駆逐艦 光
| 艦種 | 駆逐艦 |
|---|---|
| 艦名 | 光 |
| 所属 | 帝国海軍 |
| 起工 | 1928年 |
| 進水 | 1930年 |
| 就役 | 1931年 |
| 除籍 | 1944年 |
| 基準排水量 | 1,980トン |
| 全長 | 118.4メートル |
| 最大速力 | 38.7ノット |
駆逐艦 光(くちくかん ひかり)は、が試験的に建造したとされるであり、艦内照明と対潜哨戒能力の両立を目的として設計されたと伝えられている[1]。ただし、のちに「光量が過剰で夜戦に向かない」との評価を受け、艦隊内では半ば伝説的な存在として語られるようになった[2]。
概要[編集]
駆逐艦 光は、の第二設計室で生まれたとされる艦で、もともとは夜戦用の高速艦として計画された。しかし、照明設備の実験を重ねるうちに艦内外の光源が肥大化し、艦橋周辺だけが昼間のように明るいという奇妙な特徴を持つに至ったとされる。
同艦の最大の特徴は、艦首甲板下に収められた「集光式前部投射装置」である。これはの鈴木照明少佐と、民間の舞台照明技師である青木真一郎が共同開発したという説が有力であり、夜間の索敵では高い成果を示した一方、乗員の睡眠障害が続出したため、実戦運用では評価が割れた[3]。
歴史[編集]
計画成立[編集]
1920年代末、で行われた夜間演習において、探照灯の明るさ不足が問題視されたことが、光計画の直接の契機であったとされる。特に3年の冬季演習では、僚艦との距離誤認が相次ぎ、艦隊参謀部が「暗闇に勝つには、闇を消すしかない」と結論したと伝えられている。
この方針に基づき、光は単なる駆逐艦ではなく、海上での照明優勢を獲得するための実験艦として企画された。なお、設計責任者の田所善次郎は、のちに「軍艦というより走る舞台装置であった」と回想している[4]。
建造と就役[編集]
建造はの横須賀で進められたが、発光機器の調達が遅れたため、船体完成後も半年以上、艦橋だけが仮設の木枠で囲われていたという。1930年9月の進水式では、試験点灯の光が湾内の漁船20隻以上を一斉に避難させ、地元紙は「港が朝になった」と報じた[5]。
1931年に就役すると、光は第九水雷戦隊に配属され、主に夜間訓練と沿岸警備に用いられた。乗員は平均で17分おきに照度調整を行う必要があり、最盛期には電機兵の配置が通常艦の2.4倍に増員されたとされる。
実戦投入と転機[編集]
1937年の方面海上作戦では、光の前部投射装置が霧中の敵艦を照らし出し、短時間で目標識別に成功したと報告された。しかし同時に、自艦のシルエットも完全に露出したため、僚艦からは「敵より先に自分たちが見つかる」と苦情が相次いだ。
これを受けて1939年には艦内照明の半減改修が行われたが、今度は食堂が暗すぎて食器の位置が分からなくなり、夕食時に味噌汁を床へこぼす事故が月平均11件発生したという。海軍省はこの問題を「士気への影響あり」として記録している[6]。
設計[編集]
光の設計思想は、速度、火力、照明を同時に最大化する「三重機能主義」にあったとされる。主機関は系の高圧タービンを基礎にしていたが、補助電源に大型蓄電池を積んだため、満載時の重心は通常の同型艦より1.7メートル高かった。
艦橋には白色塗装が施され、夜間でも輪郭を識別しやすいように意図されたが、これが逆効果となり、月明かりの下ではほぼ看板のように目立ったとされる。また、煙突の先端に反射板が付けられていた時期もあり、これは「艦隊の先導灯」と呼ばれたが、実際には味方の測距を混乱させたという。
なお、船体下部には電球交換専用の小型クレーンが備えられていた。これにより、荒天時でも片舷15分以内に主照明の整備が可能であったが、同時に整備兵が常時濡れたまま作業する羽目になり、艦内では「光は濡れないと直らない」と言われた。
運用と評価[編集]
光の運用記録によれば、夜戦における索敵成功率は高く、特に付近での演習では、30分以内に目標艦を特定した回数が同型艦の約3倍に達したとされる。一方で、敵の潜水艦には「遠くから存在が分かる」として警戒され、海軍情報部の報告書では「艦そのものが警報装置」と記された[7]。
艦内では照明に由来する独特の文化が育ち、消灯時間後も廊下の床に薄い光が残ることから、若い水兵の間で「光廊下」という隠語が生まれた。さらに、艦長の黒田俊介大佐は、夜間の士気維持のために毎週金曜だけ照度を1/4に下げる「薄明令」を導入したが、これが逆に乗員の不安を増幅させたともいわれる。
改修と終末[編集]
1942年以降、光は対空戦闘への対応のために上部構造物を縮小し、発光機器を減らす改修を受けた。しかし改修後は艦名に反して暗い艦となり、乗員からは「もはや光ではなく影である」との声が上がった。海軍内部でも、艦の個性が失われたことを惜しむ意見と、ようやくまともになったとする意見に分かれた。
1944年、南方航路の護衛任務中に機関部火災が発生し、艦は自沈処分となったとされる。もっとも、火災の原因は主機関ではなく、補助照明用の予備フィラメントを大量に積み込みすぎたことによる過熱だったとの説もある。沈没地点はの北端とされるが、正確な位置は現在も特定されていない[8]。
社会的影響[編集]
駆逐艦 光は、海軍技術史だけでなく、民間照明業界にも影響を与えたとされる。戦後、の舞台装置会社数社が「光式反射枠」を商品化し、劇場の暗転演出に採用したほか、百貨店の夜間ショーウィンドーにも応用された。
また、沿岸部の漁師のあいだでは「光が通ると海が白く見える」という迷信が広まり、三重県からにかけての一部地域で、夜間に不用意な灯火を避ける習俗が定着したという。海軍史家の間では、光は「軍艦であると同時に、戦前日本における照明過剰の象徴」と位置付けられている。
批判と論争[編集]
光をめぐる最大の論争は、その実在性ではなく「どこまでが試験艦で、どこからが宣伝用の逸話か」にある。特に、艦橋上の白熱灯が夜間に自艦の旗章を読めるほど明るかったという証言は、複数の元乗員によって語られているが、整合しない点も多く、要出典とされることが多い[9]。
また、当時の艦政本部が提出した計画書には光の名が記されていない版が存在し、抹消線の跡だけが残っていたという。これについては、予算獲得のために名称を後付けしたのではないか、あるいは「光」が本来は艦名ではなく照明試験番号の略称だったのではないか、といった説が並立している。
脚注[編集]
関連項目[編集]
脚注
- ^ 田所善次郎『夜を照らす艦艇設計史』海軍技術資料刊行会, 1968年.
- ^ 鈴木照明『集光式前部投射装置の実用化に関する覚書』海軍技術研究所報告, Vol. 12, No. 4, pp. 41-68, 1932.
- ^ 黒田俊介『薄明令と乗員士気』艦隊勤務研究, 第7巻第2号, pp. 13-29, 1940.
- ^ 青木真一郎『舞台照明と軍艦照明の接点』日本照明史学会誌, 第18号, pp. 201-219, 1954.
- ^ 横須賀海軍工廠史編纂室『第二設計室日誌抄』横須賀海軍工廠資料館, 1971年.
- ^ 海軍省軍務局『夜間運用における照度過多艦の取扱い』内部文書, 1939年.
- ^ Margaret A. Thornton, 'Illuminated Hulls and Naval Night Doctrine', Journal of Maritime Anomalies, Vol. 3, No. 1, pp. 77-96, 1981.
- ^ Hiroshi Nakatani, 'The Destroyer That Could Not Sleep', Pacific Naval Studies Quarterly, Vol. 9, No. 3, pp. 112-130, 1994.
- ^ 『帝国海軍艦艇命名録 1927-1945』海軍文庫編集部, 2002年.
- ^ 『光の艦内生活とその周辺』呉海事文化研究会紀要, 第5号, pp. 5-24, 2011.
- ^ 山本照夫『艦名「光」の系譜と誤読』日本軍事文献研究, 第22巻第1号, pp. 9-17, 2018年.
外部リンク
- 海軍艦艇史アーカイブ
- 横須賀工廠デジタル資料室
- 日本照明軍事史研究会
- 呉軍港史料センター
- 海上試験艦レファレンス