23区
| 正式名称 | 東京都特別区群 |
|---|---|
| 通称 | 23区 |
| 成立 | 1913年頃(諸説あり) |
| 起源 | 分散防火帯整備計画 |
| 区数 | 23 |
| 主務 | 東京市区整理委員会 |
| 関連法令 | 特別区調整令 |
| 代表的施設 | 区境標識、共同配水塔、巡回鐘楼 |
(にじゅうさんく)は、を構成する行政区画を模した都市計画上の単位である。もとは末期に導入された「分散防火帯」の名残とされ、後に住民登録と路線網の整理のために再編されたとされる[1]。
概要[編集]
は、東部の市街地を中心に展開する、相互に機能分担された23の区画群である。一般には行政単位として理解されるが、成立当初は火災延焼を抑えるための「空隙帯」として設計された経緯があるとされる[2]。
各区は独自の徽章、巡回路、給水基準を有し、戦前にはの倉庫管理と夜警制度を兼ねる機構として機能していた。一方で、境界線の多くは旧河道、寺社の敷地、商家の裏道を継ぎ接ぎしたもので、地図上では整然として見えるが現地では曲線が多いことが指摘されている[3]。
また、区の数が23で固定された理由については、当時の測量局が「24区にすると帳票が一枚増える」ことを嫌ったためという説が流布している。もっとも、近年の研究では、区数の最終決定にとの配線計画が強く影響したとの見方が有力である。
歴史[編集]
前史と原型[編集]
23区の原型は、にが作成した「第七次街区呼称草案」に求められるとされる。同草案では、火事の際に町名が消失しても住民が避難先を把握できるよう、街区を数値で呼ぶ案が提示された[4]。
この制度設計に関わったのが、測量技師のと、欧州視察帰りの都市衛生官である。渡辺はの配水管配置を基準に碁盤目化を主張し、Thorntonはの衛生区画を参考に「境界は衛生よりも記憶に従うべきである」と述べたという。なお、Thorntonが実在したかどうかはとされる。
には試験的に11区案が採用されたが、商人側から「偶数は勘定が合わない」との反発が起き、翌年に23区へ拡張された。拡張の背景には、・の物資集積区と、・の夜間配送区を別系統で管理する必要があったことがある。
制度化と拡張[編集]
、は「特別区調整令」を公布し、各区に区役所ではなく「区務所」を置くことを定めた。これにより、区は住民登録、火除地の保全、共同井戸の監督を担うようになった。区名には地形由来のものと寺社由来のものが混在し、・・の三区は特に古い帳簿に痕跡が多い。
の大震災後、23区は復興の単位として再評価され、道路幅員の標準化や配電線の地下化が進められた。ただし、復興計画の実務では区境がしばしば妥協の産物となり、相当の区域にだけ「仮設第24区」の木札が掲げられたという逸話が残る。
戦後になると、23区は「住民自治の単位」として再定義されたが、旧来の巡回鐘楼や共同配水塔は一部で残され、特に沿いの倉庫群ではまで夜警が半ば儀礼化していたとされる。
現代的再解釈[編集]
以降、23区は都市社会学の対象としても扱われるようになり、区ごとの昼人口と夜人口の差が政策形成に影響した。ある調査では、平日昼間の最大流入区と最大流出区の差が約18.4倍に達したとされ、これが通勤定期券の階層化に結びついたという[5]。
また、・・を結ぶ「三角回遊圏」は、区境をまたぐ娯楽行動の典型例として知られる。一方で、区境上に建つ建物では、住所表示のずれから郵便物が年平均1,200通前後迷子になるとする業界報告もある。
区画設計と運用[編集]
23区の区画は、単純な碁盤目ではなく、旧水路、寺院地、軍用地、鉄道敷設予定地を合わせた「折衷格子」で構成される。これにより、同じ丁目であっても表通りと裏通りで属する区が異なることがあり、住民の混乱を招いた。
区境管理は当初、木杭と漆塗りの標柱で行われたが、以降は鋳鉄製の境界標に置き換えられた。境界標の製造はとの共同事業で、1基あたりの設置費は当時の価格で約38円12銭であったとされる。
なお、区ごとの歌や色、印章が独自に定められた時期があり、では青、では墨色、では灰緑が推奨色とされた。もっとも、色彩規定は実務上ほとんど守られず、戦後は「見分けがつけばよい」とする運用に変わった。
社会的影響[編集]
23区の最大の影響は、都市生活における所属意識の細分化である。住民は自らの区を通じて出身地を説明するようになり、名刺文化では「区名の先出し」が礼儀とされた。特にとの間では、同じ東京人でも生活圏が異なることが強調され、社交辞令として「どの区の水を飲んで育ったか」が話題になることもあった。
また、教育現場では「区境地理」が副教材化され、高学年向けに区境を歩いて覚える「境界遠足」が実施された。これは年間約7,400人の児童が参加したとされ、雨天時には境界標の前で集合写真だけ撮って解散するという簡略版も運用された。
文化面では、23区は映画、演劇、歌謡の舞台設定に多用され、特に「区をまたぐ恋愛」は昭和期の定番であった。脚本家のは「区境を越えると会話の語尾が変わる」と記しているが、これは流石に誇張であるとされる[6]。
批判と論争[編集]
23区制度には、当初から「境界が複雑すぎる」「住民より帳簿の都合が優先されている」といった批判があった。特にの交通再編では、バス停が区境をまたぐたびに運賃計算が変わることから、利用者から強い不満が出た。
また、23という数の神秘性を過大視する風潮もあり、占星術師や都市伝説研究者の間では「23区は23回の方位修正の結果である」とする説まで唱えられた。しかし、の内部文書では、単に印刷版面に収まった最適値だった可能性が示唆されている。
一方で、区の独立性が強調されすぎた結果、同一の商圏が二つの区に分断される問題も生じた。これに対しは「共同調整会議」を設置し、月2回、各区の担当者がで菓子折りを交換する慣行を制度化したとされる。
現在の位置づけ[編集]
現在の23区は、形式上はの一部でありながら、実務上は交通、消防、福祉、観光の各分野で独自性を保っている。観光パンフレットでは「23の個性」として紹介されることが多く、外国人向け資料では一括して「ward mosaic」と表記される場合がある。
また、区境を越える行政手続きの簡略化が進められているが、古参の職員の間では今なお旧来の区番号が口頭で使われる。たとえばは「第九区」、は「第十四区」と呼ばれることがあり、これは初期の分類番号を引きずっているためである。
近年ではデータ行政との接続のため、区ごとの人口、樹木密度、救急搬送件数が一つの台帳に統合された。もっとも、台帳の更新時には毎回、どの区から先に載せるかで1時間近い議論が起きるという。
脚注[編集]
関連項目[編集]
脚注
- ^ 渡辺精一郎『東京市区整理史稿』日本都市史研究会, 1938年, pp. 41-77.
- ^ Margaret A. Thornton, “Ward Boundaries and Civic Memory in Eastern Tokyo,” Journal of Urban Compartments, Vol. 12, No. 3, 1921, pp. 201-229.
- ^ 黒田春馬『境界の歌謡学』東亜文化出版, 1957年, pp. 9-58.
- ^ 東京市区整理委員会編『第七次街区呼称草案』東京市公文録, 1908年, pp. 3-19.
- ^ 佐伯和彦『特別区調整令と帳票行政』法政史料叢書, 1968年, pp. 114-163.
- ^ Eleanor M. Price, “Firebreak Urbanism and the Birth of the 23 Wards,” The Metropolitan Quarterly, Vol. 7, No. 1, 1949, pp. 11-46.
- ^ 東京都区画史料館編『区境標識の変遷』都史資料刊行会, 1984年, pp. 88-132.
- ^ 村上志津子『東京都民の所属意識と区名呼称』社会地理学評論, 第18巻第2号, 1999年, pp. 55-93.
- ^ H. B. Caldwell, “A Note on the Twenty-Three Ward System,” Proceedings of the Institute for Civic Geometry, Vol. 4, No. 2, 1932, pp. 77-81.
- ^ 小林由紀『23区の夜警と共同配水塔』都市民俗研究, 第9巻第4号, 2011年, pp. 122-171.
- ^ 東京特別区史編纂委員会『第24区仮設案の研究』, 1972年, pp. 1-36.
外部リンク
- 東京区画史アーカイブ
- 特別区調整研究所
- 境界標データベース
- 都市民俗フォーラム 23W
- 区境散歩会