風路型都市計画
| 名称 | 風路型都市計画 |
|---|---|
| 英語 | Wind-Corridor Urban Planning |
| 分野 | 都市計画・衛生工学・風環境解析 |
| 成立 | 1912年頃 |
| 提唱者 | アルバート・H・サマーズ、白石 恒一郎 |
| 主な適用地域 | 横浜、東京湾岸、シドニー港湾地区 |
| 目的 | 通風確保、熱滞留抑制、煤塵拡散 |
| 代表的文書 | 風路計画標準要綱 |
| 批判 | 風の権利の恣意的配分 |
風路型都市計画(ふうろがたとしけいかく、英: Wind-Corridor Urban Planning)は、都市内部に一定幅の通風帯を計画的に確保し、建築物・道路・水面の配置によって風の流路を制御する都市設計手法である。20世紀前半のとにおける衛生行政の交流から発展したとされ、のちにの再開発計画へ影響を与えた[1]。
概要[編集]
風路型都市計画は、都市を「風が抜ける器」とみなし、街路網を格子状ではなく、卓越風向に対して斜めに切り込ませることで、夏季の熱気と煙霧を分散させる考え方である。の観点から始まったが、しだいに、、を巻き込み、単なる通風設計ではなく、都市の政治そのものを左右する技術とみなされるようになった。
もっとも、実務上は「風を通す」と言いながら、特定の大通りや沿岸の高層街区にだけ涼風を集中させる設計が行われたため、早くから「風の再分配装置」とも呼ばれた。資料によっては末期のに端を発するとされるが、別の記録ではの衛生官僚がで観測した季節風の報告に由来するとされ、起源は一定しない[2]。
歴史[編集]
前史:煤煙都市と通風の発見[編集]
19世紀末のやでは、埠頭に沿って煙突の高い倉庫が林立し、夏場に空気が停滞しやすい区画が問題視されていた。1897年、の技師とされる寺内兼次は、海風が石畳の坂を通る際に温度が平均1.8度下がることを記録し、これを「風脈現象」と命名した[3]。
この記録はのちに誇張され、寺内が手持ちの煙草の煙で街区全体の流れを可視化した、という逸話が付加された。もっとも有名な話では、彼はの前身地で凧を百二十枚揚げ、凧糸の角度から「風路の癖」を読み取ったとされるが、一次資料の所在は確認されていない。
制度化:風路帯の設定[編集]
1912年、衛生局の諮問会議で、英国人都市技師アルバート・H・サマーズが「Wind Corridor」を紹介したことが、制度化の契機になったとされる。サマーズはのテムズ河畔で生じる夏季の熱だまりを観察し、川沿いの空地を連続させることで蚊帳のように都市全体を冷やせると主張した[4]。
同年のでは、白石 恒一郎がこの考えを受け、街路幅を単純に拡張するのではなく「風路帯」として最低36メートルの空隙を断続的に確保する案を提示した。委員会の議事録によれば、白石は模型都市に扇風機を3台当て、紙製の煙突模型が倒れる位置をもとに道路線形を修正したという。結果として、港に向かう風がからを抜けるような奇妙な角度の道路計画が採用された。
拡張と輸出[編集]
1930年代になると、風路型都市計画はの臨海部、の港湾再編、さらにはの丘陵住宅地にも応用された。とくに大阪では、工場群の排熱を逃がすために「北西風を逃がさない橋梁配置」が採用され、橋の欄干に風向を示す金属羽根が取り付けられた[5]。
一方で、風路の設定は地価と直結したため、風を受ける側の街区は「涼風権」として高値で取引されるようになった。1938年のでは、風路予定地の周辺で地価が平均14.2%上昇し、逆に風が遮られる裏通りでは、夏季の売上が2割落ちたという報告がある。なお、この統計はの付録にだけ掲載され、本編にはなかったため、当時から都合の良い数字として知られていた。
戦後再編[編集]
戦後、の住宅政策と結びつく形で、風路型都市計画は「衛生的で民主的な街区」を標榜する技術として再評価された。1954年にはの研究班が、東京湾岸の復興計画において「海風を5本以上の軸で内陸に導く」ことを基準化し、これが後の超高層群の配置に影響したとされる[6]。
ただし、当時の実務者の回想録では、実際には風路よりもやの方が優先され、風の話は会議を長引かせるための便利な比喩として使われていたという。にもかかわらず、最終案では「風の見通し」を損なうとして、3棟の庁舎案が突然削除されたと記録されており、都市計画における風はしばしば政治的な隠語として機能した。
理論[編集]
風路型都市計画の理論は、都市を定点観測ではなく「流体の断面」として扱う点に特徴がある。中心には、建物高さ、道路幅、水面率、樹冠密度の4要素から算出される「風透過指数」があり、一般には0.62以上で快適圏とされた[7]。
この指数は、工学部の小論文で広まったとされるが、実際には「6階建て以上が1棟あると指数が急落する」という極端な経験則が有名で、現場ではほとんど信仰の域に達していた。なお、指数の式には分母が2種類存在し、派閥ごとに異なるため、同じ街区でも「通風良好」と「風害の危険」の両方が成立することがあった。
また、風路の確保には「風抜き広場」と「反転門柱」という装置的発想が導入された。前者は冷気を蓄える四角い余白、後者は風向をわざと捻じる門型構造であり、の寺院風景を参考にしたと説明されることが多いが、実際には港湾クレーンの骨組みを転用しただけだという指摘もある。
批判と論争[編集]
風路型都市計画には、当初から「風は誰のものか」という批判が向けられていた。高台の邸宅やオフィス街に涼風が集中し、低地の長屋や工場地帯が逆に熱だまりになったため、系の都市論者はこれを「空気の階級化」と呼んだ[8]。
また、風路の名の下に大規模な区画整理が行われ、旧来の路地や市場が「風の抵抗物」として撤去されたことから、の組合は強く反発した。とくに1961年のでは、風路予定地にあった豆腐店が「うちの店先はいつも風が通りすぎるだけで儲からない」と訴え、新聞はこれを「涼しい敗訴」と見出しにした。
さらに、1970年代の導入後には、風路の効果を測るために市内の12地点へ風速計が設置されたが、そのうち4台が早々に鳥の巣で塞がれたため、反対派からは「自然を測ろうとして自然に負けた」と揶揄された。
事例[編集]
最も有名な事例は、1958年の再開発である。ここでは、海側からの風を内陸へ導くため、倉庫群の間に幅48メートルの風路が設定され、夏季の体感温度が周辺より最大3度低下したと報告された[9]。ただし、強風日には洗濯物がすべて同じ方向へ飛び、住民が「都市が共同で干しているようだ」と苦情を述べたという。
もう一つの象徴的事例は、の久屋筋計画である。ここでは、中央分離帯の樹木を「落葉の抵抗を受けにくい品種」に限定し、枝葉の揺れ方まで設計条件に入れた。設計図には風向を示す矢印が31本も描かれていたが、実際に完成した街路は、ビル建設後の風向変化でほぼ無意味になったとされる。
なお、の一部では、冬季の吹雪対策として逆転的な風路計画が試みられた。これは風を通すのではなく、風を「一度だけ曲げてやり過ごす」思想で、地元では「風を説得する計画」とも呼ばれた。
脚注[編集]
関連項目[編集]
脚注
- ^ 白石 恒一郎『風路帯と都市衛生』建設評論社, 1932年.
- ^ Albert H. Summers, “Corridors for the Municipal Breeze,” Journal of Imperial Urban Hygiene, Vol. 8, No. 2, 1913, pp. 44-61.
- ^ 寺内 兼次『風脈現象の測定と応用』神奈川衛生協会, 1901年.
- ^ 横浜市区改正委員会編『通風を伴う街路計画報告書』横浜市公報局, 1914年.
- ^ Margaret L. Fenwick, “Ventilation Rights and Urban Form,” Transactions of the Royal Society of Civic Design, Vol. 14, No. 1, 1939, pp. 1-29.
- ^ 建設省都市局監修『戦災復興と風の道』日本都市研究会, 1956年.
- ^ 小野寺 清『風透過指数の理論と実際』東京大学出版会, 1968年.
- ^ 中村 亜紀『空気の階級化と都市の正義』岩波書店, 1975年.
- ^ Harold P. Winslow, The Politics of Airflow in Modern Cities, Oxford Civic Press, 1981.
- ^ 東京都港湾再開発局『晴海風路試験の記録』都政資料センター, 1960年.
- ^ 山岸 由美子『風を説得する都市: 札幌冬季計画の思想』北海道都市史研究, 第3巻第4号, 1992年, pp. 77-96.
外部リンク
- 日本風路計画学会
- 都市通風アーカイブ
- 港湾風環境研究所
- 風路政策史資料室
- 空気と街区の博物館