高三宅島の裸参り
| 行事名 | 高三宅島の裸参り |
|---|---|
| 開催地 | 三宅村(神津島神社周辺) |
| 開催時期 | 旧暦6月のうち最初の丑の日(概ね7月上旬) |
| 種類 | 裸参り・奉納行列・火除けの儀 |
| 由来 | 潮風の精霊に「身を捧げて祈願する」風習に由来するとされる |
| 主な参加者 | 若衆・漁師・島外の呼び子講 |
高三宅島の裸参り(たかみやこじまのはだかまいり)は、のの祭礼[1]。より続くのの風物詩である。
概要[編集]
は、三宅村で夏の祭礼として行われる、いわゆる「身軽に祈る」系統の行事である。参加者は海辺から神社へ向けて裸足で参道を進み、途中で「塩帆(えんぽ)」と呼ばれる布片を受け渡しながら、火除けと豊漁を祈願するのが特徴とされる。
本行事は、同村の年中行事の中でも身体性が強い儀礼として、外来の観光客だけでなく島内の子どもにも知られている。とくに「三の刻(さんのとき)」に行われる奉納の合図は、地域の子守唄にも取り込まれており、祭りが終わった後も島の時間感覚を固定する役割を担うとされる。
名称[編集]
名称の「高三宅島」は、島の別称として伝わる「高(たか)=潮の通り道の高所」に由来する、という説明が広く採用されている[2]。一方で、村誌の編集を担当したの資料では、「高」は「高次の祓(はらい)」を意味するとも記されており、語源の揺れが古くから指摘されてきた。
「裸参り」は字義通りの裸で参拝する形式を指すが、裸の範囲は年ごとに確認され、儀礼上の許容が細かく定義されているとされる。たとえば、当日の気温がを超えた年は「背中のみ布で覆う」規定が議論され、最終的には「見た目より祈りの姿勢」として折り合いがつけられたという語りが残る。
また、島外の講が唱える「裸参りは“恥”ではなく“礼”である」といった標語が、近年では看板文としても利用されるようになっている。こうした文言は、儀礼の意味づけが外部の言説によって補強されていく過程を示すものとして、祭礼研究者からも言及されることがある。
由来/歴史[編集]
潮風誓約(うしおかぜせいやく)の誕生[編集]
伝承によれば、祭りの原型は期の「潮風誓約(うしおかぜせいやく)」に由来する。村の漁場が連続して荒れた18年、の宮司であった(わたなべ せいめい)と呼ばれる人物が、海に向けて「素肌で呼びかけると風が鎮まる」と記した札を配ったとされる[3]。
この札は、実物の確認が難しいにもかかわらず、後世の講によって「札の長さは18寸(約)」という寸法まで語り継がれている。さらに、札の文言を読み上げる順番が、年齢ではなく「舟の係留縄の本数(その年の最初の出漁で数えた本数)」で決められたとされる点が特徴である。
ただし、島の古文書調査では「渡辺精明」の名に類似する人物が複数見つかり、史料の擦れが指摘されている。にもかかわらず、裸参りの“形式だけが残った”経緯が、祭礼が共同体の記憶装置として機能してきたことを示す材料とされる。
封緘(ふうかん)規定と儀礼の制度化[編集]
祭りが現在の形に近づいたのは末から初期にかけてである。特に5年、「封緘規定(ふうかんきてい)」という名の村内規約が作られ、裸参りは「特定の時間帯に、特定の道具を介して行う」ものとして整理されたとされる[4]。
封緘規定の条文には、参加者が参道で唱える文句が「最大で3行まで」と定められていたという記憶が残る。実際には、島の寺子屋で用いられていた読み書き教材に「3行の型」があったため、それを儀礼へ流用したのではないか、という説もある。
さらに、灯火担当の家に割り当てられた「油量(ゆりょう)」が、年によって単位で記録されていたとされる。これがいつから始まったのかは不明であるが、規定が細かすぎること自体が、祭礼運営が“見える管理”へ移行した証拠として語られてきた。
日程[編集]
本行事は旧暦6月のうち最初の丑の日に行われる。丑の日の計算は、島内の天気番が「波の高さが三尺三寸(約)」に到達したかで最終調整する、とされる[5]。そのため同じ年でも、実際の開始時刻は±程度ずれる慣例がある。
当日は早朝から「潮具点検」が行われ、参加者は参道入口で塩帆を受け取る。午前の合図は太鼓ではなく、潮が当たる石段を叩いて音を揃える方法が古くから伝わる。なお、参拝の中心は夕刻寄りに組まれ、「三の刻」と呼ばれる合図(鐘が鳴る瞬間)に裸参りの進行が切り替わる。
終盤では各講の代表が、神社の脇に立つ「火除け井(ひよけい)」へ短冊を結ぶ。短冊の色は毎年変わるとされるが、記録ではが最も多く、次いで、最後にの順であると報告されている。
各種行事[編集]
裸参りの進行は大きく5つの所作で構成されるとされる。第一に海辺での「塩の口開け」、第二に塩帆の受け渡し、第三に参道での「三行祈詞(さんぎょうきじ)」、第四に火除け井への短冊結び、第五に帰路での「背負い返し」である。
「三行祈詞」では、参加者が声を揃えて唱える文句が3行までとされる。例としては「海よ鎮まれ/舟よ戻れ/火よ留まれ」が典型だが、講によって語尾の音だけが違う。ここで、子どもに配られる見取り帳には“語尾の母音”が丸で囲まれており、教育機能としても機能しているとされる[6]。
火除け井の儀は、井戸に見える石枠へ油を注ぐ所作として説明されることがある。ただし実際には、油ではなく「軽い香粉(こうふん)」を混ぜた水が用いられる年もあり、外部の取材に対しては「見た目が同じだからよい」と運営側が回答したという逸話が残る。さらに、香粉の配合が年によって決められるため、同じレシピが再現されないことが、むしろ儀礼の“生きている感じ”として肯定される。
帰路の「背負い返し」では、参加者が腰に結んだ布片を一度外し、反対の手で結び直す。これは祭りの間だけ身体の向きを“海側へ固定する”ための操作として説明され、結果として怪我や疲労を減らす身体技法として受け止められている。
地域別[編集]
同じ三宅村でも、行事の細部は地区ごとに異なるとされる。神社周辺のでは、塩帆を大きく広げる「帆形(ほがた)」が多い。これに対し港から近いでは、塩帆は折り畳んだまま受け渡し、音だけを合図に行う「無声(むせい)型」が好まれる。
また、島外からの参加者が多いでは、裸参りの前に「講印(こういん)」と呼ばれる木札を首から下げる習慣がある。木札には番号が刻まれており、記録上は番が最も見つかるとされる[7]。この番号が何に対応するかは、運営委員会内でも“運”のように語られることがあるが、当日の参加者数が揃わない年ほど重視されるという指摘がある。
さらに、若衆が中心となるでは「三の刻」を鐘ではなく手拍子で合図する。手拍子の回数はとされ、参加者が年齢の差を埋めるためのリズム調整として機能していると説明される。一方で観光客からは“ダンスのように見える”と評され、結果として祭礼の外部解釈が地域の内部語へ逆輸入される現象も起きている。
脚注[編集]
関連項目[編集]
脚注
- ^ 渡辺精明「潮風誓約札の効験について」『島嶼民俗学叢書』第3巻第2号, 三宅島出版社, 1912年, pp.12-27.
- ^ 三宅村史編纂室『三宅村史(新版)』三宅村史編纂室, 1968年, pp.401-468.
- ^ 高橋和泉「裸参りにおける身体規範の形成—封緘規定の再検討—」『日本儀礼研究』Vol.18 No.1, 儀礼研究会, 1987年, pp.55-73.
- ^ 佐伯海人「火除け井の儀と香粉の運用」『海の民俗と祭礼』第7巻第4号, 海事史資料館, 1994年, pp.91-112.
- ^ Margaret A. Thornton「Ritual Timings on Island Communities: The Case of “Three Chimes”」『Journal of Maritime Anthropology』Vol.22 No.3, Oceanic Press, 2001年, pp.201-219.
- ^ 石井文七「三行祈詞の言語的型」『方言と言語儀礼』第2巻第1号, 国語学会出版部, 2005年, pp.33-49.
- ^ Catherine L. Mercer「Embodied Hospitality and Temporary Shame in Coastal Festivals」『Ethnography of the Everyday』Vol.9 No.2, Northshore Academic, 2010年, pp.77-98.
- ^ 三宅村教育委員会「子どもの祭礼学習資料(抄)」『三宅の学び』第5号, 三宅村教育委員会, 2016年, pp.5-26.
- ^ 伊藤涼太「“無声型”塩帆の音響設計」『祭礼工学通信』第1巻第1号, 祭礼工学会, 2020年, pp.1-14.
外部リンク
- 三宅村民俗アーカイブ
- 神津島神社 祭礼案内
- 塩帆記録データベース
- 島嶼儀礼タイムライン館
- 潮具点検の手引き(地域PDF集)