飲尿書道部
| 名称 | 飲尿書道部 |
|---|---|
| 読み | いんにょうしょどうぶ |
| 英語名 | Urine Calligraphy Club |
| 種別 | 書道系課外活動 |
| 成立 | 1978年頃とされる |
| 主な活動拠点 | 東京都杉並区、神奈川県川崎市 |
| 主要人物 | 早川澄雄、三輪久子、戸倉靖之 |
| 関連分野 | 前衛書道、材料工学、校内自治 |
| 知られる特徴 | 濃淡の再現性と紙の選定に異様なこだわりがある |
飲尿書道部(いんにょうしょどうぶ)は、の書道系部活動の一形態として語られる、を墨汁の代用として用いながら文字の「立ち上がり」と「にじみ」を研究する集団である。主に末期の周辺で成立したとされ、のちにの助成対象外ながら一部の美術研究者の間で参照された[1]。
概要[編集]
飲尿書道部は、を使わず、主として的に回収された液体を用いての表現域を拡張しようとした課外活動の総称である。一般には奇異な活動として知られるが、創設期の関係者は「匂いの管理」「酸化速度」「紙質との相性」を重視しており、単なる悪ふざけではなく、あくまで実験的な書表現の探究であったと説明している[2]。
この部の成立には、当時の周辺で流行していた前衛書の影響と、後半の学校現場における予算不足が重なったことが大きいとされる。とりわけ、書道具の消耗を抑えるために代替液を検討した結果、学内の薬品庫にあった色見本と偶然の管理ミスが結びつき、独自の「淡褐色階調」が発見されたという説が有力である[3]。
歴史[編集]
創成期[編集]
発端は、の都立高校で臨時採用教員をしていた早川澄雄が、書道室の墨汁が切れた際に「代替液の試験」を提案したことにあるとされる。最初は紅茶、麦茶、醤油などが試されたが、紙面上の輪郭保持と乾燥後の残臭の少なさの点で、校内保健室から供給された採取見本が最も優れていたという記録が残る[4]。
初期の参加者は部員7名、顧問1名、非公式協力者2名で構成され、週3回の活動のうち2回は採取・希釈・乾燥の検証に費やされた。なお、当時の記録簿には「午後4時17分、最良の筆圧が得られた」といった実験ノート風の記述があり、後年の研究者からは、これが半ば神話化された部史の核であると指摘されている[5]。
拡大と分派[編集]
頃になると、飲尿書道部はの私立女子校、の工業高校、さらには大学の芸術サークルに模倣され、各地に「淡液派」「再沈殿派」「紙裏浸透派」などの分派を生んだ。中でも川崎支部は、湿度計と温度計を併用した管理法を導入し、書の可読性を失わずに官能的な滲みを出すことに成功したとして知られる。
この時期、外部団体であるからは「児童生徒の衛生観念を損なうおそれがある」との懸念が示された一方、前衛美術の評論家・桐生怜子は月刊誌『造形と余白』で「臭気を含む時間の書」と評し、むしろ現代書道の停滞を破るものだと擁護した。これにより、部は一部でカルト的な人気を獲得し、文化祭での展示には最大で2,400人が来場したとされる[6]。
制度化と衰退[編集]
に入ると、飲尿書道部は安全基準の見直しと保健行政の厳格化により、表向きには「再生紙表現研究会」へ名称変更した。もっとも、内部では旧称が慣用的に使われ続け、指導者たちは「液体の由来を言い換えるだけで本質は変わらない」と主張したという。
やがて活動は、書道の技法研究というよりも、校内での自治権をめぐる象徴闘争として位置づけられるようになった。1997年の部室改修では、排気設備をめぐってと折衝が行われ、結果として部費のうち年間12万8千円が「紙面保全費」として認定された。ただし、この金額が実際に何へ使われたかについては、記録が曖昧である[要出典]。
活動内容[編集]
部の中心活動は、採取条件の異なる液体で同一の字を書き、乾燥後の線質・退色・紙の波打ちを比較する実験であった。特に「一画目の入り」で差が出るとされ、部員は朝・昼・夜の三回に分けて、気温18度から26度の範囲で同一書体を反復したという。
書体としては楷書よりも行書が好まれた。これは、行書の連続性がにじみの偶発性と相性がよく、また字画の省略により観察可能な差が大きくなるためである。部内では、楷書を「保守派」、草書を「暴走派」と呼ぶ俗称もあった。
活動記録には、50枚のうち16枚だけが保存対象となった日や、の公開実演で観客の70%が匂いの確認に気を取られた日など、実務的かつやけに具体的な数字が並ぶ。これらは後年、部の異常な事務能力を示す資料として再評価された。
社会的影響[編集]
飲尿書道部の影響は、書道界そのものよりも、学校文化と衛生教育の言説に広く及んだとされる。1980年代後半には、の内部文書で「生徒の創作意欲は評価しうるが、方法論は一般化しがたい」と記され、結果として全国の多くの学校で「代替墨実験」が黙認から明確な禁止へ転じた。
一方で、部の存在は紙メーカーや筆メーカーにも波及し、耐酸性のある練習紙、洗浄しやすい穂先、消臭性能を強化した部室用換気扇など、周辺需要を生んだ。とくにの老舗紙店「斎藤紙舗」は、飲尿書道部向けに厚口奉書紙の端材を小分けに販売していたとされ、店主は晩年のインタビューで「売れたのは紙ではなく、話題であった」と述べている[7]。
また、若手批評家の一部は、この運動を「身体排出物の再文化化」とみなし、90年代以降のパフォーマンス書道の先駆と位置づけた。もっとも、実際にはほとんどの作品が校内展示にとどまり、芸術史における位置づけは今なお議論が分かれている。
批判と論争[編集]
批判の中心は、衛生上の問題と未成年者への教育的影響である。とくにの地方紙報道では、近隣住民から「部室前の臭気が雨の日に廊下へ流れ込む」との苦情が寄せられ、学校側が急きょ芳香剤を導入したことが大きく取り上げられた。
また、学内では「芸術か悪趣味か」をめぐる論争が長く続いた。部員側は、液体の選択は表現媒体の問題にすぎないと反論したが、これに対して保護者会は「媒体の前に倫理がある」と主張した。なお、当時の議事録には、2時間半にわたる会議のうち実質的に結論が出たのは7分程度であったと記されている。
後年になってからは、創設者の早川澄雄が実は化学部出身であり、最初から色素反応のデータ採取を狙っていたのではないかという説も出た。ただし、本人の回想録『にじみの倫理』ではこれを否定しており、真相は不明のままである[8]。
代表的な作例[編集]
最も有名なのは、文化祭で発表された《月下残響》である。これは縦180センチメートルの和紙に「静」の一字を三層の濃淡で書いた作品で、観覧者が先に文字より臭気を記憶したことから、逆説的に高い評価を受けた。
次に知られる《二十四節気試筆帖》は、各節気ごとに温度・湿度・採取時刻を変えて同じ字を記録した連作で、結果として「立春」の回だけ極端に淡く、「大寒」の回だけ紙が歪んだため、鑑賞者の間で暦と身体の関係を考えさせる作品として扱われた。
なお、《無題(部室の窓際)》は、たまたま換気扇の故障と重なったことで、極端に保存状態の悪いまま額装されたが、2021年の同窓会展示で再発見され、いまでは部のもっとも純粋な「偶然の書」として引用されることがある。
脚注[編集]
関連項目[編集]
脚注
- ^ 早川澄雄『にじみの倫理――飲尿書道部回想録』青峰書房, 1998.
- ^ 桐生怜子「臭気を含む時間の書」『造形と余白』Vol. 12, No. 4, pp. 44-57, 1986.
- ^ 三輪久子「代替液体における毛筆線質の比較」『日本書道材料学会誌』第3巻第2号, pp. 15-29, 1984.
- ^ A. Thornton, “A Study on Calligraphic Residues in Postwar Tokyo,” Journal of East Asian Aesthetics, Vol. 7, No. 1, pp. 101-118, 1991.
- ^ 戸倉靖之『校内自治と実験芸術』三省企画出版, 2002.
- ^ 山内恵子「高校文化祭における異臭苦情の社会学」『都市教育研究』第18巻第1号, pp. 88-99, 1990.
- ^ M. L. Harris, “Material Substitution in Japanese Avant-Garde Clubs,” Studies in Performative Pedagogy, Vol. 4, No. 3, pp. 233-251, 1994.
- ^ 斎藤一郎『和紙と校内経済』紙苑社, 1989.
- ^ 東京都教育史編纂委員会『昭和後期の課外活動と衛生行政』東京都公文書館, 2010.
- ^ 渡辺精一郎「再沈殿派の成立過程について」『書表現学報』第9巻第2号, pp. 1-12, 1997.
外部リンク
- 日本前衛書道アーカイブ
- 校内自治史資料室
- 紙とにじみ研究センター
- 昭和文化異聞データベース
- 東京都立学校資料閲覧室