Review of Asian Commerce, Vol. 14, No. 4, 1997.
- ^ アナトリー・ペトロフ『参加国数の政治学』モスクワ国際博物館叢書, 2012年.
- ^ 朴恩珠「冷蔵展示の試み」『北朝鮮技術月報』第8巻第6号, 1993年.
- ^ 渡辺精一郎「地下通路の詩的案内」『展示空間研究』Vol. 3, No. 1, 1998年.
外部リンク
- 平壌博覧会資料館
- 東アジア展示文化アーカイブ
- 国際博覧会研究フォーラム
- 朝鮮展示技術年鑑
- 北方会場跡地観測会