骨花
| 分類 | 民俗生物学・保存加工・祭礼装飾 |
|---|---|
| 別名 | 骨花現象、膜花、三度骨花 |
| 初出 | ごろ |
| 提唱者 | 渡辺精一郎(民俗誌採集者とされる) |
| 主な舞台 | 、 |
| 関連施設 | 東北乾膜研究会、港湾加工試験場 |
| 用途 | 保存標識、豊漁祈願、学術標本 |
| 象徴 | 三重反転、白化、花弁化 |
骨花(ほねばな、英: Boneflower)は、質のが乾燥と微弱な圧力変化によって花弁状に反り返った状態を指す、上の用語である。主ににおける乾燥保存と祭礼装飾の両方に関連して語られている[1]。
概要[編集]
骨花は、魚介類や家畜の骨周辺に残る質の薄膜が、乾燥・塩分・温度差の複合条件で縮み、花びらのように開いた状態、またはそれを意図的に再現した装飾物を指すとされる。一般にはの表面に生じる異常変形として観察されるが、の一部地域では古くから「骨が咲く」として吉兆視されてきた[1]。
この用語は、単なる食材の変質ではなく、保存技術と民間信仰の接点に生じた半学術語として扱われることが多い。また、後期の地方博覧会で標本名として採用されたことから、民俗誌と衛生行政の双方にまたがる稀有な概念になったとされる。なお、当初は「骨花」ではなく「三度乾き」と呼ばれていたが、の展示で現在の呼称が定着したという[2]。
もっとも、骨花の成立過程には諸説あり、実際にはの漁師が魚骨を乾かす際に偶然生じた膜の反りを、祭礼の飾りに転用したのが始まりであるとも、の薬種問屋が標本の見栄えをよくするために人工的に整形したのが始まりであるともいう。いずれにせよ、20世紀前半には地方の一部で「年に三度咲く骨は、潮がよい証拠」とされ、漁獲量の指標にまで用いられたと記録されている[3]。
歴史[編集]
漁村伝承としての起源[編集]
末、の沿岸部では、冬季に取り置いた魚骨の周囲に白い膜状の物質が残る現象が「花の影」と呼ばれていた。これを最初に採録したのが民俗誌採集者のであり、彼はの採集帳に「骨の側より三枚の白片、寒気に応じて開く」と記している。後年の編集では、これが骨花の最古の記述とされた。
伝承では、骨花を見た漁師はその年の風向きを当てることができたとされる。特にに面した集落では、花弁が五枚に開けば北西風、七枚なら凪、九枚なら「鯨寄り」と解釈されたという。もっとも、風向の的中率は程度であったとの再計算があり、統計としてはかなり微妙である[4]。
博覧会と衛生行政への編入[編集]
、で開かれた水産物改良展示において、骨花は「見た目の整った乾膜標本」として出品され、の視察官がこれを衛生教材に転用するよう勧告したとされる。これにより、骨花は単なる民間伝承から、保存状態を示す指標へと意味を拡張した。
にはの臨時試験場で、塩分濃度を、乾燥温度をに保つと膜の花弁化が最も安定する、という実験結果が出たとされる。ただし同報告は、試料がしかなく、しかも半数が展示用に再乾燥された後のものであったため、後世の研究者からは「数字は美しいが条件が雑」と批判された[5]。
戦後の再解釈と観光資源化[編集]
になると、骨花は衛生指標としての役割を失い、むしろ郷土芸能や土産物の意匠へ移行した。にはの旅館組合が、骨花型の和紙細工を「潮花」として売り出し、年間を出荷したと記録される。これが好評だったため、翌年にはの地方案内にも小さく掲載された。
一方で、には大学研究室が「骨花は乾燥膜の自己配向現象である」として再評価を行ったが、研究の多くは祭礼用の装飾サンプルに依拠しており、学術的厳密性には欠けたとされる。なお、研究班の一員だったは、英訳論文で Boneflower を「a local morphology of edible remembrance」と定義し、国外の食品史研究者を困惑させたという。
構造と製法[編集]
骨花の構造は、中心核にあたる、それを包む膜、外縁の結晶化した塩層の三層から説明されることが多い。膜は乾燥により収縮するが、骨質との収縮率の差が一定以上になると、対称的に裂けずに扇状に反り返り、結果として花弁状の外観を呈する。
伝統的な製法では、よりもの朝霧が残る時期に仕込むのがよいとされる。漁村では、骨を板の上でほど陰干しし、その後を薄く塗って静置する。これを三度繰り返すことで「三度骨花」ができるとされるが、実際には気象条件のぶれが大きく、成功率は職人によってからまで大きく異なる[6]。
また、装飾用の骨花は、実物の骨を用いずと魚皮ゼラチンで再現されることもある。この場合、完成品は見かけ上は非常に繊細であるが、湿度を超えると半日で萎むため、の前夜にしか展示されなかったという。
社会的影響[編集]
骨花は、の一部で保存食の品質目印として浸透しただけでなく、婚礼や豊漁祈願の飾りに転用されたことで、食と信仰の境界を曖昧にした概念である。の旧家では、長男の嫁入り支度に骨花の写しを箱へ納める慣習があり、「骨の花が開く家は口が減らない」と言われた。
また、の公開講座では、骨花の花弁数と家計の安定性に相関があるという講演が行われ、聴衆のうちが真顔でメモを取ったと報告されている。のちにこの話は地域経済の寓話として語られるようになったが、当時はなぜかの機関誌に要約が掲載された。
なお、観光化の過程で骨花は「見栄えのする地方文化」として消費された反面、地元では「本来は捨てる膜を飾っているだけだ」との反発もあった。この対立はの土産物ブーム期に強まり、骨花保存会と加工業者のあいだで「自然開花派」「整形派」に分かれる小さな論争が起きたとされる。
研究史[編集]
骨花研究の本格化は、がに設立されてからである。同会はの旧製紙工場を転用した会議室で、月1回、標本の花弁角度を刻みで計測していたという。資料の一部は戦災で失われたが、残存ノートには「角度が90度を超えるものは概して祈祷用」といった分類が見られる[7]。
にはの食品保存学講座が、骨花をモデルにした低温乾燥装置を試作した。ただし装置の試験名が「B-Flower No.3」であったため、学内ではしばらく花壇改良機械と誤解されていた。装置は膜の反りを再現することに成功したが、完成品がやけに仏花に似ていたため、実験は途中で中止されたとされる。
以降は、民俗資料データベースの整備により、骨花が単一の物体ではなく、現象・装飾・比喩の三義をもつことが明確になった。とくにが公開した「骨花見取帳」には、漁具、供物、玩具、さらには結婚式の席札まで骨花と呼ばれていた例があり、研究者を困惑させている。
批判と論争[編集]
骨花をめぐる最大の批判は、その科学的定義があいまいである点にある。衛生行政側は単なる乾燥不良の副産物とみなしたが、民俗学側は儀礼性を重視し、食品史側は保存技術の適応例として扱ったため、同じ語が論者によって別物を指すことが多かった。
特にの大会では、骨花を「膜の花弁化」とする理論に対し、「花弁とは何か」という基本概念自体が曖昧であると指摘され、会場が一時静まり返ったという。また、発表者のが配布したスライドの1枚に、なぜかの梅札が混入していたことも論争に拍車をかけた。
さらに、観光業者の一部が骨花を「開運の食べられる工芸」と宣伝したことで、実態以上に神秘化されたとの批判もある。これに対し保存会は「少なくとも見た目は咲く」と反論したが、結局のところ、骨花が本当に花なのか、骨の変種なのか、あるいは料理なのかについては現在も明確な合意に至っていない[8]。
脚注[編集]
関連項目[編集]
脚注
- ^ 渡辺精一郎『北辺採集録 第3集』青潮書房, 1904年.
- ^ 佐々木啓一「骨花標本の乾膜配向について」『水産保存学雑誌』Vol. 12, No. 4, pp. 211-227, 1911.
- ^ M. A. Thornton, "Boneflower and the Social Life of Drying," Journal of Maritime Folklore, Vol. 8, No. 2, pp. 44-63, 1964.
- ^ 青森県立民俗館編『下北半島の白い飾り』郷土資料出版社, 1978年.
- ^ 高橋道子「骨花と家計安定神話」『東北文化研究』第21巻第1号, pp. 19-35, 1981年.
- ^ Harold J. Wentworth, "Collagen Membranes in Ritual Preservation," Proceedings of the Northern Food History Society, Vol. 5, No. 1, pp. 5-18, 1972.
- ^ 木村蘭子『膜の花、骨の花』港文社, 2005年.
- ^ 石黒修二「骨花論争の現代的展開」『民俗誌評論』第39巻第2号, pp. 88-101, 2010年.
- ^ K. Yamane, "The Threefold Drying of Boneflower," Asian Journal of Applied Traditions, Vol. 14, No. 3, pp. 133-149, 1999.
- ^ 田所冬美『なぜ骨は咲くのか――地方食文化の境界』新潮社, 2017年.
外部リンク
- 東北乾膜研究会アーカイブ
- 青森骨花保存会
- 函館水産展示データベース
- 港町民俗標本図鑑
- 骨花口承採録プロジェクト