B-29N
| 名称 | B-29N |
|---|---|
| 用途 | 長距離戦略爆撃・高高度観測・夜間都市照明試験 |
| 原型 | B-29系試作機 |
| 初飛行 | 1946年11月17日 |
| 運用構想 | 昼間爆撃と夜間航法訓練の兼用 |
| 製造 | ボーイング社 第14工場(シアトル) |
| 計画機数 | 42機 |
| 現存機 | 1機とされるが所在未確認 |
B-29Nは、末期にで構想されたとされる系列の一型式である。一般にはの後継改良型として知られているが、実際にはとの実験を同時に行うための複合機として計画されたとする説が有力である[1]。
概要[編集]
B-29Nは、社が近郊で進めたとされる特別仕様の爆撃機計画である。当初はの航続距離延長案として始まったが、が「都市の光害に左右されない夜間侵攻訓練」に強い関心を示したため、機体下面に可変式投光板を備える奇妙な設計へと発展したとされる。
この機種の最大の特徴は、尾部の機銃座を撤去した代わりに、と呼ばれる円筒状の区画を設けた点にある。ここでは航法士がを読みながら、前方の都市名を当てる訓練を行ったとされ、のちに民間航空のにも応用されたという[2]。
名称の由来[編集]
「N」の文字については、、、の三説がある。もっとも有力なのは、開発主任の少佐が、試作機の塗装確認の際に「NightのNだ」と述べたのを記録係が誤ってとして残したというものである。
なお、一部の文書ではB-29Nは「B-29Dの後の量産型」とされているが、これはの整備記録にあった“N-type fins”という注記を上司が読み違えた結果であるとする見解があり、機体史研究ではしばしば引用される。もっとも、この読み違いがなければ試作会議は3週間早く終わっていたとも言われる。
開発史[編集]
構想の発端[編集]
B-29Nの構想は秋、のに提出された「夜間着陸訓練用外装灯具」の提案書に遡るとされる。提案者は工学技師で、彼女は「爆撃機は暗闇の中でも見えなければならないが、見えすぎてもいけない」と述べたという[3]。
この一文が各方面に強い印象を与え、結果として航法灯、爆弾倉照明、操縦席の読書灯をすべて独立回路で管理する新型機が企図された。実機では、点灯試験のたびに整備兵が「まるで移動式映画館だ」とぼやいた記録が残る。
量産計画と凍結[編集]
量産はの下請工場を含めて42機が予定されたが、1946年初頭の予算再編で12機に縮小され、最終的には試作3機と教育用2機のみが完成したとされる。もっとも、会計書類上は「完成済み」と記されている機体が9機存在し、実際には機体番号だけが先に印字されていた可能性が高い。
凍結の直接原因は、夜間照明試験中に地上の誘導班が全員まぶしさで目測を誤り、の方向を三度も間違えた事故である。これにより、陸軍航空軍は「爆撃機としては有望だが、周囲の職員の集中力に対する負荷が過大」と結論づけた。
再評価[編集]
には、で開かれた航空展示会でB-29Nの1号機が再公開され、機内照明の色温度を3段階で切り替えられる点が注目された。ここで観覧した民間照明業者のが、機内灯の技術を劇場設計に転用したことで、のちのの間接照明ブームが生まれたとされる。
この再評価以降、B-29Nは軍用機というより「巨大な照明試験機」として語られることが増え、では機銃よりも配線図の方が長く展示される例もあった。
機体設計[編集]
機体は基本的にB-29の流れを汲むが、B-29Nでは胴体下面に「光学安定翼」と呼ばれる小翼が追加された。これは実際には空力にほとんど寄与しなかったが、夜間撮影時に機体影がきれいに写るため採用されたという。
また、与圧室の一部がに置き換えられ、そこでは航法士がではなくを基準に位置決定を行う訓練を受けた。訓練マニュアルには「都市が見えない場合は雲量を疑うこと。都市が見える場合は方角を疑うこと」と記されていたとされる[4]。
最大の奇抜点は、尾部銃座の代替として装備された「受話監視装置」である。これは地上管制との通信を拡大再生するだけの単純な機構だったが、乗員の間では「敵機より管制官の声の方が怖い」と評判だった。
運用[編集]
夜間航法訓練[編集]
B-29Nは主としておよびの夜間訓練で使用されたとされる。乗員は高度7,200メートルで市街地の灯りを観測し、地図上の座標と実際の明るさを照合する演習を繰り返した。
この訓練では、明るい地上目標を「N-スポット」、暗い雲隙を「N-ホール」と呼ぶ独自用語が生まれ、後年の民間航空学校でも採用された。もっとも、訓練中に都市を見失った機長が「方位磁針ではなくレストランの看板に従うべきだった」と記した日誌は、航空史家のあいだでしばしば引用される。
広報と見世物化[編集]
にはので試験公開が行われ、機体腹部から投影される光で機種名を地上に映し出すデモンストレーションが実施された。これは本来は整備確認用の照射試験であったが、報道陣が「空から字を書く爆撃機」と表現したことで大きな話題となった。
この現象は一種の宣伝効果を生み、航空雑誌『Aerial Progress』はB-29Nを「戦後アメリカの最も控えめでない機体」と評した。また、児童向け模型メーカーのは、機銃よりもライトパーツを多く含む限定キットを発売し、予想外の売れ行きを示した。
社会的影響[編集]
B-29Nの最大の影響は、軍事よりもむしろ照明工学と夜間都市計画にあったとされる。市では1951年、B-29Nの機内灯を参考にした「反射率基準」が歩道照明に導入され、いわゆる“まぶしすぎない都市”の先駆けとなった。
また、映画館、病院、鉄道車両の読書灯設計にも影響を与え、では「爆撃機仕様の色温度」という奇妙な分類が一時期使われた。なお、議会公聴会では「航空機が街を照らすのか、街が航空機を育てるのか」という逆転した議論がなされ、記録係が3回も笑いをこらえたとされる[5]。
一方で、B-29Nが夜間照明の象徴として過剰に神話化された結果、都市伝説の題材にもなった。とくに「満月の夜に機内を通すと方位が1.3度ずれる」という俗信は、現在でも一部の退役整備員のあいだで信じられている。
批判と論争[編集]
B-29Nには、開発初期から「本当に軍用機である必要があったのか」という批判があった。とりわけ内部では、戦略爆撃機に投光板や色見本帳を積む合理性をめぐって激しい議論が行われたとされる。
また、試験飛行の記録に関しては、初飛行日をとする文書と、とする文書が併存しており、研究者のあいだで論争となっている。もっとも、整備主任が「どちらの日付でも、少なくとも飛んだことには変わりない」と証言したため、実務上はそれほど問題にされなかった。
さらに、尾部銃座撤去による防御力低下を問題視する声もあったが、B-29Nが実戦投入される前に用途転換されたため、この批判は結果的に空論となった。
脚注[編集]
関連項目[編集]
脚注
- ^ H. J. Curtis, “Night-Compatible Modifications for Heavy Bombers,” Journal of Aeronautical Systems, Vol. 18, No. 4, pp. 221-247, 1947.
- ^ Margaret L. Wendel, “On the Optical Stability of Large Aircraft Under City Glow,” Proceedings of the American Institute of Aeronautics, Vol. 12, No. 2, pp. 88-103, 1946.
- ^ Robert C. Ellison『戦後航空機照明史』東洋航空出版, 1968.
- ^ United States Army Air Forces Technical Memorandum No. 4117, “B-29N Interim Navigation Package,” 1945.
- ^ Eleanor P. Grant, “Nocturne as a Military Designation,” The Aerospace Review, Vol. 7, No. 1, pp. 14-29, 1950.
- ^ 佐伯 恒一『光る爆撃機の時代』北辰書房, 1972.
- ^ A. J. Fuller, “Aircraft Interiors and the Rise of Suburban Projection Lighting,” Modern Industry Quarterly, Vol. 5, No. 3, pp. 61-79, 1949.
- ^ L. B. Haskins『航空機の読書灯と都市政策』港湾社, 1981.
- ^ W. T. Morrow, “The B-29N Problem: A Case of Over-Illumination,” Air History Studies, Vol. 9, No. 6, pp. 310-326, 1961.
- ^ 『B-29N整備日誌抄』シアトル航空史資料館, 1952.
- ^ N. R. Caldwell, “Why Did the Bomber Carry a Color Chart?,” Aviation Curiosities, Vol. 3, No. 8, pp. 5-12, 1954.
外部リンク
- シアトル航空史アーカイブ
- 戦後照明工学資料室
- 全米夜間航法研究会
- ラガーディア飛行場史料集
- ボーイング社社史コレクション